第四話 和ヶ原、伝えてもらう

 このコラムは雑誌「電撃文庫MAGAZINE」掲載の「電撃ディスカバ:Reポート」と連携しているため、内容が結構被ります。

 本稿がWeb掲載される2019年8月号でも、本稿と同じく岡山県日本刀取材の二日目について書いているわけですが、やはり印象深い話、心に残る話は何度でもあらゆる形で読者の皆様にお伝えしたいと思ってしまいます。

 岡山取材二日目は、一月の事前取材でもお邪魔した備前長船刀剣博物館の学芸員、杉原賢治さんに様々なお話を伺いました。

 電撃文庫MAGAZINE上の序文では、様々な創作物に登場する『武器の里』的な概念についてお話をしています。

 とかく『武器の里』的な場所は漫画にしろゲームにしろ、物語の中盤以降に主人公たちの戦力アップ、あるいは戦力補修のために訪れる場所であることが多いです。

 そして大抵人里から離れていて、ゲームならその場所の設定になぞらえた非常に高額かつ高性能な武具が販売されていて、和ヶ原は昔から、

「こんなとこでこんな高い武具売っても地元の人間以外買いにこないんじゃないか。そして地元の人間は買わないんじゃないか」

 と思っていました。

 地元の人間がそうそうこんな武具買うわけないからこの地の武具職人たちは一体どうやって生計を立てているのだろうと、子供心に心配でした。

 誓って言いますが、本当です。

 ゲームの都合だから、と納得はできませんでした。可愛げのない子供です。

 ラスボス一歩手前の町とかでも同じようなことを考えたりしましたが、とにかくそんな疑問を可愛げもなく子供の頃から持っていた和ヶ原に、杉原さんは本物の『刀剣の里』で、刀工たちがどのように生活していたのか、どのように飯を食っていたのか、どのように周囲と関わっていたのかを、博物館の中だけでなく寒空に飛び出して町中を回って教えてくださいました。

 そのときのことを踏まえて、電撃文庫MAGAZINE本誌には、杉原さんから様々な側面から考察される『刀』と『太刀』の違いや、刀剣の里の現代に至るまでの刀匠たちの足跡についてご教授いただいたことを掲載しています。

 前回まででしたら、電撃文庫MAGAZINEに掲載していた話を更に掘り下げていくところなのですが、今回は全く違ったアプローチをしたいと思います。

 そのためにまずは今回のキーワードである『赤羽刀』というものについて、解説させてください。


                     ※


 平成30年の11月末から今年の2月中旬まで、備前長船刀剣博物館では『甦った赤羽刀・パートⅡ』という特別展が開催されていました。

『赤羽刀』は『あかばねとう』と読み、そう呼称される特定の刀剣群があります。

 しかしこれは刀剣や刀匠の流派の名ではありません。

『赤羽刀』の『赤羽』は刀剣の生産地でもなんでもない、東京都北区赤羽のことです。



 博物館と刀剣の里を案内して下さった学芸員の杉原賢治さん(写真左)。


 杉原さんは、日本刀の歴史には、三つの『危機』があったと仰います。

 一つは羽柴(豊臣)秀吉による『刀狩令』。

 一つは明治政府による『廃刀令』。

 いずれも刀を取り上げ所持を禁じるための施策ですが、これによって起こるのは、刀の市場の縮小です。

 需要が減るわけですから生産も流通もなくなり、産業全体が衰退縮小するわけです。

 そして最後の一つの危機が、『赤羽刀』という言葉が生まれるきっかけとなった1945年、昭和20年のGHQによる日本の武装解除です。

 第一回連載の際にちらりとお話したように、このことによって日本刀の研究が進んだ事実はあるにしろ、三つ目の危機は、それまでの危機とは少し性格が変わっていました。

 昭和二十年。

 敗戦後の赤羽に設置されたアメリカの兵器補給廠には、関東一円を中心とする地域から20万もの刀剣が集積されました。

 そして、集められた約20万の刀剣うち、実に19万5千近くが、さまざまな方法で廃棄され、消失しました。

 大半が海洋に投棄されたり、鋳つぶされたりし、残ったものも進駐軍兵士の母国に持ち去られたりしながら、最終的に昭和22年、約5600口が刀剣関係者の尽力により美術品として日本に返還されました。

