第43話 ラッキースケベ

ラッキースケベという言葉がある。

俺にしてみたら、スケベなんてみんなラッキーじゃないかと思うところだが、漫画やアニメなんかで登場するラッキースケベと言われるシーンを見るに、何らかのアクシデントが介在した上でのスケベ、ということになるようだ。

だから電車で向かいの座席に座っているお姉さんのパンツが見えた、というのは少し違うみたいだし、経験は無いけど女の子が自ら触らせたり見せたり、というのも該当しないのだろう。

だがまあ、漫画に出てくるようなラッキースケベなどというものが、現実に起こり得るかと言うと甚だ疑問であり、何も無いところでつまずいて、ものの見事に股間や胸に顔面を突っ込むという状況は、もはやファンタジーと言える。


そんな思索に耽りながら歩いていると、どうしたことか、何も無いところで俺は躓いてしまったのだ。

傾く身体、虚しく空を掴む手、眼前に迫る誰か。

ヤバい! と思ったときには、その誰かの胸元に顔面を突っ込んでいた。

これが、俺にとってのラッキースケベ元年であった。


それは、ぽよん、であったろうか。

いや、ムニュ、が相応しいだろうか。

プニ、も有りな気もするが、どちらかと言えば平仮名で「ふに」というのが近い。

俺は明確な答を出せず、単純な擬音だけでは言い表すことの出来ないその柔らかさに戸惑った。

「きゃっ」

と、激突した相手は可愛らしい声を上げた。

いい匂いもした。

ふわっと包み込まれるような感覚、そして「ふに」という触感、聴覚をくすぐる「きゃっ」と言う声に、鼻腔を満たす甘い匂い。

それらは一つ一つが類稀なる魅力を放ちながらも、お互いが混ざり合い、引き立て合って相乗効果を生み、まさしく壮大なシンフォニーへと昇華した。

ラッキースケベとはかくあるか!

俺は新たな世界を垣間見た気がした。

まるで魂が震えるような、その荘厳なシンフォニーにどこまでも身を委ねてみたい欲求に捉われ、心は既に奪われかけていた。

だが、いつまでも甘美な世界に浸っているわけにはいかない。

漫画ですら、「えっちぃのはキライです」とか、「破廉恥な」とか言われて主人公は攻撃されるのだ。

ブサメンの俺が胸に顔を埋めたとあっては、「変態」「キモい」「死ね」くらいは覚悟せねばなるまい。

夢を見た後には、辛い現実が待っているというのが世の常である。

名残惜しいが、俺は異次元とも言える柔らかなぬかるみから不屈の闘志で這い出し、何か一つの悟りを得た思いで顔を上げた。

「もう」

佐倉だった。

少し頬を赤らめ、ちょっと睨む目許は、怒っていると言うより、寧ろ扇情的ですらあった。

「あ、すまん」

こんな軽い謝罪でいいのだろうか。

俺が味わった感覚は、至福と言っていいほどのものだった。

ならば、

「ありがとう」

こちらが相応しいのではないか。

「は? 何を言ってるのよ」

だが佐倉は納得しない。

やはり足りぬか。

「幾らだ」

「は? 頭でも打って……無いわよね?」

これも違ったようだ。

こんなことなら、もっとラッキースケベの勉強をしておくべきだった。

よもやファンタジーとも思える事象に自分が出くわすなどとは思ってもみなかったので、このような時の対処に不慣れであることを恥じる。

しかしその時、俺は天啓を得た。

もっと相応しい言葉があるではないか!

俺は、佐倉の目を真っ直ぐ見つめ、大いなる恵みに感謝しつつ言った。

「ごちそうさまでした」

「何がよ!?」

……。

この後、ひどく怒られました。


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