5-6 ショパンの『ノクターン』
慎一の側でしばらく休んだあと、真智子は荷物を置いた部屋に戻ったが、手持ちぶさただったので縁側に出て庭のようすを眺めていた。一際目立つ梅の樹の花はもう散って緑の若葉が芽吹いている。可愛らしい紅い椿の花も春の光と一緒に風に揺れている。
―ちょうどその時玄関から家政婦の美津が買い物から帰ってきたらしい音がしたので、真智子は咄嗟に玄関の方に足早に向かった。
「お帰りなさい」
「あら、どうされましたか?」
「慎一さん、少し疲れたみたいでさきほどお部屋で休まれました」
「そうですか。きっとあなたに御会いできて安心されたのでしょう。真智子さん、でしたよね?どうぞ、寛いでさきほどお通しした居間でテレビでも見ていてくださいね」
「あの、私、さしでがましいかもしれませんが、夕飯作りお手伝いします」
「そうねえ……。うれしいけれどひとりで準備するのに慣れているので今日は遠慮させてくださいね。……まだ少し時間があるからテレビでも見ながら、一緒にお茶でも飲みましょうか。ちょっと待っていてくださいね」
美津は台所に行くと冷蔵庫に買い物してきた食品を片付けはじめた。真智子は掘り炬燵に入り直すと二人分のお茶を徐に用意した。
「なにか見たいテレビはありますか?」
美津はお菓子の箱を持って部屋に入ってくるとテレビのリモコンを手にすると言った。
「あ、いえ……なんでもいいです」
「じゃあ、一緒にお菓子でも食べましょうか」
「このわらび餅、奈良の名物なのでわざわざわ買ってきたんですよ」
美津は二人分のお皿に分けてわらび餅を置いた、
「お茶は私が入れますね」
真智子は急須にお茶の葉っぱを入れながら言った。
「慎一坊ちゃんは一昨日、退院したばかりだから、まだ疲れやすいようですね」
「あの……病気の方は順調に回復しているのでしょうか?」
「そうですねえ……、帰国した時はそのまま病院に運ばれて入院したのでその頃よりは随分と良くなりましたけどまだ一ケ月ちょっとしか経ってないので充分に回復されたとはいえないと思いますよ。だけど、四月からは大学に戻るそうで、早めに退院されたご様子ですね。東京の病院に通院しながら、リハビリもするそうで……私にはご病気のことはよくわからないんですけどね」
「私も今日、電話をもらうまで病気のことは知らされていなかったんです。なので驚いてしまって……」
「そうでしたか……。それにしてもあなたは慎一坊ちゃんのお母さまに似ていらっしゃるようなところ、ありますね。お顔を拝見して思いましたけど。でもお母さまの由紀子さんよりずっと健康そうで若々しいですけどね」
「慎一さんにもさっきお母さまに少し似ているって言われました」「慎一坊ちゃんは僕の彼女が来るからって言ってましたけど、真智子さんは東京で慎一お坊ちゃんとお付き合いしているんですよね?」
「はい……」
「真智子さんは東京からわざわざおいでくださったんですよね。東京に戻ったら、慎一お坊ちゃんのことよろしくお願いしまね。どんな方が来るかと思っていましたが、良い方みたいで少しほっとしました」
真智子は一瞬言葉に詰まった後、気を取り直し、少し改まってお辞儀した。
そのあとしばらく、真智子は美津がとりとめもなく話す昔話に笑顔でを打ちながら耳を傾けていた。幼い頃の慎一を知っているせいか美津はまるで息子のことを話すように慎一のことを話す―。
「さて、そろそろ夕飯の支度をしないといけないですね。真智子さんは今日はお客さんなんだから、そこでゆっくり寛いでいてくださいね」
一頻り話した後美津は立ち上がり、台所に入ると夕飯の支度をはじめた。真智子は手持ち無沙汰でなんとなくテレビを見ているのは気兼ねして、慎一の様子を見に慎一の部屋へ向かった。真智子が慎一の部屋に入ると慎一は目を覚ましていた。
「ごめんなさい。眠っていたのに起こしちゃったね」
「いや、父も帰ってくるし、そろそろ起きた方がいから……。少しずつね、リハビリしながら生活を変えていかないといけないからね」
「東京に帰ってからしばらく大変だね」
「そうだね。ところで父がそろそろ帰ってくるはずなんだけど、予定がはきりしなくてね。真智子とのことはもちろん、これからきちんと父に話すつもりだよ」
「お父さん、私たちのこと喜んでくださるかしら……」
「僕は父の本心はよくわからないから……でももし、反対されても必ず説得するよ。それに真智子のご両親のこともあるよね」
「私の両親のことはまずは私に任せて。今は慎一は自分の身体のことを第一に考えて無理はしないでね。病気がぶり返したりしないように養生しないと……。あ、ところでそろそろ夕飯よ。さっき美津さんと少しばかり話したりしたけど、美津さんっていい方ね」
「ああ、みっちゃんにはいろいろと世話になっているけれど僕のもうひとりの母みたいな人だからね」
「みっちゃんって呼んでいるのね」
「そうだよ。みっちゃんなんて言ってた?」
「お付き合いしているんですよねって言われたわ」
「そう、それだけ?」
「東京に戻ったら、慎一お坊ちゃんのことよろしくお願いしますって。慎一のもう一人のお母さんなのね」
「うん。仲良くしてね」
「お夕飯作るの手伝いますって言ったんだけど、一人で準備するのに慣れてるって言われて……」
「真智子は今日はお客さまだから気にしないで。さて、そろそろ居間の方に戻ろうか」
ふたりは居間に戻ると徐に炬燵に入った。
「ところで、今日はもちろんここに泊まるんだよね」
「ええ、図々しいけどそのつもりで来たわ。あまり何も考えてなくて……ただ慎一に会いたい一心で来ちゃった」
「そう、よかった。それなら明日は散歩がてら奈良の街をほんの少しだけ案内しようか」
「でも身体は大丈夫?」
「散歩がてらだから、無理はしないよ。それから、東京へはいつ戻る?」
「そうね。少し頭の中も込み入ってるからどうしようかな。アンサンブルの練習のこともあるし……」
「しばらくここにいてくれて、一緒に東京に行くということでもいいんだけどね。そういう訳にはいかないよね」
慎一は少し真智子をからかうように言った。
「ところで、慎一のピアノも久しぶりに聞かせて。さっき聞きたかったんだけど、慎一が疲れていたみたいだったから。それとも今はまだ退院したばかりで無理かな?」
「ひと眠りしてすっきりしたし、昨日も指慣らしで練習したし、いいよ。体力的にはまだ万全とは言えないかもしれないけど、是非、聞いてよ」
慎一と真智子は一緒にピアノの部屋に入った。
「じゃあ、ふたりの再会を祝して」
慎一はピアノの前に座り深呼吸した後、しばらくじっと鍵盤を見つめ、ショパンの『ノクターン第8番変二長調』を弾き始めた。
※ショパンのノクターン第8番 Op.27-2 変ニ長調
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