第5話


「おはよう!鍛埜」

「……おはよう。瑞穂」


 こうやって瑞穂から僕に挨拶をするようになったのはいつからだったっけ────なんて、そんなことを考えて朝から憂鬱になる。過ぎたことを今更ああすれば、こうすれば、なんて考えるのは酷く不毛なことだ。


(今の瑞穂には、学ランがよく似合う……)

(まるで、応援団みたいだ)


 中学生になって、彼は、瑞穂は完全に変わってしまった。

 いつも薄暗い目をして、僕以外の人とまともに喋れなくて、陰気な性格だった彼はもういない。

 今の彼を見て、かつて彼はこういう人間だったのだと説明したとしても信じる人間はきっといないだろう。彼は以前の彼とは真逆になってしまったから。


「鍛埜?」


 数少ない変わらなかった所といったら、彼が未だに僕の隣にいてくれているということと、僕の方を見るこの視線だろうか。凄く不思議なことだけれど、光栄なことに、彼はこんなに立派になっても、まだ僕のことを尊敬してくれているらしい。




 

 だけど。




 

「……ねぇ、瑞穂」

「ん、なんだ?」




 

 僕は、まだ君の"一番のお友達"?




「…………」

「…………」

「……あはは、何言おうとしてたか忘れちゃった」

「そうなのか?じゃあ思い出したら言ってくれ!」




 

 今の彼を見ていると、時々、凄く不安になる。いつまで彼は僕と一緒にいてくれるんだろう。いつまで僕は彼と友達でいられるんだろう。来るかもしれない"いつか"が怖い。それは、そう遠くない未来にある出来事のようで。避けられない出来事のようで。

 その日が来てしまったら、僕はその現実を受け入れられるのだろうか。受け入れられずに、何か彼に酷いことをしてしまわないだろうか。僕にとって一番恐ろしいのは、それだ。瑞穂の幸せがいつだって僕の幸せであるはずなのに、その幸せの中に僕が存在しなかった時、僕は彼の幸せを純粋に喜べる自信がない。そんなの彼の"一番のお友達"の反応として間違っている。彼のヒーローは絶対にそんなことはしない。いつだって、どんなことだって、それが彼の幸せであるというのなら、誰よりも 喜ぶ。それが僕の理想とする"僕 "だ。


 

 僕は慣れなきゃいけなかった。

 彼のいない生活に。

 彼のいない未来に耐えていけるように。





 

 そうして、いつしか僕は彼と距離を置くようになっていった。



 

 ∮



 

「ゴメン、鳴湫~!ノート見せて!!」

「またか?お前は懲りない奴だな……」


 

 ふわふわとした雰囲気の女子が最近彼に頻繁にノートを借りにきたり、話しかけにきてたりしてる。名前は星ヶ丘鳴海(ほしがおかなるみ)。僕はあまり親しくないけど、僕と彼と同じ教室で授業を受けるクラスメイトだ。

 うっかりとした性格らしく、彼女はよく忘れ物をして、その度に鳴湫に助けを求めている。彼が言うには「うっかりは直して欲しいけど、良い奴」らしいので、彼も甘んじて助けてあげているらしい。

 確かに見ている限り、悪い奴ではないのはなんとなく分かる。あそこまでうっかりだと、人に何か色々言われてもおかしくなさそうだけれど、不思議と彼女に悪い噂は聞かない。きっと人望があるのだろう。


 

「いつもありがと~!神様、天使様、鳴湫瑞穂様!!」

「これが最後だからな……」



 二人が話している光景を少し離れた場所で僕は見ている。

 傍目から見ても、随分と仲が良いな。そう思う。

 抑えなきゃいけない駄目な方の僕の胸がずきずきと張り裂けそうに痛んだ。アイツと一緒にいる方が楽しいの?僕はもういらない?こっちを見てよ。口からそんな言葉が漏れそうになる。自分から離れた癖に随分と身勝手な物言いだな、と自分のことなのに他人事のように嘲笑いたくなる。

 苦しい。あんなの見ていられない。だけど、僕の見ていないところで、あんな風に仲良くされるのはもっと嫌だ。もし、もしも、彼にあれ以上のことをしてみろ、僕は、僕は。……駄目だ。想像するだけで気持ち悪い。僕は慣れなくちゃいけないのに。こんなのじゃ駄目なのに。僕は、これを、受け入れなくちゃいけないのに。




 

 僕は彼の一番の友達だ。

 だから、だから。




 

 "友達"、だから。



 

 友達。



 


(ともだち、だから……)





