第3話 赤い自転車と刺された記憶

 これは私がまだ、女子大生だったころの話だ。


 当時、私の家は二つの駅の間にあった。仮にA駅とB駅とする。

A駅からは徒歩8分。B駅からは徒歩15分。

 A駅からの方が家までの距離は近いのだが、駅前は閑散としていて寂しく、歩道に設置された街灯もまばらで、ひっそりとした人気のない道が続いている。昼間ならともかく夜歩くのは男性でもかなり勇気がいる道である。

 対してB駅は開発が進んでいて、駅前には店も多いし、バス停やタクシー乗り場なども整備されていて比較的賑わっている。また、B駅と家を結ぶ中間地点にスーパーがあるのも利点の一つだ。


 と、こう書くとB駅一択のような気がするが、しかしA駅を選ぶ利点は近さ以外にもあった。A駅だと通学定期で改札をくぐれるのだ。しかしB駅を選ぶと通学定期の範囲外、ということで降車するだけで、200円近くとられてしまう。


 たかが200円。されど200円。ケチな私は大体A駅を使っていた。親からは心配だから19時過ぎたらB駅を使いなさい、と言われていたが自分の中では21時ぐらいまではセーフラインだろう、と高をくくっていた。


 その日、私は大学での野暮用のため、帰路がいつもより遅くなった。A駅について腕時計に目を走らせると、21時15分を過ぎていた。

 親が指定した時間からも自分が心の中で決めている『安全な』時間からもオーバーしているが、それでもまあ、たかが15分である。

 私は決心して、A駅の出口から一歩外に踏み出した。七月に入り、夏の気配が濃密に感じられた。湿気と、あと、雑草刈りをしたばかりなのだろうか。草いきれの匂いが鼻孔をくすぐる。駅前の自転車置き場を何気なくみると、ぴかぴかの真新しい赤い自転車が一番端からちょうど四番目に停まっていた。屋外の自転車置き場なので、新学期でもないのに、そんなぴかぴかの自転車が停まっているのは珍しい。なんとなく印象に残った。

 そうして少し歩いただろうか。向かう先にやや俯き加減に歩く人影が現れた。灰色のパーカーを着て、紺色の目出し帽を被っている全体的にふっくらとした四、五十代の男性だった。

 私は警戒も何もしておらず、『入れ違いに駅に向かう人だろう』ぐらいに思ってそのまま歩いて行った。

 そうやって、その男性とすれ違ったとき、一瞬だが、その人の粘っこい視線が私の頭からつま先までつうっと走ったのがわかった。

 背筋がぞうっとして、すぐにでもその場から家まで走り出したい気持ちに駆られたが、すれ違いざまにそれは、いくらなんでも男性に失礼というか、不信感をあらわにしすぎている。でも、少し歩くスピードを早めるか、と考えた。そのときだった。


 ドン、と。


 腰、脇腹のあたりに衝撃が走り、続いてぬるりとした生温かい何かが傷口から噴き出るのを感じた。血、というより臓器の一部が外に飛び出たような感触だった。

 不思議なことに、痛みはなかった。理解は何刻か遅れてやってきた。


 ――あ、私、刺された。


 カラン、と音を立てて、血がべったりついた出刃包丁が仄暗い街灯の下、地面に転がってぎらぎらとした青白い光を放っていた。その肌目に堺孝行という銘がはっきりと読めたそのとき、私は目を覚ました。


 目を覚ました時、自分は何故刺されたのに、病院ではなく部屋にいるのだろうと思った。

 それぐらい刺された感触がリアルで、私は脇腹に震える指を添わせた。


 もちろん夢は夢で、私の脇腹には傷跡一つなかった。はーっとひとつ息を吐いて、私は時計を見た。まだ早朝四時半だったが、二度寝をしたら、嫌な夢の続きを見るかもしれない。それが怖くて私は早めだが起きることにした。幸いにして、読み進めないといけない、大学の課題図書がいくつかあるので時間つぶしには困らなかった。


 ……そうやって一日を開始して、私はちょっと抵抗がありつつもいつも通り、A駅に向かい、通学電車に乗って大学に向かった。


 軽い違和感を覚えたのは「ねえ、福ちゃん」と大学の同期生のTちゃんに声をかけられたときだった。

 「今日、何限まで授業ある? A先生の授業のグループワーク進めたいから四限後ぐらいに残れない?」と言われ「サークルも、バイトもないから別にいいよ」と返したとき、あれ、この会話いつか、どこかでしなかったっけ? と既視感を覚えたのだ。


 そのときはその既視感がどこからくるのかわからなかった。だが、グループワークを終えて帰路につく頃にはどろどろに溶けた氷が、また固まるかのように自分の中で確信めいたものを手にしてた。


 ――私、昨日夢でみたことをなぞっている。


 いや、そんな馬鹿な。まさかね。でも。

そんなことを思いながら私はいつものようにA駅に向かっていた。

つと、腕時計に目をやると、21時15分過ぎ。昨日夢で見たのとそっくり同じ時間だ。


 私は息を呑んでA駅の出口に向かい、誘われるように駅の自転車置き場に向かった。

 一番端から1、2、3、4番目。


 そこに、ぴかぴかの、真新しい赤い自転車があった。


 その鮮烈な赤を見て、私はとんぼ返りして、B駅から帰ることにした。

 たかが夢。されど夢。


 自分の夢が、予知夢かどうかを検証する勇気より、私の中では万が一でも刺されたくない、生きのびたい気持ちのほうが大きかったのだ。

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