第07話 暁を前に語らう

 履きなれた運動靴の蝶々結びを解いて、紐を緩めてから足を入れる。それからしっかりと引っ張って、今度はきつく靴紐を締める。

 それで、もう一度。師匠せんせいに教えてもらった結び方で結びなおす。曰く、蝶々結びよりも解けにくいらしい。イアン・セキュア・ノットというんだよ、と得意げな顔で言っていた。ただし、その意味はよく知らないんだけどね、とも言っていたけど。


 少し、少しだけ、眠い。

 気を抜くと思わずふわあ、と欠伸が出てくる。それに呼応するみたいに、右耳のイヤーカフからジジッとノイズ音が走った。


「『あー、あー、テステス。――おや、ナナミ君。まだ眠そうだね?』」


 イヤーカフを通して聞こえてくる、師匠せんせいの声。時間帯を鑑みると、いつもと何一なにひとつ変わらない声色なのが不思議だ。


「『もうひと眠りするなら、目覚まし時計になろうか?』」

「……有難い申し出ですけど、謹んでお断りしますよ」

「『だよね。そう言うと思ったよ』」


 ふふ、と耳触みみざわりの良い笑い声で、なんだかくすぐったい気分がする。原理としては、疑似的な空気の振動しかないはずなのに。

 遠隔地における連絡用にと貰った、白い花のイヤーカフ。

 耳飾りがついになっていることを利用した魔道具、って言っていたっけ。装備、というとなんだかロールプレイングゲームみたいだけど。まあ、着けている人同士が、電話みたいに会話できる代物シロモノ、らしい。


「……朝から元気ですね」

「『朝、というか夜――丑の時が過ぎたくらいの夜中だね』」


 目の前の玄関扉の向こうは、夜闇の街が広がっている。

 最後に見たデジタル時計の表示は、午前三時十一分じゅういっぷんを指していた。今は多分、二十分前にじゅっぷんまえくらいといったところだろう。


「昔だったら……なんだっけ。こういう時間帯を、あかつき、っていうんでしょうか」


 なんて言ってみたけれど。つまるところ、皆が寝静まっている夜中には違いない。こうして話すだけでも、小さく囁くくらいの声で、静けさを乱さないように細心の注意を払って。


「『詳しいね、確かにそうだとも。……日本語ならではの美しさだね。予想でしかないけれど、他の言語とは違った観点で、自然を見ていたことに起因するんじゃないかな』」

「そう、ですね」


 靴紐の結びなおしが両足とも終わった。立って、ぐーっと縦に伸びてから、身体を左右に倒して筋肉をほぐす。


「……でも長くなりそうな話は、また後で。ゆっくりしません?」

「『……そっか。うん、構わないよ』」


 僕の提案に、少し思案したような沈黙。それでも深く問わずに肯定をするのが、なんとも師匠せんせいらしい。


「『ナナミ君がそれを望むなら。そうだね、また時間を設けることにしよう』」

「よろしくお願いします。……楽しみにしてますね」


 足首を回したりしつつ、思う。

 ちゃんと、笑えているだろうか。見えないこの世界の結末の先を、ちゃんと願っている振りができているだろうか。

 できていれば、いい。


「『ああ、楽しみにしていてほしいな。私もうんと奮発して、美味しい茶葉と美味しいお菓子を用意するからね!』」

「そりゃ楽しみですね。というか、そんなにも自ら評価のハードルを上げていきますか」

「『そうだね。……だってそうでもしないと、ほら、ね?』」


 君は今にも、泣いてしまいそうじゃないか。


 師匠せんせいが寂しそうに言うので、思わず動きが止まる。なんだか視界がぼやけて見えるのは、たぶん欠伸あくびをしすぎた所為せいだ。なんてどこか他人事のように僕は聞いている。


「……覗き見ですか。悪趣味ですね?」


 だから、ではないけど、そんな言葉しか返せなかった。だって、僕と師匠せんせいの間には音声信号を繋げるだけのイヤーカフしか存在していないはずだ。

 こすってぼやけを拭い取ると、視界がすっきりとした。


「『だって、自称探偵だからね』」

「だから……はー、もう。自慢することじゃないと思いますよ、ソレ」


 いつかみたく自信満々といった声音。キメ顔で言っている姿がありありと目に浮かぶ。


「『それについては、これからも無言を貫いていく所存だけれど……』」


 無言ノーコメントか。無言ノーコメントなのかよ。

 といいつつ今回は返答しているのはどういうつもりなのか尋ねてみたくはある。


「『私は、そっちの顔のナナミ君の方が好きだよ』」

「……はあ」


 こうやって唐突に褒められると、いや褒めてないのかもしれないけど、上手い返しが見つからなくなる。

 こういう時は、何と返すのが自然だっけか。


「『寝惚ねぼまなこでもなく、泣きそうでもなく。まるで悪戯を仕掛けた後の子どもみたいな……』」

「悪戯を仕掛け後の……なんです?」

「『いや? ……笑顔の方が、ってね』」

「褒められた、と思うんですけど。何でこんなにも嬉しくないでしょうね」

「『うーん、何故だろうね。そういう年頃なのかもしれないなあ』」

(これだから顔面偏差値が高めの優男は……!!)


 握った拳にちからが入る。

 隣に居なくてよかった。もし居たとすると、寝惚け半分で自制か利かなくて、一発いっぱつといわずに二発にはつぐらい殴っていたかもしれない。


「『さてと。おはようGood Morning、ナナミ君。どうかな、目は覚めたかな?』」


 なんだ、足止めをしていた訳じゃなかったのか。僕が眠たいのも、頭が回ってないことも予想済みでの対応、ね。


(これだから、師匠せんせいは)

「ぐっどもーにんぐ、です、師匠せんせい。……ようやくエンジン掛かりましたよ」

「『じゃあ、……そろそろ行くかい?』」


 息を吸って、吐いて。

 それから頬をぐにーっと引っ張って無理やり笑顔を作った。


「はい。付き合ってくれますか、師匠せんせい

「『勿論だとも』」


 宵闇の中向かう目的地は、御影みかげの中央に位置するシンボリックな建物――御影タワー。


 ふと、振り返って家の中を見る。

 寝静まり、人の気配のない廊下。普段の喧騒が家出した部屋。もう一度いちど、いつも通りにただいまって戻ってこれるかは、分からない。


「……絢香アヤカ風太フウタ勇人ユウトリン、それに――早苗サナエ先生」


 それでも、確かめたい事がある。だから。


「いってきます」


 静かに家の扉を開けて、夜の街へ出た。

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