1-5 ショパンの『黒鍵のエチュード』

 その日、真智子が音楽室に行くとまだ、慎一の姿はなかった。

―真部君、今日は来るかな?


―ショパンの『黒鍵のエチュード』―。

このエチュードにはリストが当時、初見では弾きこなせなかったというエピソードがある。


―私も練習しないと弾けないけど、真部君はどうだろうか―。

そんなことを思いながら鞄から楽譜を取り出し、広げた。


―先に練習するの、なんだか気が引ける。最近、練習しはじめたばかりの曲だし―。

そう、思いながら、真智子は慎一が来る気配がないので、おもむろに練習をはじめた。どうしてもつっかえてしまう箇所があって、そこの箇所を何度も練習している時、慎一が音楽室に入ってきた。


真智子は慎一が入って来たことにすぐに気付いて、ピアノを弾く手を止めた。


「今日は『黒鍵のエチュード』なんてどうかなと思って。私はまだ、弾きこなせていない曲なんだけど、真部君はきっと弾けるよね」

「もちろん」

「初見で弾けちゃったりした?」

「さあ、どうだったかな……。忘れた。僕のピアノの先生は母だったし、小学校の頃は母から曲を与えられるまま弾いてたからね」

「真部君にとってお母さまの存在って今でも大きいんだね」

「まあ……ね。ピアノには母との思い出がたくさんあるからね。ピアノを弾くたびに思い出すっていうか、今でも僕の心の中では母は生きているからね。怒られたこととかもね。そういえば、この間、高木さんの弾く『アラベスク』を聞いてた時もいろいろなこと思い出したけど」

