第一綴 眠る琥珀と禁忌の女

間話01 一〇拾二/リルク


Δ



 物語の始まりなど誰が決めたのか。


 すべてが生まれるよりも以前から、世界は無辺のものとして綴られてきた。一端を垣間見ることさえ到底能わぬ文字の彼方、羅列は儚くも必然なるものとして十二の世界に刻み込まれていて、変じることなき光芒あるいは古びた燐光は、されども未だ遮られぬ無限の曙光、無碍と呼ぶに相応しきあらわれとして滴り続けている。


 其れに触れ行く者とその影が熔けるまでは。


 永く。

 永く。



Δ



 肉がちぎれた音がした。


 自分を鞭で嬲っていたピケン帝国軍の子班長アグラ=オルトワの首が、切り裂かれるというよりも叩き千切られるのを目にして、リルクは腰を抜かす。眼前の化け物は血に塗れた長大な剣を握っており、その眼は、戦場を舐めるように見渡していた。


 クルサナ境域湿地帯ではピケン温帝国とトルポール=マガリカ乾湿連合がまさに衝突している最中であり、そこら中に腕や脚といった肉体の断片が沈み込んでいた。まるでゴミ屑かなにかのようなそれらを一瞥すると、化け物は品定めをするように帝国本陣のある方角に目を留め、それから苛立ったように舌打ちをして大剣をその背に戻した。同時にアグラの首級がぽいと放り投げられて泥濘に落ちる。


 どちりと鈍い音をさせたそれは、リルクの足元にまでゆっくりと転がった。見慣れた上官のものだったが、リルクにはどうしてもそうは見えなかった。死ぬことを予期すらしていない死者の瞳は心をまったく揺さぶらなかった。


 徐々に光を失っていく上官の瞳に、琥珀色の何かがちらりと映る。

 それは琥珀色の髪の毛だ。

 怪物のような男は琥珀色の長髪を背中に流している。


 琥珀髪。

 そう呼ばれていた。


 隆々と筋骨が盛り上がるその躰は、人間というよりも獣じみていて。

 ようやくリルクは一つの名前に思い至る。


「剣獣のヴォファン……」


 呼ばれた男がずるりとリルクの方を見た。その瞳は鋭く細められて火のように光っている。殺気を向けられたわけではなかったが、それでも全身が小刻みに震えたのは怪物の全身から恐ろしいまでに膨大な『靈気』がとめどなく噴出しているからだった。それは、これまでに浴びたどんな靈力よりも荒々しくて尖っていた。


 彼が口を開くと唸り声のような音がこぼれる。それを戦場の怒声と轟音のなかで聞き取るのはひどく難しいことだったが、リルクは自らの命のために必死でそれに耳を傾けた。ピケンの兵か、と問われたようだったので彼は手を振りながら答えた。


「アルフォニア人、傭兵」


 命惜しさの嘘ではなく、リルクは正しくアルフォニア海王国出身の海刃流剣術士であり、同時に祖国の傭兵でもあった。目下の所、海王国はチュニス共和国を占領統治しているエズアル大帝国の支配下にある。その同盟国であるピケンとの協力関係にあるのは道理。リルクが隣国の境域まで駆り出されたのもそれが所以だった。だがそれでまさかこのような怪物に会うこととなるとは。上ずった声が喉から漏れた。


「命だけは」

「殺しはせん。去れ」


 間髪入れずに怪物が言った。

 リルクは首を傾げて問い返す。


「……俺の班長はあんたに首を落とされた。だが琥珀髪なんて疑り深いピケン人共が信じるとは思えない。このまま戻っても軍規違反で処刑されるだけさ。見逃してくれるのは有り難いが」不思議な気持ちで、おそるおそる言葉を漏らす。

「傭兵気質だな」彼が呟いた。

「来たくて来たように見えるかい」


 そう言うと、怪物、いや、男は眉を顰めた。化け物とは言ってもまだ三十を少し過ぎたばかりの精悍な顔つきだ。わずかに笑みを浮かべると、なにか望みがあるのかと言ったのが、今度は聞き取れた。リルクは恐ろしいながらも勇気を振り絞った。


「この乱戦じゃきっと死体なんて確認されない。このままあんたに付いてピケンを抜ける方が、よほど助かる望みがありそうだ」

「名は何という」

「リルク。家名も号もない」

「それはいい」


 リルクは孤児である。物心ついた時には海刃流の上級剣士に拾われて剣術を教え込まれていたが、それ以前の記憶はない。だから家名も持っていない。リルクはそれを誇りに思っているわけではなかったが、自らのそうした来歴を嫌悪しているわけでもなかった。事実、このように役立つこともあった。


