この想いを君に

やたこうじ

第1話

 私と妻は普通に結婚した・・・はずだった。


 妻も、そんな素振りは一切見せなかった。

 今も私は、時折何もかも投げ出したくなる自分にそう、言い聞かせている。

 そうだった、そうに違いないと。なんの根拠もない自信でさえ、もうとっくになくなっているが。



 ◇◇◇

 3年前の桜がまだ五分咲きの頃、妻はよくある記憶の病気になった。

 食べたことを忘れたり、どこかに勝手に行ったり、周りがわからなくなる「あれ」。

 ドラマでよくやるような、大変な状態ではない。

 ただ、少しずつ、記憶だけ若くなっていく種類のもの。

 それは、積み重ねてきた何十年もの私との生活を消しゴムで消すかのように、ゆっくりと綺麗に消されて行く。

 ただ、生活そのものに大きな支障はでなかった。


 2年前の秋ぐらいまでは、なんとか私のことを夫だと思ってくれていた。

 妻は毎日のように、本当にあなたなの、確かにそうみたい、だけどとても老けてるわ、と言われ続けたが。

 あの時は、私も髪を黒く染めて無理に若作りをしたもんだ。

 鏡を見た身なりの不自然さを思い出し、ひとり泣き笑った事を思い出す。


 1年前の桜が散る頃、妻の記憶が私と結婚するあたりになった時。

 私はいつもの事のように2人の関係を説明した。

 "結婚"という一言を聞いた途端、突然妻が泣き叫んだ。そして私を睨みつけた。まるでこれからの人生を絶望に変える相手、と言うかのように。


 あんなに取り乱した姿を見たのは初めてだった。


「見合いなんて嫌、絶対に嫌。

 あんたなんかと結婚したくない。

 私はあの人と、あの人だけと約束したの。

 それなのに、お母さんが、お父さんが」


 今思い出しても、目の前が真っ暗になる。

 何か目に見えない重い何かで頭を殴られたような感覚。

 結婚してもう40年は経っていた。

 全てを、私と妻との、一言では語れない"全て"を否定されていた。


 妻の私と暮らす人生はなんだったのか。


 今までの人生、笑い合ったり、喧嘩したり、支えあった記憶がある、思い出がある。

 思わず自分の胸のあたりのシャツを強くつかむ。

 妻が買ってくれたワイシャツのボタンが取れ、床に当たる軽い音が聞こえる。


 とても耐えられない。


 私と暮らす妻の人生はなんだったのか。


 あの人とは誰だったのか。

 どんな気持ちで私と結婚したのか。

 どう思ってこれまで生きていたのか。

 私との人生を、耐えて生きたのか。

 私は・・・こんなにも妻のことを知らなかったのか。


 しばらくは気持ちが沈んだ。

 私と知り合う前の記憶になるまで、5日もなかったが、心の折れてしまった私は、妻の実家に住む居候の役を演じて誤魔化す。

 もう、妻にとって私はただの他人と同じ存在。


 そんな生活の中、知人から連絡がある。

 これの特効薬があるという情報を手に入れた。

 記憶が整理されつつ、発症前に戻るとの事。

 今の私にとっては、実に都合のいい薬だと思った。


 しかし、効果は10日間。

 そしてその後は"元"に戻るのだそうだ。


 本来の用途は、相続や、家族に本来伝えておくべきだった事をこの薬を使って確認するためにある。

 その結果、残されていた家庭の問題は大体が解決に向かう事が多いと聞いた。


 それを私は、私のエゴのために使うわけだ。


 愚かだ。しかし私の、そして妻との40年分の人生。

 その重みが、私の中で"私を否定する事"を否定している。

 私は貯金の大半をつぎ込み、すぐに処方して貰った。


 その効果はすぐに現れる。

 2日程で顔つきが変わり、話す言葉もしっかりした。

 私は暗い気持ちを抑え、少なからず喜んで見せた。

 ただ次の日、3日目から次第に妻の口数が減り、何も話さなくなって、ずっと窓の外を見つめたままだ。

 薬は効いているはずなんだが。

 いつも見ていた、よく知っているあの目は、今にも話しかけてくれそうでならない。


