クズになりたい
皆さんには、憧れるものがありますか?
こう質問したとき、きっと多くの方が「ある」と答えるのではないかと思います。
夢や目標を見つけるのは難しいと思われることもありますが、ただ憧れを抱くだけなら、そう難しいことではないのではないでしょうか。
かくいう私にも憧憬はあります。沢山あります。変化したり、増えていったものも少なくありません。
ですが、時にそれが妬み嫉みのように歪んでしまったり、そういったネガティブな感情と綯い交ぜになったりしてしまうこともあります。あるいは、憧れたもの自体が、社会的に『善くないもの』であることや『共感に値しないもの』であることもあります。
そして、今、私はまさしく『善くないもの』に対して憧憬を抱いているのです。
私が『善くない』憧れを抱いたきっかけは、祖母にあります。と言っても、祖母に責任があるわけではありません。祖母は善良で温厚な人です。他人に感謝されることはあっても、憎まれたり、恨まれたりすることとは無縁の人間のように私には思えます。
そんな祖母が初めて転倒したのは、六、七年ほど前のことになるでしょうか。
矍鑠としていた祖母は、しかしその頃から転倒を繰り返すようになりました。階段をのぼると転び、平地でも転ぶようになりました。
原因はパーキンソン病によるものでした。手足の震えや運動を制止する機能が低下し、正常な歩行姿勢を保つことが難しくなっていたようです。
それから祖母は、精神的にも気鬱になっていき、気持ちと並行するように、身一つでの移動は歩行器での移動に、歩行器での移動は車椅子での移動に変わっていきました。
祖母は時折ぶつぶつと何かを呟きます。最初は「辛い」「死にたい」といったものがほとんどでしたが、あるとき不可解なものが混ざり始めました。
それは最初、ゴミ箱を指差し「猫だ」と訴える形で表出しました。衣服についた毛玉を「虫」と誤認することもあれば、背後に人の気配がある素振りを見せることもありました。それは次第に悪化していき、「トイレの窓から人が覗いてる。あれが見えないの?」と恐怖心をあらわに訴えるようにまでなりました。
これらは典型的なレビー小体型認知症の症状です。「認知症」というワードからは、一般的にアルツハイマー型をおもい浮かべる方が多いと思いますが、認知症にも幾つかの種類があり、レビー小体型は三大認知症とされる認知症のひとつだと言われています。
レビー小体型の原因は、まだ明確には解っていませんが、脳にレビー小体という蛋白が溜まり、脳の神経細胞が徐々に減少していく認知症だそうです。
私やその家族は、このレビー小体型認知症を患った祖母の介護を続けてきました。その負担は実際のところ、深刻なものではありませんでした。レビー小体型認知症の特徴の一つであるパーキンソン病は、非常に厄介な病ですが、祖母に処方されている薬はどうやら本人の身体と相性がいいようで、著しく体調が悪化することはありませんでした。幻覚症状には戸惑いましたが、多少の気疲れを感じる程度でした。
ところが、近頃はひどく症状が悪化してきたのです。
レビー小体型には、「三徴」とも呼ばれるように、幻視、パーキンソン病の他にもうひとつ特徴的な症状があります。
それが認知機能の変動というものです。
これは周囲の状況に対する認識、会話の理解力が低下します。
祖母の場合ですと、会話の受け答えはほぼ不可能になります。具体的には、話しかけても反応がなく、ティッシュやエプロンのしわなどをずっと気にしている様子で、食事を摂取させることも難しくなります。また尿意や便意をもよおした場合に、トイレではなく、車椅子やベッドの上で、下着やオムツを脱ぎ用を足してしまうといった具合です。
そして、この認知機能の変動のややこしいところは、正常に近い認知機能をもった状態が存在することです。この状態にあるとき、客観的に祖母が認知症を患っているようには見えません。受け答えは明瞭としており、アルツハイマー型のような忘却もなく自他を誤りなく認知できます。間違い探しなどをさせると、多少の間違いはあっても、差異を識別できていることが判ります。
私のいう症状の悪化とは、この認知機能の変動による悪い状態が頻々とあらわれるようになったことです。
現在、私は高齢者に対するケアメソッドの一つであるユマニチュードを実践中で、その効果を実感できていますし、家族で協力して介護を続けていますが、どうしようもなく苛立ち、すべてを投げだしたくなってしまう瞬間があります。
しかし、ティッシュや自分の指を食べてしまったり、口の中にある食べ物を水と誤認してうがいをしようとしたりするので、特に食事の時間は目を離すことができません。トイレも立ちあがる際に転んでしまう場合があるため、注意を怠るわけにはいきません。
今では、祖母とコミュニケーションをとることはほとんどできません。
祖母がなにを考え、何のために不可解な行動をとるのか解らないのは、とても辛いです。
「祖母が死んでしまってもいいんじゃないか」
そう思ってしまうときがあります。そんな自分が嫌です。
私は祖母を愛していたつもりでしたし、大好きなおばあちゃんだと思ってきたつもりでした。
ですが、今こんなことを考えてしまう自分がいるということは、これまで抱いてきた愛情さえ、すべてまやかしや自分自身への瞞着のように思えてならないのです。
だから私は「クズになりたい」と思うようになりました。
酷薄で、醜悪な考えにも、傷付かない嫌な人間になりたいと思うようになりました。
あるいは、すでになっているのかもしれません。ここまで書いてきて、祖母の気持ちを斟酌しようとする記述がないように、私は祖母を思いやる気持ちや愛情を、とっくに捨てているのかもしれません。
なのに祖母は、折々正気に戻ったとき、こんな私に「ありがとう」と言うのです。鬱状態にあるにもかかわらず、笑顔まで見せて心から感謝してくれるのです。それが、どうしようもなく辛いです。
長々とした愚痴になってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
皆さんは、くれぐれも無理をなされないよう。
日記的なもの 笹野にゃん吉 @nyankawa
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