 琥珀髪の男ヴォファンは小さく頷いて、リルクへと手を差し伸べた。男の掌はやけに強張っていて硬い。まるで岩のような手がそのまま彼を引き起こした。アルトワに鞭打たれた背中を押さえながらリルクは礼を言ったが、男は、首を横に振った。


「お前を助けたのではない。俺は、目的を果たしただけだ」男が言う。

「目的?」

「呪界の歪み、そのひとつがさきほどの男に続いていたのだ」


 ヴォファンは忌々しげにとある方角を見つめながら呟いた。そちらには本陣があり、その瞳には悲しみの色がある。リルクは思わず、彼の来歴を根掘り葉掘り詮索したくなった。しかし問いが言葉となる前に、琥珀髪の男が言葉を紡ぐ。


「俺の役割。目的とは、魔法を殺すことだ」

「魔法士殺しのヴォファンの噂は知ってる。俺なら、なんでもする……いや、なんでもしますよ」


 ヴォファンはなにも答えなかった。遠くに目を凝らして、注意深げに息を吐く。その姿には一分の隙もない。彼は見えない世界のなにかを見て、それから、目当てのものを見つけたとばかりに口の端を上げた。そのしぐさはやはり獣じみていた。


「では、魔法術式陣の展開位置を知っているか」

「本陣の熱右方、半馬遊ほど」


 リルクはすぐさま答えを返した。


 ただ一言だがそれは軍事上の最高機密であり、此度の戦争を制するための最も重要な武器に関する情報であった。それは本来ならば交渉の手札となるほどのものであったが、すでに青年は琥珀髪の男の言うことならば何でも答えようという気になっていた。考えるべきことは山ほどあったが、悩むようなことは何ひとつとしてなかった。


 もちろん、ヴォファンという男の背景に思いを巡らせることはできたはずだった。彼がここにいる理由を考えることは、軍人として非常に重要なことであることは分かっている。いつだったかの噂話に聞いたところによれば、眼前の男の目的は戦の勝敗などではないという。剣獣ヴォファンは、この世界が魔力で穢れることを防ぐために戦うのだという。場末の酒場の主人によれば、その怪物は、魔術が残す呪いというものを憎んでおり、だから魔法術式陣というとんでもない代物さえも壊すのだという。


 そのとき、リルクはもちろん、馬鹿馬鹿しい話だと思って聞いていた。その与太話を心から信じていたこともなかった。琥珀髪は誰かの命を受けて戦場をかく乱しているのだと、そういう噂も聞いたことがあったから、おそらくそちらが真実なのだろうと思っていた。だが、たとえなにが真実であったとしても、それはリルクの行動を変えるには値しないものだった。たとえヴォファンという獣が雇い主に仇をなす存在であって、その正体が他国の間諜であるとしても、あるいはまた、ある種の義賊であるとしてもそんなことはもはや関係ない。男が誰の味方でもよかった。それはどうでもよかった。ただ、今この場においては、ただひとつ、自分の命だけが答えだった。


 だからリルクの舌は滑らかに回った。


「攻撃用の術式は要地三箇所にあります。戦場結界は会敵と同時に壊された。たぶん優秀な斥候がいたんですね。あんたが殺したアグラ=オルトワも上級魔法士で、戦場結界を維持していた。彼は、落雷の大術式陣の使い手のひとりです」


 リルクの言葉を聞くとヴォファンは簡単に頷いて、クルサナの要地について確認を始めたが、実際のところ、熱部の戦場結界をいきなり破壊したのも琥珀髪の男だったのかもしれなかった。だとすれば、それはもうすさまじい速さで、あまりにも信じがたいことだったから、リルクはそんな疑念を頭から振り払って説明を続ける。


「残りの一つは隠蔽型の罠か?」男が言った。

「いえ、方向水流魔術と」

「死んだな。魔術士が逃げたか、術式が壊れたのかもしれん」


 男が呟いたそのとき、遠くで聞こえていたはずの怒声と轟音が近付きはじめた。馬の蹄の音がどんどんと大きくなってくる。軽い地響きが青年の身体を揺らしていた。リルクは眉を顰めて振り返った。何かが見えた。空気の揺らめきのようなものが。


