第三章 黒い宝石と城のある街
1、城のある風景
「すごいわね……。あれがハイデルベルク城?」
小高い山の上にそびえる城を対岸から眺めながら、メリルローザは感嘆の息を吐いた。十三世紀に建てられた城は改築や増築が繰り返され、ゴシックとルネサンスとバロックが複雑に入り交じった構造をしている。
芸術家を多く排出している街だけあって、そびえ立つ城は感性を刺激されそうだ。
時間があれば見学などしたいものだが……どうだろう?
市街地に入る頃には陽射しが西に傾きかけていた。今日はさすがにホテルに向かって終わりだろうか。
チェックインを済ませ、グレンと遅い昼食をとる。フロウは長旅がお気に召さなかったのか珍しく姿を現さず、形だけ同席しているヴァンと食後のお茶を飲んでいたメリルローザを残して、グレンは立ち上がった。
「日暮れまで少し時間があるし、僕は出かけてくるよ」
「え……どちらに?」
街を歩くならメリルローザも一緒に見て回るくらいの体力は残っている。
だが、グレンは「内緒」といたずらっぽく笑っただけだった。
「ヴァンが一緒にいるから大丈夫だろう? 遅くなるようだったら夕食は先に食べて休んでいていいからね」
確かにグレンの言うとおり、ヴァンが一緒にいればメリルローザの行動に支障はない。女性の一人歩きは危険だが、ヴァンといれば外出も可能だ。
グレンの背を見送りながら、どうしようかと考える。グレンの行き先は気になったが、ああもはっきり内緒だと言い切られてしまうとかえって詮索しづらい。ホテルの周辺を軽く散策する程度が無難だろう。
「出かけるのか?」
「ええ。叔父さまが帰ってくるのを待っているだけなのも退屈だしね」
ヴァンと共にホテルを出る。広場から、大学がある方の通りへ入ったところで、メリルローザはポケットの中からフローライトを取り出した。
「フロウ? ハイデルベルクに着いたわよ?」
出掛けるのが好きなフロウがずっと静かなので気になっていた。お城だって、フロウが真っ先に反応してはしゃぎそうなものなのに。
ふわりと姿を現したフロウは、すみれ色のハンカチで口元を押さえていた。
「う……メリルローザ……」
「どうしたの? 具合が悪いの?」
フロウの顔色が悪い。
「乗り物酔いか? 俺も少し気分が悪い」
ヴァンまでそんなことを言い出した。確かに、ガタゴト揺れる鉄道の旅は宝石の二人には不愉快だったかもしれないが……。
「違うわよ! ヴァンはほんと鈍感ねっ。そりゃ、鉄の上を走るのは嫌だったけど!」
ハンカチを握りしめたフロウが怒る。今日はお気に入りのレースの日傘を出す余裕もないらしい。青い顔のまま、フロウは声のトーンを落とした。
「この街、すっごく嫌な感じが蔓延してるわ。こんなに強い気配は初めてよ」
「嫌な感じ? それって、呪われた品と関係があるの?」
「ええ。それもすごく凶悪なヤツね。繊細なアタシの感覚が麻痺しそう」
ため息をつくフロウは本当に具合が悪そうだ。メリルローザはヴァンとちらりと視線を交わしあった。
「で、その品はどこにあるんだ?」
「対岸よ。この街に入るために渡ってきた橋の方」
「……さすがに、今日確認するのは無理よね?」
今から対岸に行ったら、帰ってくる頃には夜になってしまう。明日、グレンに相談してから行くべきだろう。
だが、フロウは顔をしかめた。
「ええーっ。やめておいたほうがいいわよう。なんだか嫌な予感がするもの」
「フロウがそんなふうにいうなんてよっぽどなのね」
「ええ。だって、その気配が強すぎて、この街全体がモヤがかかっているみたいだもの。他に呪われた品があったとしても、気配がかき消されちゃって感じられないわ」
「……そんなに凄い品なら、世に出回っていないのはおかしくないか?」
ヴァンがそんなことを言い出す。
フロウが言うほどの強い呪いなら、多くの人を不幸に巻き込んでいてもおかしくはない。持ち主が売りにもださない、つまり、売らなくてもいい状況であるというのも不自然な話だ。
「確かに……そうね。でも、叔父さまはこの街でフロウの力を借りたいって言っていたし、何か噂くらいは聞いていたのかも」
それでなくてもこの街に何かあるような気がしたからやってきたのだ。何も調べないまま帰るわけにはいかないだろう。
ううっと気分が悪そうなフロウは「アタシ、戻るわね」とフローライトの中に引っ込む。ヴァンいわく、本体の中の方が落ち着くのだそうだ。
「ねえ、一応古本屋も確認していってもいい?」
「わかった」
学生街だけあって、中古の専門書の店はあちこちにある。すべてを確認するのは不可能だろうが、何か手がかりがないか見ておきたい。
大学通りの方へ足を向けたメリルローザだが、曲がり角から急に人影が飛び出してきて驚く。
「きゃっ」
「うわぁ!」
相手が小走りだったため、思い切りぶつかってしまった。
メリルローザの身体は隣にいたヴァンが支えたが、ぶつかった相手の方は派手に転んでしまう。相手の持ち物が手を離れ、往来に派手にばらまかれた。
「ごめんなさい、大丈夫!?」
相手はメリルローザより一回りほど小柄な少年だった。ひっくり返った少年に手を差し伸べる。
「怪我はないかしら?」
「うん、ごめんなさい。僕の方こそ前を見てなくて……」
散らばったのは画材道具のようだった。少年が拾うのを手伝う。転んだ表紙に開いたスケッチブックの中には見事な風景画のデッサンが描かれていた。ハイデルベルク城を対岸から見た景色で、まさにこの街らしい一枚だ。
「ありがとう、おねえさん」
「ううん。ねえ、その絵、あなたが描いたの?」
とても上手ね、というと少年は照れたように笑った。
「……ありがと。僕、画家を目指しているんだ」
マリウスと名乗った少年はメリルローザより二つ下の十四歳で、絵の勉強をしているのだと言った。この街には芸術家の卵がたくさんいるので、マリウスのように画材を抱えた人はあちこちで見かける。
じっとメリルローザを見ていたマリウスだが、
「……おねえさん、とっても綺麗だね」
「えっ?」
「あっ、えっと、変な意味じゃなくて……」
慌ててマリウスが首を振る。もちろん、この少年がメリルローザをナンパするような目的で言っているのではないということはわかる。
「……そのう、良かったら僕の絵のモデルになってくれない?」
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