 今日は6日目、あと4日ほど。


 今夜も2人だけの夕食。

 会話もないまま、ただ食べるだけの食事が続く。


 今、どういう状態なんだろう。

 私は何を話せばいいだろう。

 やはり気が急いる、焦る。

 これじゃ処方前とそれほど変わらない。

 そんな事を考えていたからか、不意に言ってはいけない言葉が出てしまった。


「お前は、どう思ってたんだ?」


 しまった。

 大袈裟にご飯を飲み込み、不自然なほど慌ててご馳走様と立ち上がる。

 食器を持って台所に立ち、深呼吸をした。


「いやなんだ、今日の煮物は自信作だったから」

 あまり食べていない妻に背中を向けて言う。

 ・・・誤魔化しきれてない。一緒に過ごした短くはない人生は、お互いの言葉の意味を、何を意味したかは伝えてしまったはず。


 いや、なぜ誤魔化す必要など。


 そんな思いとは裏腹な言葉が出た。

 私は、やはり怖いのだ。


「そうだ、明日はあの公園に行こう。2人で座ったブランコはまだ、あるかな」

 妻と結婚前によく行った公園。

 結婚する時、そのに2人で座り、これからも一緒にいて欲しいと妻に話した場所。


 もう一度、話せないだろうか。

 あの場所で、私達の事を。

 これまでの事を。

 そして。


「ごめんなさい」

 期待はしていたが、予想してなかった言葉が、声がリビングから聞こえた。


「な、何。いいんだ」

 内容より、急に声が聞こえた事に慌てて、いつものように取り繕う。

 何がいいんだ?食器を洗う、震える手に力が入る。

 会話を繋げなければ。


「それでな」

 私が振り向くと、もういない。

 妻はその一言だけ言い、寝室に向かっていた。


「・・・明日、ちゃんと話そうか」

 誰もいないリビングに、私は話しかける。


 翌朝、公園に連れて行った。

 6月の晴れ、空は心地よい。

 太陽が雲で見え隠れして、さらさらと木の葉が鳴る、程よく風の吹く空。

 やっぱりあのブランコはなかった。

 私達はブランコがあった近くのベンチに座る。

 妻は黙って付いてきてくれていた。


 心地よい風が背中を押してくれる。

 しばらく空を眺めた後、意を決して話す。


「なあ、私達の事なんだが」


 そう言いながら妻の横顔を見る。

 しかし、うつむき加減で動かない。


 だるそうだ。

 薬の副作用か、風邪かなにかか。


「どうした。どこか具合でも」

 肩に手をかけると、膝から落ちる妻の手から未開封の薬が転がる。


「まさか」

 私の意識が、また暗い闇の中に落ちていく。

 今朝確認しなかった私も私だ。

 昨日、話すきっかけが出来たと思って、毎日の事、処方上の注意点に気が回らなかった。


 薬を止めれば、その効果はすぐに終わる。


 そして、どうして飲んでないんだ、と言いかけて、やめた。話したかった妻はここにはいない。


 雲間からブランコがあった場所を照らす光が、優しく暖かく、妻を連れて行った気がした。

 ただ、私は空を見上げ、雲に涙と後悔だけを残した。



 ◇◇◇

 今、寝たきりになった妻を前に、あの日の事をまだ悲しみと共に思い出す。


 あの薬は妻にとっても、私にも諸刃の剣だった。

 何も"知らなくなった"無邪気に笑う妻を前につぶやく。


「結局、何もわからないままだ」

 薬を飲ませたことは、どう受け取られただろうか。


 エゴ、わがままだと。

 妻がいない寂しさだと。

 気持ちを知った復讐だと。


 妻は薬を飲まない選択をした。

 何も答えないまま消えていく事で、妻の目的は果たしたのかもしれない。


 しかし、最後の言葉は。

 あの言葉を私は、どう受けとったらいい?

 妻の心がわからなくなった私に、届いた最後の言葉。


 私はただ、この今まで言えなかった感謝を。

 不器用なまま、届けられなかったこの想いを。


 ずっと隣にいてくれた、君に。

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