 

 友達。その言葉ばかりが頭の中で反芻されて、何故だかまた胸が凄く痛くなった。





 ∮




 

 その日、僕は日直で少し居残りをしていた。

 彼は剣道部。僕はバレー部。彼と二人で一緒に帰る習慣はお互いの忙しさでほぼなくなりかけていた。僕としては都合が良かった。今の僕じゃ、色んなことを考えてしまって、きっと前みたいに上手く笑えない。

 

「…………」


 ささっと黒板を拭いて、窓を閉め、日誌を書き上げる。自分以外誰もいない教室。遠くから聞こえる部活をする学生達の声。放課後の教室の雰囲気は独特だ。なんだか急にセンチメンタルな気分になって、その独特の空気感に浸ってみる。少し気を抜いたら涙が出てしまいそうだった。どうしてこんな風になってしまったんだろう。胸が痛い。息が苦しい。辛い、辛い。なんの根拠もなくずっと一緒にいられると思ってた。そんな訳ないのに。馬鹿だ。僕は、馬鹿だ。

 もし、このまま誰もこの場所に来なかったのなら僕はそのまま泣いてしまっていただろう。だけど思わぬ来訪者により、僕のセンチメンタルは突然終わった。

 


 

「……百々クン?」


 

 後ろから聞こえる誰かの声。

 星ヶ丘鳴海だ。予想もしていなかった人物の登場に僕は出かけていた涙が驚きでひっこむ。


 

「星ヶ丘、さん?部活じゃなかったっけ?」

「あー……忘れ物しちゃって。取りに来たの。百々クンは……日直?」

「うん……」



 星ヶ丘鳴海とこんな風に一対一で話したのは初めてだった。お互い距離感を測りかねて微妙な空気が流れる。変な間だ。彼女もこんな空気嫌だろうに、何故かなかなか用事を済ませて出ていってくれない。それどころか変な顔をして、その場に立ち尽くして、動く素振りを見せない。


「……どうしたの?」

「あ、あのさ……百々、クン……」

「……?」

「鳴湫と、幼なじみなんだよね?」

「!……う、ん。そうだよ」


 まさかここで彼の名前が出されるとは思っていなかった。身体がぴくりと動いて、彼がこの場にいるわけでもないのに心臓が早鐘を打っている。


「良い奴だよね、鳴湫。昔から、あんな感じなの?」

「あぁ、そうだね、うん……」


 彼女の問いに曖昧に答える。昔から"あんな感じ"だなんて、完全に嘘でしかないけれど、本人がいない今、本当のことを言うのは憚られて、僕はある程度誤魔化しながら僕と彼のことについて、彼女に話した。

 それにしても、どうして彼女はこんなことを聞くのだろう。今まで、ほとんど話したことのない僕に。こちらをちらちらと見ながら、嬉しそうに彼女は僕の適当な話を聞く。彼女の意図が読めない。僕は思わず彼女に言った。


「ねぇ……その、星ヶ丘さんはさ。鳴湫のことが好きなの?」

「あ、え、……へ!?」

「いや、だって……急に瑞穂の昔の話なんて聞きたがるから……」


 僕の言葉を聞いた瞬間、彼女の顔は真っ赤になった。そして、えっと、とか、その、とか言って、どもついた。分かりやすすぎるくらいに、彼女の考えていることは見え見えだった。


「ち、違うよ……そんなのじゃない。鳴湫は、友達。良い奴だとは思ってるけど、そういう意味じゃない……」


 そう言うと彼女はさよならも言わずに、そそくさとその場を立ち去っていった。まるでその場から逃げるように。

 真っ赤になって好意を否定する彼女の言葉を、僕は嘘だとすぐに分かった。彼女の一挙一動全てが恋する女の子のものだった。全然隠せていない。きっと彼女は彼のことが好きなんだろう。彼はどうだろうか。彼女のことを悪くは思ってないはずだ。もしかしたら近い内に二人は付き合うのかもしれない。あり得そうだ。いや、きっとそうなるのだろう。考えていた未来だった。もし彼が誰かと付き合うのなら僕はそれを誰よりも祝福する。それが彼の一番の友達として僕が出来ることだ。




 

 二人はきっとお似合いのカップルになるだろう。

 きっと、きっと。





 

「あれ……」





 

 引っ込んでいた涙がぽろりと零れた。

 覚悟していたはずなのに。

 分かっていたはずなのに。






 胸が痛い。

 死にそうなくらい、痛い。













 いっそこのまま死んでしまえたらいいのに。そう思った。

 

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