2-8 それぞれの思い

 その日、下宿先の叔父の家に戻った慎一は部屋に入りひとりになると先程真智子が言っていたことを思い返した。

―慎一は音楽への思いを大事に留学のこともどうするか考えていけばいいんじゃないかな―。

真智子に言われてみて、改めて思ったのだが、母がもし、生きていたら、真智子のように留学のことも応援すると言ってくれただろう。母はもしかしたら、一緒についてくると言ったかもしれない―。母が生きていたら、こんな風に父から逃げるように早々と叔父の家に下宿させてもらうこともなかったと思うし、そうすれば、真智子とも出会うこともなかったかもしれない―。そう思うと胸が詰まるような息苦しさが生じ、慎一はなんだかとても悲しくなった。とにかく父から言われている以上、留学のことも念頭に入れなければならない―。少なくとも自分自身のために―。そして、留学すれば、真智子とは一旦、離れ離れになる―。一年後に帰ったら、会えるかもしれないと真智子は言ったけど、留学後のことはどうなってるかなんて想像もつかないし、一年後に帰ってこれるかどうかだって、わからない―。でも、その気になれば、帰国はできるはずだ。そこまで考えて、慎一は父が留学のことを強く勧めた理由がわかった気がした。仕事の取引先への影響のこともあっただろうが、慎一に住み慣れた日本を離れてでも音楽の道に進む覚悟があるかどうかを父なりに確認したかったのだと思う―。そして、プロになった時に国際的な場で演奏できる場を切り開くことを願う気持ちも少なからずあるのだろう―。そう思えば、真智子の言うように頑張るしかないし、悲しみに浸る時間も今の自分には与えられていない。突き詰めて考えればそういうことなのだと思いながらもそう簡単には気持ちは切り替えられない―。とにかく先ずは芸大に受かることが先決だ。芸大に受かれば、留学のことも一年以内で限定できるはずだ―。


 慎一はそこまで考えると先程までの先が見えないどんよりとしたような思いから解放され、気持ちが幾分軽くなったような気がした。

―今まで頑張ってきた成果をしっかり出せるようこれからも努力するしかない―。

そう、覚悟が決まると慎一は強い眠気に襲われ、いつの間にか深々とした眠りについていた。


 一方、真智子はひとりになると慎一とは受験が終わったら、離れ離れになることが改めて寂しくなった。確かに心の何処かで覚悟していたことではあったのだが、音楽を通してこれほど真剣に一緒に向き合える仲間が真智子にはそれまでいなかったから余計に寂しさが募る―。でも、離れ離れになってもそれぞれの進学先で新しく気が合う仲間に出会い、今、こうして頑張っていることは思い出に変わっていくのだろう―。結局、慎一が留学したら、私は慎一が留学先でも元気に活躍することを願うしかないけれど、その気持ちは大切にしていこう―。そうすれば、どんなに離れても音楽仲間としての心の絆は保っていける気がする―。たとえ、そのまま会えなくなったとしても―。そう思いながら、真智子は夜空を見上げた。冬へと向かう空はどこか透明感のある静けさに包まれている―。


―何万光年も離れた場所にある星の光が晴れた夜にはこうしてすぐに見れるのに、慎一が留学して離れ離れになったら、私たち、今度はいつ会えるかどうかわからなくなるんだ―そのことを覚悟しなければならないんだ―と思うと真智子の胸に不意に切ない気持ちが湧き上がってきた―。そして慎一が真智子と離れたくないと言った意味を噛み締めるような思いで真智子は実感したのだった―。

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