5-7 父の思い

 慎一がピアノを弾き終え、真智子が拍手しようとした時、いつの間にか部屋まで来ていた恰幅のいい男性が先に力強く拍手した。

「慎一、体調は良くなってきたようだな」

「父さん、お帰り。こちら、わざわざ東京からお見舞いに来てくれた高木真智子さん、僕の大切な人だよ」

「はじめまして、高木真智子です。慎一さんとは大学受験の頃、ピアノを一緒に練習していました」

「高木真智子さん、慎一の父の真部直人です。慎一から君のことはさっき聞いたところだ。東京からお客さんが来るから早めに帰るよう連絡があってね。わざわざ東京から一人で来て、ご両親は心配しないのかな?」

「慎一さんが留学先で倒れてこちらに帰っていると聞いて、心配でたまらなくてお見舞いに来ましたが、母には出かける前に伝えてきました」

「そう、お母さんに……。遠くまでよく許してくださったね。でも大学生なら、慎一のように親元を離れて留学する人もいるんだから同じ日本国内ならそれほど遠くないかな。慎一と同じ大学の方かな?それとも別の音大かな?」

「私は芸大は不合格で桐朋短大に通ってます」

「そう。じゃあ、お嬢さんだね。慎一の母親は京都の音大を卒業しているよ。亡くなって、もう、四年近くなるかな。病弱だったが、慎一の教育に熱心でね。君はどことなく面影があるけれど、妻よりはずっと健康そうだ。慎一は随分と君のことを気に入っているようだが、君は迷惑ではないかな?」

「迷惑なんて……迷惑だったら、ここにはいません」

「それならいいんだが……、そちらのご両親のこともあるからね。慎一が留学先で倒れたことについては私は私なりに心配しているんだ。慎一の母親のこともあるからね」

「そうですよね。お父さまは心配で迎えに行ってくださったと慎一さんから聞いてます」

「今までは弟の家から芸大に通わせていたんだが、慎一からピアノが置ける部屋がいいと言われて、今、手配中だが、身体のことも心配でね……」

「あの、私、慎一さんの支えになれるようできるだけ努力します」

「父さん、さっきふたりで一緒に暮らしたいねって話したばかりなんだけど、父さんは賛成してくれる?」

「ふたりがいいなら私は反対しないが、結婚前提ってことでないと賛成はできないし、慎一も真智子さんもそんな重大なこと簡単に決めてしまってもいいのか?」

「僕は簡単な気持ちじゃないし、これからも真智子と一緒にいたいと思ってるし、留学してみて僕には真智子が必要だと痛感したんだ」

「慎一はそれでいいかもしれないけれど、真智子さんの気持ちは?まだ、若いけれど、慎一との結婚を決めてしまっていいんですか?ご両親のことを考えれば、安易な気持ちではいけないと思うんだよ」

「私は今は慎一さんの支えになれるよう心がけようと思ってますし、そこに結婚という選択肢も必要なら、両親のことも説得できるよう、努力します。慎一さんのお陰で音楽への思いも深まりましたし、慎一さんは私にとってずっと憧れのような存在でもあるので、支えになれたら、うれしいです」

「そうですか。ふたりがそういう気持ちなら反対はしないし、慎一には母親が亡くなったことで、辛い思いもかけたし、私も自分のことで精一杯で慎一に音大進学のことも留学のこともまかせっきりだったし、もし、真智子さんがこれからも慎一の支えになってくれるというならそれは有り難いことなのかもしれないが、ふたりでよく話し合ってこれからのことを決めなさい。では、今夜はゆっくりしていってくださいね、真智子さん」

そう言うと、直人は慎一と真智子のふたりを残して部屋を出て行った。

直人と入れ替わるように台所の方からピアノの部屋に美津が来た。

「お話のところすみませんが、食事の支度ができたのでそろそろ食卓の方へいらっしゃってくださいませ」

「ああ、すぐ行くよ。真智子、食卓はこっちだよ」

慎一はそう言うと居間のすぐ隣りのダイニングルームに真智子を案内した。テーブルの上にはちらし寿司や鯛、菜の花の和え物などが並べられていた。

「わあ、美味しそう」

真智子は思わず声をあげた。

「美津のお料理は天下一品だからね」

「ふたりともお世辞はそれぐらいにしてお食べくださいな」

ふたりが席についた後、美津が席に座り、普段着に着替えてきた直人も席に座った。その日の夕食のひとときは和やかに過ぎていった。真智子はこれからのことを思い巡らせながら、美津や直人にもうすでに家族の一員のように迎えてもらったような空気が嬉しかった。


 夕食後、美津が準備してくれたお風呂に入った後、その日の夜は美津に案内してもらった部屋でいまひとつ寝付けない夜を真智子は過ごした。慎一とは今後のことは明日改めてよく話そうということになった。真智子はまだ慎一のリハビリの状況など実際のところよくわからなかったし、直人や美津が心配そうにこちらの様子をうかがっているのも気になり、出しゃばりに思われるような行動は慎むべきだと思った。それより、自分の決心を固めることが先決だ。東京に戻ったら、両親のことも説得しなければならないし、まだ学業中ということもあるから、課題は山積みだ。そんなことを悶々と考えているうちに旅の疲れが少しずつ出てきたせいか真智子はいつの間にか深い眠りに落ちていった。

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