 この現存する約5600口を始めとした赤羽に集積された刀剣群が『赤羽刀』と呼称され、少しずつ元の持ち主に返還されたり、刀に縁のある地域の博物館を中心に収蔵されたり、打たれた地に里帰りしてゆきました。

 備前長船刀剣博物館には107口の赤羽刀が収蔵されており、うち70口が備前国で生まれたものです。



 この三口は、数多展示されていた赤羽刀の一部。

 一枚目の特徴的な大鋒の刀(祐包)は、今回の赤羽刀の中で一番のお気に入り。


 これらの赤羽刀は今でこそこのように光り輝いていますが、『赤羽刀』に限らず、敗戦後の武装解除で接収された刀剣の保存状況は、それはひどいものでした。

 その様子を端的に表しているのがこちらの写真。



(※こちらの資料写真は、博物館に展示されていたものを撮影させていただきました)


 雑!!

 キャンプ場の薪だってもうちょっと丁寧に積まれていますよ!?

 


 実はこの日の終盤、和ヶ原と浅葉は杉原さんのご厚意で、本物の日本刀を用いて、刀を触るレクチャーを受けた上で、日本刀鑑賞のいろはを指導していただきました。

 写真を掲載することはできないのですが、白鞘の日本刀を一口お持ちいただいて、空調をきかせた和室で、日本刀に触れる者は手袋をし、少し離れた場所で見ている同行の編集者さんたちも全員がマスクをつけ、万が一にも刀を取り落として傷つけることの無いよう細心の注意が払われていました。

 意外と知られていないことですが、日本刀の刀身は、鞘の中では鞘と一切接触していません。

 鞘の内側の木が刀身に触れることを『鞘当たり』と言い、錆の原因となります。

 日本刀の鞘は自然乾燥で十年以上寝かせた朴(ほお)の木で作られています。

 朴(ほお)の木は油分が少ないのと磁気を遮断する性質があり、刀が錆びにくい素材です。

 それくらい、日本刀というのは保管にも手入れにも鑑賞にも気を遣うものなのです。



 それがコレです。

 何わろてんねん。

 

 こんな有様で保管されていた上、日本に返還されたのも集められてから二年が経過してから。

 そこから更に赤羽刀たちの文化的な価値が認められ元の持ち主や生まれた地域、博物館の展示に至るまで長い年月がかかり、その間、刀がどんなことになってしまっていたのかを思うと想像するだに悲しい気持ちになります。



 前回の連載で、刀匠の川島さんとのお話で『良い刀』とは『大切に作られ、大切に持たれてきたもの』という結論に至ったばかりなので、一月の事前取材ではただ「ほー、そんな悲劇の歴史が」と軽い感想を抱いた自分が情けなくなりました。

 赤羽刀に限って言えば、返還された約5600口の中に、重要文化財や重要美術品に相当するようなものは存在しなかった、と記録にあります。

 ですが逸失した19万5千近くの刀たちがどうだったのかは今となっては知る術はありませんし、そうでなくともこの20万口の刀それぞれに、持ち主の手に渡った物語や経緯があるはずです。