「魔力だ」ヴォファンが言った。


 そう、あれは、あれは魔力が生み出すゆらぎだった。

 強大な魔法士を取り巻く、あまりにも強大な魔力の残滓だった。


「あんな力、視たことがない」

「奴だ」


 その瞬間、ヴォファンはリルクの腕を掴んで無造作に岩陰に放り投げた。


 泥のなかに再び倒れこんだリルクが困惑とともに男を見やると、その体を目掛けて、数十本の魔法射撃がすでに飛んでいた。だがしかし、琥珀髪にはそれを避ける様子もない。魔法射撃よりわずかに遅く、敵の馬が駆ける。馬上の男が叫んだ。


「『剣獣』ヴォファン!! こんなところで油を売っていたか!!」


 けたたましくしわがれた声と共に、幾本もの魔法がヴォファンの肉体に刺さる。刹那、琥珀髪はその長大な剣をゆらりと振りうごかした。すると正面でぐるりと一回転した剣に魔法が吸い込まれ、傷一つつけることの出来ないまま霧散消滅する。


 それを見て、先ほどの老人が笑い声をあげた。


「異能は変わらんかったか! なぁに、挨拶がわりだとも!」

「相変わらずだな」ヴォファンが言った。


 リルクは恐ろしいながらも岩陰から様子を覗くことにした。離れたところに十人ほどの魔法剣術士が大馬に乗って杖を構えているのが見えた。その中でもひと際立派な馬に跨る男が、手に持った長杖をヴォファンに向けながら喋っている。生気に満ち溢れた老人、いのち燃え上がる白髪の魔人。彼の姿はリルクも見たことがあった。


「見事な剣の冴え。貴殿ほどの男が、未だにその力をエズアルの為に使う気はないというのか。それこそ、まったく恐ろしいばかりの損失だろう。此度の敗北よりもそなたが惜しい。ここらで一つ、エズアルに与せんかね?」老人が言った。

「アマラン=アッシーク、貴様も懲りん男だ」


 ヴォファンが表情ひとつ変えずに言った。


 アマラン。

 それはエズアル大帝国の限定魔術士『炎海』の名だった。


 人違いでなければ、老人は、かの大国からピケンへと戦力提供された武人の一人であり、大地を焼き尽くすまでの火炎魔法の達人であるという。アマランの武名は傭兵であるリルクでさえも何度か聞いており、畏敬の念をもっていた。その男とヴォファンが睨み合っている。見るところ、状況は明らかに琥珀髪に劣勢であるように思われた。何しろ敵は十人、そのいずれもが手練れであった。


 これではいずれ、琥珀髪も力尽きるかもしれない。青年は琥珀髪に加勢するために、こっそりと岩を登り始めた。向こうから、あの二人の男の声だけが聞こえた。


「ここで貴殿を処理するのは忍びないというもの」

「そうか。十人殺すのも気が引けるが」


 ヴォファンの挑発は定型の決まり文句だった。剣術士は戦いの際にまず『流れ』を支配しようとするから、このように使い古された文句を用いる。下らないとばかりにアマランの嘲笑が響き渡った。しかしその杖先はわずかにも標的から逸れてはいないようで、身じろぎひとつ、蹄の音ひとつ、聞こえない。嵐のまえの静寂だった。


「半分で勘弁してくれんかね。この遊びにそれ以上の価値はない」老人が言った。

「腕次第だな」


 丁度リルクが岩上から顔を出したそのとき、ヴォファンの身体が沈み込んだ。


 同時に、周囲の魔法士から数十の魔法球が撃ち出された。その属性は様々だがいずれも流れるような剣の前に両断された。不思議なことにヴォファンの剣に触れた魔法はその形を維持できなくなるようで、爆発することもなしに消滅していく。


 二撃目は時間差で撃ちだされた魔法射撃だったが、これは魔法球よりも遥かに速く、魔法を斬りおえたばかりの男へと間髪入れずに迫った。本来ならば避けられない攻撃であったが、男はまるで猫かギリベスのように身体をくねらせて魔法射撃を擦り抜けた。同時に一行流歩法瞬飛を用いて、瞬間的に移動する、消える。


 ヴォファンが着地した時には、馬上の魔法士が二人ほど両断されていた。彼らの張っていた魔法障壁を物ともせずに、まるで紙を裂くように骨を断ったのだ。鮮血がほとばしり、分かたれた半身が鈍い音とともに泥の中に落ちた。馬が大きくいなないて、ひとりでに駆けだす。残された半身が主となって、霧のなかへ消えた。


