6-4 アンサンブルのパートナー

 真智子が一緒に組んでいるアンサンブルのグループは春休み中からはドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』とシューマンの『アンダンテと変奏Op,46』に取り組むことになっていた。先ずは長井絵梨との二台のピアノの演奏の息を合わせることがとても重要で、ふたりの演奏の息が合っていないと管弦楽の演奏にも影響が出てしまう。どちらの曲も繊細で細やかな曲想なので今まで練習不足だった真智子には明日はまだ上手く弾きこなせないことは明らかだった。真智子は練習不足の経緯を演奏パートナーの長井絵梨に伝えるべきかどうかを迷っていた。長井絵梨は実力があり、いつも練習熱心だったため、春休み中で諸事情があったとはいえ、真智子の練習不足のことでいらいらさせるのではないかと心配だったからだ。経緯を話せば少しの期間は目を瞑ってくれるかもしれない―それとも、どんな経緯も聞く耳なしだろうか―真智子は電車の中で悩んだ末、どちらにしても練習不足だし、下手な演奏で迷惑をかけないためにも先ずは練習不足であることを絵梨に謝ることにし、電車の中からメッセージを送った。


―このところ、プライベートでいろいろあって練習に参加できなくてごめんなさい。明日からは練習に参加できると思いますので、よろしくお願いします―


真智子が家に帰って、携帯を確認すると絵梨から長い返信が届いていた。


―こちらは管弦楽と合流するのは新学期が始まってからということで、ひとりで練習してたから大丈夫よ。明日から練習に参加してくださるってことで安心したわ。このまま新学期を迎えるようになるんじゃ、真智子さんは休学になって新学期からは私ひとりで管弦楽と合流することになるんじゃないかって思ってたところよ。せっかく二台のピアノのための楽譜をもらっているのにね。まあ、今は春休み中だし、お彼岸とか他にも風邪をひいて熱を出す人だってときにはいるから事情があるならしかたないわよね。明日からはよろしくね―


真智子は絵梨の返信を見て、内心慌てて返信を返した。


―こちらこそ、まだ、練習不足ですが、よろしくお願いします。今日、これから、練習して、少なくとも『牧神の午後への前奏曲』は一通り弾けるようにしておきます―


―管弦楽と合流するのはまだしばらくあるし、そんなに慌てなくていいから、明日は来てくださいね―


―はい、必ず行きます―


真智子は携帯を閉じると『牧神の午後への前奏曲』と『アンダンテと変奏Op.46』の楽譜を取り出し、音源プレーヤーを聴きながら両方の楽譜を一通り捲り目を通した。そして、先ずは『牧神の午後への前奏曲』の楽譜を譜面台に置くと、練習に集中した。


 ―夕方になるとチャイムが鳴ったので、真智子は練習を中断し、仕事から帰ってきた母、良子を出迎えた。

「今日は真智子は慎一さんの付き添いで病院に出掛けていたのよね。慎一さんの様子はどうだった?」

「うん。病院で今後の治療についてお医者さまから説明があったよ。その後、ふたりで食事を採って、慎一を芸大まで送った後、明日のことがあるから、早めに帰ってきた」

「そうよね。真智子、このところ忙しかったものね。大学の方は大丈夫なの?」

「アンサンブルでピアノを一緒に弾くことになってるパートナーに連絡してあるし、一応、まだ、春休み中だからね。でも、そろそろ練習に参加しないと他のメンバーにも心配かけるし、練習してたところ」

「いろいろあって大変だと思うけど、あまり無理はしないようにしてね」

「慎一からもしばらくは音大での練習を優先するように言われてるからね。慎一も今日は芸大に顔出してるし、留学の報告とか、これからのスケジュールの相談とかしてるんじゃないかな」

「そうよね。真智子も何かあったら、私たちにも相談するのよ。いつでも相談に乗るからね」

「うん。ありがとう。じゃあ、練習があるから」

「そうね。真智子が慎一さんと同居するようになったら、真智子のピアノが聴けなくなるのは寂しいわね」

「いつでも来れる距離だし、ときどき顔出すからさ。その時にはまた聴けるよ。このピアノは持っていけないし、しばらくここで大事に預かっておいてね」

「これから忙しくなる一方なのに真智子ったら、そんな呑気なこと言って」

良子はそう言うと、居間を出て普段着に着替えると夕飯の支度をはじめた。


―その夜、慎一から携帯にメッセージが入っていた。


―真智子、今日はありがとう。あの後、留学のことでお世話になったグローバルサポートセンターや教務課に顔を出した後、個人レッスン担当の先生に会って、今後のことを相談してきたけど、引っ越しやリハビリのこともあるからしばらくは個人レッスンと芸大の授業に集中するってことになったよ。じゃあ、引っ越しのことがはっきりしたら、また、連絡するから、真智子は自分のことを優先してね。先ずはお互い、無事に新学期を迎えられるようにしないとね―。


―了解です。頑張るね。慎一はくれぐれも体調に気をつけて。また、ふたりで会える日を楽しみにしてるからね―

そう返信を送り、真智子は明日の練習へと気持ちを向けていた。

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