 展示の中には当時の岡山県警の警察史からの引用として、岡山県内から無数の日本刀が接収された際の抜粋資料が展示されていました。

 中には進駐軍の武装解除に応じなければ逮捕されると誤解した人が進んで刀を差し出したケースも多かったようです。

 このように『ケースが多かった』と語られるほど、戦前戦中の日本人にとって、刀は身近な存在だったのだということも分かります。

 赤羽刀20万口は、関東地方を中心とした地域から集められたもので、その大半は、一般家庭から徴収されたものでした。

 関東一円だけでこの数です。

 総務省統計局の昭和20年の国勢調査で公開されている関東甲信越地方の総人口は19‘754‘614人となっています。

 これと比較すると、20万とは、この総人口の1%を超える数です。

 百人に一人は刀を所有していたということを考えると、1945年以前の日本における刀は、『万人の身近にもあるもの』ではないにしろ、日常目にする機会は比較的ありそうなもの、くらいには、市井に馴染んだものだったと考えられます。

 それが今では、日本人の日常生活からは、日本刀という存在は事実上消滅してしまっています。

 日本刀を特別愛好しているとか、剣道、居合道を修めているということでもない限り、恐らく現代の日本人が『刀』に触れる機会は皆無でしょう。

 唯一ありそうなのは結婚衣装を和装にした女性がお式で『懐剣』を携えることくらいでしょうか。

 それだって和装を選んだ花嫁さんのために守り刀をこしらえようというご家庭がそうそうあるとも思えませんし、貸衣装屋さんで貸していただけるもののほとんどは形だけです。

 


 歴史上の日本刀三大危機である秀吉の刀狩令と明治の廃刀令のときには、危機以前の刀の市場が広大であったことや、刀が実際に用いられたのを知っている世代、刀を所持することが当たり前の世代が大勢いました。

 ところがGHQによる武装解除のときには、徳川の時代を知る世代が去って久しく、戦は刀剣ではなく機動力と火薬で行うものとなり、軍刀も実用品というよりは儀仗用の装飾品となっていました。

 今に比べればまだ身近であったというだけで、既に日本刀の『武器』としての側面が、庶民から認知されなくなって久しい時代でした。

 特にこの時代は、そのとき存在した刀を取り上げられただけでなく、新たに作ることも禁じられたということがより危機に拍車をかけました。

 備前長船刀剣博物館には、この断絶の時代を乗り切った刀匠の記念館が併設されていますが、その断絶を乗り越えるにあたり、地域や先人の多くの苦労があったことが偲ばれます。


                   ※


 そしてなぜ我々が今日その歴史を偲ぶことができるのかと言えば、日本刀に関わる刀匠を始めとする多くの職人さんに並んで、杉原さんのような学芸員・研究者の方の尽力があってこその知識の伝来であると痛感したのが、今回の取材でした。

 電撃文庫MAGAZINE本誌では、和ヶ原が杉原さんの案内で備前長船刀剣博物館に在籍する多くの刀匠や、刀に関わる職人さんとそのお仕事について説明していただいているシーンがイラストで掲載されています。



 また、博物館の周囲をブラ〇モリのように周遊しながら、刀匠の里の社会生活の在り方を解説していただきました。

 その中でも特に多かったのが、刀匠の墓碑についてのお話でした。

 


 刀匠の菩提寺、慈眼院で、墓碑を前に。


 