 一瞬にしてアマランの額に汗が浮かんだ。


「見たか……? 奴は魔法を殺すのだ! 一撃であの世へ行ってしまうぞ!! うむ、∫炎形フローガ/シンテグマ炎弾フローガ/シドロスヘラ!!」


 詠唱とともにアマラン=アッシークの両手を包むようにして現れた巨大な炎が、うねうねうねと無数の小弾に姿を変えていく。まるで生き物だった。それらは螺旋状に回転しながら高速度で飛び、飛びだし、その無数で、ヴォファンを襲った。


 間髪を入れずに周囲の魔法士からも数百の炎球が打ち出され、ヴォファンの肉体を勢いよく吹き飛ばした。琥珀髪は傷一つなかったものの地面に転がった。初めて見せた大きな隙だった。そこへ撃ち出されるのは二十四定式魔法の奥義、∫炎砲フローガ/アノータトス。視界のすべてを覆いつくす赤き閃光が一瞬の収縮ののちに膨張して、クルサナ湿地の地面もろともヴォファンを瞬く間に呑み込んだ。


 鼓膜を破るがごとき轟音とともにただ一度だけの爆発が生じる。リルクは思わず顔を背けた。ヴァファンが熱光の中に消えるとともに強烈な熱風が鼻と喉の粘膜を焼いたが、帝国兵に発見されないために咳込むことはできなかった。そうして炎が過ぎた場所には黒焦げの大地と、一本の巨剣だけが、まるで墓標のように残った。


「仕留めたり」老人が言った。


 だがその瞬間、中空が歪んだ。空から突き出るのは奇妙に歪んだ腕、そして、琥珀の髪。ヴォファン。空から捻れるようにして現れた男は易々とアマランの背後を取ると、その馬の後脚を鋭い手刀にて切断した。馬が嘶きとともに暴れ出し、老人は泥のなかへとあえなく転げ落ちる。そこは既に琥珀髪の間合いだった。驚くべきことに男はいかなる手段を用いてか、この世にあるまじき空間を移動したのだった。


「なぁっ!? ヴォファン、貴様、本当に人間か!?」

「今のところはそうだ。早く負けを認めろ」


 側に控えていた魔法士連中が驚きとともに老人と琥珀髪の男を取り囲むが、今やヴォファンはアマランの首筋に鋭い手刀を添えていた。誰も動くことが出来ないまま、リルクが息を吞んだ。とそのとき、次は高空から、鳥のように甲高い音が響く。


 それはゆっくりと伸びるように、柔らかい音色だった。


「お前が呼んだのか?」ヴォファンが言った。

「わ、私ではない!」


 あれはなんだというのか、アマランよりも警戒すべき相手なのか。リルクは身を強張らせたが、動けないのは彼だけではなかった。自分以外の魔法士たちもアマランさえも驚愕の表情を張り付けたまま、その口を大きく開けていた。


「ならば、なぜここにいる」ヴォファンが言った。

「陛下に聞け!」アマランが叫ぶ。


 それらに答えるように鳴き声がひとつ、降り注いだ。空には一体の鳥竜がいた。小さな黒点ほどにしか見えないそれはぐんぐんと大地に迫り、豪風でもってヴォファンたちを怯ませると、鉤爪のついた前足でアマランを拾い上げた。その六馬躰ほどの胴体には猛禽のような形の四本の脚が生えており、足首から双翼、頸に至るまで滑らかな濃緑の鱗でびっしりと覆われている。尾はまるで触手のように自在に動き、時折思い出したようにぬかるんだ地面を叩いていた。


 琥珀髪の男が巨獣へと剣を向けると、竜がその嘴を擦り合わせてぎちぎちと不快な音を鳴らした。思わずリルクは岩上から転げて、丁度竜の正面に落ちる。そこは奇しくもヴォファンの真隣であった。


 見上げれば、竜の背には一人の男が乗っていた。男は銀色の髪をなびかせながら堂々と琥珀髪に相対しており、そこにはある種の風格のようなものがある。厳粛さと神聖さ。王族かあるいは貴族のような神秘的な雰囲気を纏っていて、獣であるヴォファンとは対照的であった。彼は、琥珀髪を見つめると、冷ややかな声で呟いた。


「なんだ、臆病者ではないか」

「斬るべきものが目に入ったまでのことだ」

「くだらない信念だな。それで何を救えるというのだ?」

「お前たちを救うことができる」琥珀髪の男が言った。


 それを聞いて男が笑った。


「はは。そうか。なに、この戦もそう長くは続かん。いずれ術式陣は争いごとのためには利用されなくなるだろう。さすれば大規模術式陣などという馬鹿げた代物も無くなり、お前の望む未来が来る。それまで待つが良いさ」男が穏やかに言う。


