第四話補記:浅葉なつ、もうひとつの電撃ディスカバ:Reポート

 『三日月宗近』といえば、和ヶ原がレポートの一回目でも紹介しましたが、平安時代の刀匠、三条宗近によって打たれた国宝の刀であり、『刀剣乱舞』ではビジュアルのメインを飾っている刀でもあります。なぜ『三日月』なのかというと、ざっくり言えば「三日月の形をした刃文があるから」です。足利家から豊臣秀吉、その正室のねねを経て徳川家へ伝わり、その後、国内の愛好家の手に渡って、1992年に東京国立博物館へ寄贈されました。現在はほぼ定期的に展示していただいているので、一般人の我々でもわりと気軽に会いに行ける国宝です。

 一方、同じような名前を持つ、『三日月兼光』という刀があります。

 こちらは備前の刀匠兼光によって打たれた刀で、前回ご紹介した『山鳥毛』と同じく、上杉謙信の所蔵した刀の中から特に気に入ったものをリストアップした『上杉家御手選三十五腰』の中に入っている、上杉家の重宝です。しかし、この『三日月兼光』は、現在日本で見ることはできません。アメリカの個人が所蔵しているからです。2018年には静岡の佐野美術館に『里帰り展示』が叶いましたが、次回いつやってくるかはわかりません。大げさですが、国内では二度と見られないかもしれない、とさえ言われています。


 では、なぜ『三日月兼光』はアメリカにあるのか。

 それは第二次世界大戦後、アメリカの進駐軍に持ち去られてしまったからです。


 和ヶ原がレポートの中で書いている通り、日本刀の歴史には三つの危機がありました。秀吉による刀狩り、明治政府による廃刀令、そしてGHQによる武装解除名目の没収。『三日月兼光』はまさに三つ目の危機によって、海外へ流出してしまいました。今でも日本に残る『山鳥毛』や『謙信景光』らの身代わりとして、攫われていったと言っても過言ではありません。ただひとつ安心できる材料としては、現在『三日月兼光』はアメリカでとても大切にされているということです。鋳つぶされたり、海へ投機されたりした数多の刀を思えば、まだ幸せなのかもしれません。ただ、国外へ持ち出された刀が、このように恵まれた運命を辿るとは限りません。いい刀は、素人が見ても「欲しい」と思うほど美しいものが多く、進駐軍はそれらを戦利品として、またはお土産として持ち去りました。しかし忘れられたり売られたりして、人知れず錆びて朽ちていった、どこかの家の重宝もきっとあったことでしょう。


 では、刀の危機はその三つ以外になかったのかと言われると、そうではありません。人為的な危機は確かにその三つなのですが、災害や戦争など、避けては通れない危機もたくさんありました。

 今回展示されていた赤羽刀の中に、江戸時代の越前康継(えちぜんやすつぐ)の刀がありました。康継は徳川家康の次男、結城秀康に仕えたお抱え鍛冶であり、その後家康に江戸へと呼ばれ、御用鍛冶となりました。康継の「康」の字は家康から賜り、葵の紋を刀の茎(なかご)に刻むことを許されました。つまり、ものすごく信頼されていた刀鍛冶だったのです。康継はその腕を買われ、1615年の大坂夏の陣で燃えてしまった刀剣類の再刃を任されました。(私は不勉強なため、杉原さんにそれを教えていただいたのですが、「この人があの刀とかあの刀とかの再刃を…!」と審神者的にテンションが上がったことは内緒です。)鉄とはいえ、炎にさらされて刀が無傷でいられるはずはありません。全体が真っ黒に焼けてしまったり、地鉄が荒れてしまったり、刀の美しさを代表する刃文が消えてしまいます。再刃とは、その刀を研磨し、再び焼き入れ(=刃文を入れる作業のこと)を施すことです。ただし、元の地鉄や刃文を完璧に再現できるわけではありません。それでも再び蘇らせたのは、実戦で使用することもできれば、贈り物として利用することもでき、またそれ以上に、焼けたとはいえそれでも惜しむほど大切だったからでしょう。現在御物(ぎょぶつ:天皇家所蔵品)となっている『一期一振』(いちごひとふり)も、大阪夏の陣を経て康継の手によって蘇った代表的な刀ですが、当時ですら名刀と言われていた刀を再刃した、康継のプレッシャーは計り知れません。それでも彼がいてくれたからこそ、我々は今でも武将の愛した名刀の数々を見ることができるのです。(『一期一振』は滅多なことでは見られませんが……。)

