第3話 どんな朝が好き?

 夢を見ていた。

 幸せな夢だったような気がする。いつもそうだ。美しくて幸せな夢は、指の隙間から零れるように残滓だけを置き去りにして消えてしまう。まどろむ目元を擦ると、薄荷ミントを嗅いだときのように思考と身体が覚め始める。

 大樹だいきの朝は早い。時計に視線をやると、午前四時前。起きるのには少し早い時間。でも、太陽は昇りはじめている。

「また……目が覚めてしまった……」

 夏の朝の目覚めは好きじゃない。

 陽が昇ると共に起き、沈むと共に眠る。狩猟民族みたいな体質に生まれ持ったおかげで、寝不足になったことはない。けれど、昼間あれだけ騒がしい弟妹もまだ夢の中。まるで、コールドスリープをしていたのに独りだけ機械の不調で起こされたみたいな、そんな感覚になる。ジャッ、とカーテンを開ける。薄闇にまだ星がちらちらと見えた。それでも夜の濃度は淡くなっていた。

 簡単に着替えを済ませてキッチンに向かう。冷蔵庫からシトロンソーダが入った小ぶりのカネット瓶を出して、ショルダーバッグに入れる。雨戸を開けてリビングの中の空気を入れ換える。ひまわりもまだ、眠っている。

 玄関で靴紐を結んでいると、にぁ~ と後ろからお声がかかる。

「おぅ、おはよう吹雪ふぶき

 ロシアンブルーのしなやかな肢体を伸ばしながら、階段から吹雪が降りてくる。大樹の挨拶が気にくわなかったのか、つんっ、とそっぽを向いて尻尾を左右に大きく振っている。挨拶一つで機嫌を悪くするのは、この家に来てからずっと変わっていない。

「はいはい……おはようございます、吹雪女王様」

 それでいい、とでも言うみたいにその場に座り込む。撫でようとすると、猫パンチを食らった。

「ちょっと走りに行ってくるから。ご飯は……愛衣に出してもらってくれ。まだ早すぎるからな」

 理解したのか、大樹が気にくわないのか、吹雪はまた明後日の方を向いて廊下をタッタッタッと歩いて行ってしまった。

「はぁ~ 気難しいなぁ、吹雪女王様は」

 吹雪との付き合いは、かれこれ十年は経つが、女王様の扱いはまだわかったもんじゃない。クラスの女子の方がまだまだ素直だ。ため息をつきながら「行ってきます」と玄関を出た。

 朝に走るようになったのは、居合道をしていた時からの習慣だった。弓道に変わっても、体幹と体力維持のために継続している。

 足首を軽く回して、背伸びをしてさらに身体を目覚めさせる。飛び跳ねて筋肉をほぐしてから、そのまま助走の要領で走り出す。初めは軽く跳ねるように。それから徐々にスピードに乗る。弟の嵐志みたいに一気に引きはがす瞬発力は無いが、持久力はある方だ。

 町内を一蹴するだけでは物足りなく、河原まで行き、橋を往復して戻ってくるのが大樹の最近のランニングコースだ。町内といってもなにもない田舎町だから住宅街だったり、突如田畑が広がっていたり、見通しの言い踏切があったりする。その間にも、東から白々と朝が浸食し始めていた。海岸に散らばる貝殻のように、星たちが朝の光の波に呑み込まれていく。

 橋のちょうど真ん中まで来て、ようやく足を止めた。吸い込む酸素が生温く喉咽を乾かす。身体の中心にどろっとした液体が渦巻いているようだ。

 欄干にもたれ、ショルダーバッグからシトロンソーダの瓶を出す。カネットの部分を開けると、シュッ と爽快に炭酸が弾けた。一気に喉咽に流し込む。ぴりっとした刺激と少し甘いレモンの香りが鼻から抜ける。しゅわ しゅわ しゅわ と身体の中で囁くように炭酸が弾けているのが聞こえていた。やっぱりソーダは夏に飲むに限る。すっと残るレモンの香りが喉の奥に溜まっている。

 橋の上からだと、空がゆっくりと白んでいくのが見えた。菫色が空を覆い始め、その向こう側にはソーダ瓶と同じ色の空が待ち構えている。ソーダの泡がしゅわしゅわと立ち上るように、光を放つ。爽やかな朝陽の香りが漂ってくる。光がようやく、大樹の顔を照らした。

 朝が来る。

 また、騒がしい一日が始まる。

 



 一之瀬いちのせ 大樹だいき

 午前4時のセレストソーダ・サンシャイン

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