 刀匠銘は時代や地域を超えて受け継がれたり、ブランド名として刀工集団が用いたりします。

 そのため、有名な刀匠銘が刻まれた刀であっても、同名の刀匠が各時代にいて、その中の誰が作ったものか、ということが刀の価値を決める一つの基準になっています。

 有名な例を挙げると、土方歳三の愛刀であった『和泉守兼定』は『兼定』が刀匠銘です。

 この兼定の刀匠銘は多くの刀工が用い、有名なのが南北朝時代に関で活躍した『親兼定』と呼ばれる初代と二代目『之定(のさだ)』、三代目『疋定(ひきさだ)』。

 そして十一代(十二代説あり)の会津兼定。

 このうち現存する土方の刀は、十一代目(十二代目?)会津兼定の作です。

 このように同じ刀匠銘でも、どの時代の刀匠が、どこで作ったものかで刀の評価は大きく変わります。

 そして杉原さんが案内して下さった刀匠の墓碑を辿る道筋は、その刀匠が『実在したこと』を証明するための、基礎研究の結果の一つなのだと感じました。

 なにせ刀が多く作られた時代、個別の刀の履歴の資料が残っていることなど稀なこと。

 積み重ねられたデータをあらゆる側面から突き合わせ、この刀はどこそこのいつの時代の何某という刀匠が作ったものだ、と確定していくわけです。

 ですが、その『何某という刀匠』が実在したことが確認できなければ、刀の分類そのものが不可能になるわけです。


 間違いなくこの時代にこの辺で作られた刀なんだけど、その時代にそういう銘の刀匠がいたってことが確認できないんだよなー……では、刀の伝来や価値は確定できません。

 

 そこで実在を確認する重要なヒントになるのが、刀匠の墓碑。

 墓碑に刻まれた文字や、刀匠の子孫の家系図、菩提寺に残された資料などから、ある時代にある銘の刀匠がある地域にいたことを様々な資料をつき合わせて確定させるわけです。

 そうすると、ある刀を分類するための受け皿が生まれ、また一つ、日本刀の学問的資料が生まれるわけです。

 


 本稿でも電撃文庫MAGAZINEでも述べている通り、ただ刀そのものだけでなく、日本刀の歴史に関わる文化風俗政治経済、ありとあらゆる分野の知識に精通しています。

 備前長船刀剣博物館の学芸員さんなのですから当然と言えば当然なのですが、その膨大な知識が現代の日本刀事情を支える一柱になっていることは間違いなく、ブ〇タモリの中で、現場で実際にものを生み出す職人さんだけでなく、こうした人たち努力と基礎研究と学究が、日本人の日常生活から完全に断絶してしまった『日本刀』を、今なお現世につなぎとめているのだと強く感じました。



 次回にも非常に深いかかわりのある、天王社刀劔の森の前にて。


 最後に一口、非常に印象的だった赤羽刀をご紹介します。



 刃長50.4cmの脇指で、室町後期に備前で作られた日本刀です。

 すっきりとしたシンプルな味わいをもつ刀だな、というド素人和ヶ原の感想を挟んでから、この脇指の解説プレートを見てみましょう。



 なんと、刀匠銘不明。

 解説にある通り、茎が切り落とされ、刃を短く仕立て直された結果、刀匠銘が削られてしまったのです。

 持ち主が目的に合わせて刀を小さくしてしまうことはよくあることなのですが、茎はその際に一番犠牲になりやすい部位です。

 

 

 赤羽刀の歴史を知ってからこの脇指を見ると、刀素人の和ヶ原は、杉原さんのような学芸員、研究者の方々に対する尊敬が否が応にも増すのです。

 この脇指は赤羽刀。

 つまり関東地域から集められたものです。

 元の形は失われ、茎が落とされ刀匠銘も失われ、しかも持ち主は備前から遠く離れた東日本に住んでいて、長期の保管によって一度は本来の輝きすら失いました。

 それでもこの脇指は、生まれた時代と場所が特定されていて、今こうして、生まれ故郷の備前で鋼の輝きを取り戻しているのです。

 この刀匠銘不明の脇指が故郷に戻ることができたのは、先人の研究者の方による日本刀の知識の集積と研鑽の結果によるものであることは疑いありません。

 

 我々が何かを学ぼうとするとき、そこには必ず学びを体系化するために尽力し、今も尽力し続けてくれている人がいることを改めて理解した、岡山日本刀取材二日目前半でした。



 博物館前で杉原さんと。

 本当にありがとうございました!!



☆このブログの次回更新は、8月30日(金)予定!!!


★取材に同行した浅葉なつによるスペシャルエッセイもチェック


⇒第四話補記:浅葉なつ、もうひとつの電撃ディスカバ:Reポート

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る