 しかし後年、皮肉なことに、康継が仕えた結城秀康が所持していた※『御手杵』(おてぎね)という槍は(五条義助作)、天下三名槍に入るほどの名槍でしたが、1945年の東京大空襲により、復元が困難なほどの鉄塊と化し、失われました。康継が見たら何と言うだろうかと、ふと考えることがあります。決して救える刀剣ばかりではないのです。


 現在、文化財保護の観点からも、傷ついた刀剣に再び命を吹き込むという試みが続けられています。失われたり、焼け身になってしまったりした刀を、型押しなどを参考に復元することもあれば、欠けてしまった刀を修復することがあります。それを請け負っている人たちこそ、現代の刀職さんたちであり、彼らがいなければ、刀が蘇ることはほぼ不可能です。そして和ヶ原が触れている通り、杉原さんのような膨大な知識をもつ人の存在が、刀の辿った道筋を整理し、理解するうえで必要不可欠です。この刀がいつ頃どこで作られたかを見極めるのは、彼のような学芸員や、刀の専門家である刀剣の研究者などの知識人の仕事なのです。このふたつが絶妙に噛み合って、刀は今日も輝いているのです。



 戦後、アメリカの進駐軍によって数々の刀が持ち去られ、破壊されたことは前述しましたが、一方で、米国第8軍憲兵司令官であり、旧日本軍から接収した刀剣管理の責任者であったキャドウェル大佐は、日本人の刀に対する想い、ただの武器ではなく先祖の形見であり重宝であり精神であるという部分に理解を示した人でした。1946年5月に、彼が刀剣に関する覚書を出してくれたおかげで、以降は「刀剣類で美術品として価値のあるもの」に限り許可を受けて所持できることになりました。(それまでは、日本軍だけでなく民間人の所有する日本刀まですべてが没収されていたのです。)本格的に動き出すのは、覚書から三カ月ほど後のことになりますが、そこで確かに刀の運命は変わりました。さらにキャドウェル大佐は、「政府に頼らず刀を愛する者が自分たちで守ることが大切だ」と示唆し、1948年に日本美術刀剣保存協会が設立されたのです。


 刀はアメリカ軍によって未曽有の危機となり、アメリカ軍によって守られたと思うと皮肉な話ですが、刀を守るために奔走した佐藤貫一氏らをはじめとする日本人がいたからこそ、叶ったことでもあります。

 今、私たちが博物館や美術館で刀を見ることができるのは、刀を生み出した刀匠をはじめ、守り、受け継いだ、数多の先人たちの努力の賜物であるということを、忘れてはいけません。

 そして願わくば、これからもそれが永く永く続きますように。






 ……あともうひとつ願っていいなら、天皇陛下が代替わりしたのでそれを記念して、オリンピックのある来年にとは言わないので、再来年あたりに『一期一振』や『鶴丸国永』、『鶯丸』などの、御物の公開展示がありますように……。






 ※御手杵(おてぎね)…室町時代、駿河国の刀匠、五条義助作の大身槍。ある戦で、敵の首級をこの槍に十数個突き刺して持ち帰った際、そのうちのひとつが落ちてしまい、そのときの槍の姿が手杵のように見えたことから「御手杵」と名付けられ、後に手杵を模した巨大な鞘が作られた。焼失以降、模造刀のレプリカはいくつか作成されていたが、2017年に刀匠の上林恒平・高橋恒厳師弟の手により、初めて鍛造という形で復元された。

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