「そうだったね」

「ところでさ、せっかく一緒に練習することになったんだからお互い苗字で呼び合うのやめない?」

「えっ、そうだね。じゃあ、慎一君でいい?」

「まさか!もちろん、呼び捨てで慎一でしょ」

「そうだね、慎一」

「そう、それでいいよ」

「そっか……。きっとお母さまが慎一って呼んでたのね」

「まあ、それもあるけど、クラスでは真部君って呼ばれているからね。君は特別だから……、少なくとも君と僕は音楽室でピアノを弾く仲間でしょ?」

「うん、そうだね」

「僕は転校してきたばかりだし、君には他にも仲間がいるかもしれないけどさ」

「えっ……。まあ……」

真智子はまどかと修司のことが少し頭をよぎって言葉を濁した。


「とにかく、僕も君のこと、真智子って呼んでもいい?」

「いいよ。もちろん」

「じゃあ、真智子、『黒鍵のエチュード』、頑張って弾いてみて。僕は側で聞いてるから」

「つっかえるところがあるけど……」

「つっかえたところはそのままにして、最後まで弾いてみて」

「はい……」

真智子は『黒鍵のエチュード』の楽譜を見ながら、なんとか最後まで弾き終えた。


「じゃあ、次は僕の番。最後までよく聞いて曲の流れを掴んでね。僕はいろいろな曲の楽譜を見る前に母が弾いてるのを何度も聞いてるから弾けるんだよ。生まれる前からね」

慎一はそう言うと、『黒鍵のエチュード』を弾きはじめた。


「わかった、曲想を覚えて弾き慣れるとスムーズに弾けるようになるんだよね」

慎一の流暢な演奏が終わると真智子は言った。


「そう。だから真智子は今日はもう少し聞き役ね、その後、練習もすればいいし。楽譜を持ってきているぐらいだから、まだ、練習しはじめたばかりなんでしょ?」

「うん。初見からすぐに弾けるようになるのも大事みたいだから、まだ、練習中のこの曲にしたの」

「早く弾けるようになるといいね」

そう言うと慎一は再び『黒鍵のエチュード』を弾きはじめた。


 慎一の演奏は上手いというだけでなく、聞き入れば聞き入るほど胸に迫る迫力がある。


―私もこんな風に弾ければいいのに―。


真智子は幾分、胸苦しさを覚え、頬杖をついた恰好で俯いた。慎一がピアノを弾き終えても深々と物思いに耽った様子で俯いたままの真智子を見て慎一は心配そうに言った。


「真智子、どうしたの?具合でも悪くなった?」

はっと我に返って顔を上げると真智子は言った。

「ちょっと考え事をしていただけ」

「ごめん。プレッシャーかけちゃったかな?」

「そんなことないけど……」

「まだ、知り合ったばかりでこんなこと言うのもなんだけど、真智子はさ、もっと自信持っていいと僕は思うんだよ。さっきの黒鍵のエチュードはまだ練習中ってだけで、昨日のエチュードもアラベスクもとても繊細にまとまっていてシックだったよ」

「そうかな?私の演奏って繊細でシックな感じなのかな?」

「少なくとも僕はそう思うけど、真智子のピアノの先生とかにも言われなかった?」

「私のピアノの先生は、迫力が足りないってよく言ってたかな……。サッカー部のマネージャーはじめてから、忙しくなってやめちゃったけど。それからは自己流で練習を続けてきたから、音大に進学するのは無理なのかもしれないけど」

「だから、さっきも言ったように今のままでも充分だし、こうして一緒に練習することになったんだから、大丈夫、一緒に頑張ろう!」

「そうだね。ありがとう……」

そう言った真智子の目からこみ上げてきた一滴の涙が頬をつたった。

「……」

慎一は咄嗟の涙に何も言えず、佇んでいた。

「ごめんね。びっくりさせちゃったね……」

真智子は恥ずかしそうに涙を拭くと俯いた。

「……ちょっと、言い過ぎたかな……」

「そんなことないよ。繊細でシックな感じって言ってくれて嬉しかった」

「そっか……。真智子のピアノの先生って嫌な奴だったんだな」

「慎一のピアノの先生はお母さんでしょ。いいな」

「まあね。ところで、今、思い出したんだけど、学校の用で音楽室も使えない日もあるかもしれないし、クラス別々だから、何かと用事ですれ違うこともあるかもしれないから、携帯のアドレス、交換しておかない?」

「そうだね。その方がいいね」

慎一と真智子はそれぞれ、携帯を取り出すとアドレスを交換した。

「じゃあ、練習を再開しようか。真智子、黒鍵のエチュード、もう一度、弾いてみて。僕は側で見てるから」

真智子がピアノの椅子に座ると慎一はその側に立った。真智子はまだうろ憶えの楽譜に目線を向けつつ、意識を指先に集中させ、ピアノを弾きはじめた。


「『黒鍵のエチュード』は念のため、明日も弾こうか」

「うん。もう少し練習しないと弾けるようにならないと思う」

「他にも何か考えてくるけど、そういえば、真智子が受ける桐朋はもう、課題曲は発表されてるよね」

「うん。発表されてるけど、桐朋といっても私は実は短大を受ける予定なの」

「そっか、てっきり大学の方だと思ってた。じゃあ、もう、真智子のレベルなら受かったようなもんだね。まあ、問題はお互い芸大なんだけどさ。私立も一応受けるけど、僕は四大だよ。真智子が桐朋の短大受けるなら、桐朋にしようかな」

「慎一は確か、留学の話もあるって……」

「確かにあるけど、父が勝手に言ってるだけで僕はあまり気乗りしないんだ」

「お父様が……」

「まあね……。ところで、そろそろ帰ろうか。もう、暗くなってきたし」

「ホントだ、慎一と練習してると時間が経つのが速く思える」

「僕は真智子と練習してると楽しいよ」

「慎一は余裕だからね。私立はどこでも受かりそうなレベルだし」

「余裕ってわけでもないけどね」

そう言うと慎一は少し押し黙った。

「ごめん、なんか私、自分のことで精一杯で……」

「とにかく、今日はもう、帰ろうか」

二人は帰り支度をして音楽室の電気を消すとすっかり暗くなった廊下に出た。

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