3-5 冬から春へ

 真智子も慎一もセンター試験を無事に終え、二月末近くの芸大入試の検定試験1回めの出願資格を得た。課題曲はaベートーベンのピアノソナタとbショパンのエチュード。そしてその試験に合格すれば、三月初旬の2回めの検定試験に出願できる。1回めの試験と2回めの試験の間がそれほどないので、1回めの課題曲もあらかじめ決めて練習する必要がある。二回めの課題曲はaベートーベンのピアノソナタの1回めで弾かなかった曲とbシューベルト、ウェーバー、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、ブラ―ムスの中から一曲、cフォーレ、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフ、バルトークの中から一曲と定められているので、ふたりとも五曲すべてを決めて、取り組む必要があるが、ふたりとも以前からの練習状況を考慮し、ほぼ次のように決めていた。


実技試験の課題曲の選曲


真部慎一

1a ベートーベン ピアノソナタ 第14番『月光』

1b ショパン エチュード Op10-4嬰ハ短調

2a ベートーベン ピアノソナタ 第17番『テンペスト』

2b シューマン/リスト 『献呈~君に捧ぐ』

2c ドビュッシー『ピアノのために プレリュード』


高木真智子

1a ベートーベン ピアノソナタ 第2番

1b ショパン エチュード Op25-1 『エオリアンハープ』

2a ベートーベン ピアノソナタ 第10番

2b シューベルト 即興曲変ホ長調 Op90-2

2c ドビュッシー 『ベルガマスク組曲 プレリュード』


 課題曲をふたりで交互に弾いて練習に励み、1回めの実技試験当日を迎えた。結果は慎一は合格で真智子は不合格。それでも真智子は精一杯頑張ったので、悔いはなかった。慎一は三月初旬の2回めの実技試験に向けて曲を絞り、一方の真智子は三月中旬に行われる桐朋短大の実技試験に向けて、芸大に向けて選曲した曲の練習を続けた。そして、慎一は芸大の2回めの実技試験も合格。入学手続きをして晴れて芸大へ進学することになった。一方の真智子も卒業式を終えた後、桐朋短大の実技試験を受け、最後の最後まで頑張ったかいがあり、合格。慎一に続いて音大進学への願いを叶え、道を切り開いた。


 ―気付けば、すでに春休みになっていた―。


 真智子と慎一は桐朋短大の合格発表を一緒に見に行った後、仙川駅から新宿に出て手頃なレストランで軽食をとり、お互いの合格を祝い、これからのことを話した。慎一はピアノを置けるマンションを見つけ、奈良からピアノを持ってくる手配のことがあるから、一度、奈良に戻らなければならないことを真智子に告げた。そして、その後、少し軽い調子で慎一は言った。


「真智子も一緒に奈良に遊びに来る?」

「えっ?」

慎一の突然すぎる申し出に真智子は一瞬、慌てて次に続く言葉を失い、考え込むように押し黙った。

「奈良って観光地としても有名だし、ちょっと旅行するのにも丁度いいと思うんだよ」

「確かにそうだけど、今までピアノの練習のことで頭が一杯で全然、考えてなかったし……、女友達との旅行なら両親も許してくれると思うけど」

「まあ、確かに、突然すぎだよね。受験、終わったばかりだし。でも真智子と旅行できたらってふと思ったんだ。それに大学に通うようになったら、今までのようには会えなくなるだろ?」

「ごめん。今はまだちょっと考えられない」

そう言いながら、真智子の胸はぎゅっと締め付けられるような思いで苦しくなった。


「確かにそうだね、急すぎたね。じゃあ、今回はやめとく。そのうちね。そのかわりって訳ではないけど、引っ越し先が落ち着いたら、一度、遊びに来ない?」

「それでもいいけど、引っ越しが春休み中なら、手伝いに行くよ。慎一には受験のことでもたくさん、お世話になったから、そのお礼も兼ねて」

「それは助かる。じゃあ、詳しいことが決まったら、携帯に連絡するよ。叔父の家から引っ越しすることはまだ正式には父から了解をもらえていないからね。そのためにも奈良に一度、戻らなければいけないんだ。芸大に受かったから父は了解してくれると思うけどね」

「そういえば、留学のことはどうするの?」

「父から言われた留学先だと一般留学になるけど、芸大の交換留学制度を利用する方法もあるから、そのことも父とよく相談しようと思ってるんだ。それに一学期を終えた後、すぐに留学ってことになると引っ越しも許してくれないかもしれないし、留学期間のこともあるから、よく相談しないとね」

「いろいろ大変だね」

「とにかく、詳しいことが決まったら、必ず、連絡するから」

「うん。わかった。慎一からの連絡が来るの、待ってるからね。一緒に奈良には行けなくてごめんね」

「真智子も四月からは桐朋短大に通うんだし、いろいろ、準備しなければならないよね」

「私は、もう、準備っていっても心の準備ぐらいで……。あ、まどかや修司にも合格の報告がてら連絡とろうと思ってるけど」

「そうそう、修司が卒業式の時、真智子のこと心配してたから、連絡したら、喜ぶと思うよ。修司は春休みはサッカーの練習試合で忙しいらしいけどね」


―そういえば、修司とはずっと話していなかった。芸大不合格のことも連絡しなかったし……。まどかとはまどかから合格の報告があった時に連絡を取り合ったけど……。この三ケ月近くずっと必死だったからな―。


真智子がそんなことを思い巡らしていると、慎一がぽつりと言った。

「真智子や修司に出会えて、ほんとうに高校生活が充実したよ」

「……そう、引っ越しのことが決まったら、修司にも手伝いに来てもらったら?修司、力持ちだから、きっと引っ越しが捗るよ」

「うん……。修司、忙しくないかな」

「忙しいっていっても、春休み中はアルバイトとかをはじめる人もいるぐらいだから、もしかしたら、都合をつけてくれるかもよ」

「そうだね。大学に入るとなかなか会えなくなるから、考えてみる。とにかく父との相談次第のこともあるからね」


 ふたりは食事を終えると新宿駅に戻った。外の景色は少しずつ春の装いをはじめている。光が丘方面の電車に乗り、練馬駅に近く付くと、慎一は落ち着いたら必ず連絡することを真智子に念押しし、駅のホームに到着すると電車を降りた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る