 ヴォファンは、憎々しげに男を睨んだ。


「お前の望む世界がやってくるまでに、もっとずっと、多くの人間が死ぬことになるだろう。その時には誰が貴様らを守ってくれるというのだ。脳子か。それとも子飼いの呪術士か。どちらも信用はできんだろうに、どうして命を預けられるのだ?」


 男が悲しげに微笑んだ。


「過去には戻れないからだ」

「過去だと」琥珀髪が唸った。

「人は栄華の前には戻りたくとも戻れないのだ。いかほどの犠牲があろうとも」

「その犠牲を実感したこともないくせに」


 冷たい目でヴォファンが言ったが、男は鼻を鳴らしただけだった。


「それはお前の知るところではない。行くぞ、アマラン」

「陛下! 此度の戦、某の力及ばず……」

「構わん。ここは重要ではない。エレングルへ向かおうぞ」


 男がそう言うと同時に、竜が翼を大きく打つ。強い風が巻き起こり、リルクの全身に泥濘が降りかかる。気づけば竜の身体は、空にあった。アマランを連れたまま遠くへと去っていく竜を見ながら、ヴォファンは苦々しげに身体の泥を払った。


「貴様らも行け」そう言った。


 もはや地上の魔法士たちは彼を襲うことはしなかった。

 彼らは怯える馬を連れて、本陣へと足早に去っていった。


 リルクは消えそうになっている『ハオンの光』を見ながら、戦争の終結が近いという銀髪の男の言葉を考える。栄華の前には戻れない、犠牲があろうとも戻ることはできない。だから、だからこのような戦争が引き起こされたのか。あるいは、先ほどの話は、別の何かに向けられた話であったのか。ただの傭兵であるリルクにはそれすらも解することはできなかった。結局、己を戦いに引き込んだ者の正体は、分からず仕舞いだった。分からないままで戦って、そして死ぬ。それだけなのだ。


 少し離れた戦場で鬨の声が上がった。


 どうやらピケン温帝国はこの戦に敗北したらしかった。エズアルと冷湿同盟の長きに渡る乾湿戦争はひょっとすると帝国の敗北に終わるのかもしれない。そんなことを思いながら、リルクは、歩き出したヴォファンに続いて戦場を後にした。


「戦争は終わるんですか」青年が聞いた。

「終わる。四日前に皇国とノーラン剣王はエレングルを奪還した」


 ヴォファンは疲れた声でそう言った。


「じゃあなぜ戦ったんです?」

「術式陣を壊しに来たと言っただろう」

「放っておいても、使われれば消えてなくなる」

「それでは汚染は止められん」

「まさか本当に呪界汚染を防ぐためだけに?」


 リルクはあらためて驚いた。


 この男は戦争の終わりが近いことを知っていたというのに、わざわざ、ピケンの戦場に現れたのだ。戦乱が終わるのを待たず、ただ術式陣を誰にも使わせないということのためだけに。リルクのいたピケン帝国のみならず、大陸中の傭兵組合で『魔術殺し』の噂は流れていた。金や名誉を求めるのではなく、呪界汚染を食い止めるためだけに戦っているという奇妙な男。術式を忌み嫌うという、琥珀髪の奇妙な怪物。


「愚かに見えるか」ヴォファンが言った。

「なぜ? 貴方が戦うのは、きっとなにかのためでしょう?」


 個人的な目的にしては随分と大それた行いに思えたから、そう問うた。

 が、男はリルクの言葉を否定した。


「俺は抑えきれぬ激情にこの身を捧げている。恐怖が俺の身を駆り立てていて、怒りと臆病さで俺の戦いは作られている。大義などどこにもない。狩人におびえた動物が逆上しているのと大して変わらないのだ」ヴォファンが言う。

「ふつうは大義なんてありませんよ、俺にも」リルクは言った。

「若いうちに見つけておくべきものだ」


 琥珀髪の男はそう言いながら剣に付いた血を拭った。


 滑らかな銀の剣身に血塗れた琥珀が映る。それから彼は戦場から離れた場所で、目に見えぬ誰かに向かって祈りを捧げた。リルクは、彼が戦死者の冥福を祈っているのだろうと思ったが、本当にそうだったのかはついぞ分からなかった。そうして、戦場の死肉を狙って魔獣どもがうようよと現れ始めたころ、ヴォファンはリルクを連れて、何も言わないままに一番近くの街へと馬を走らせた。そこには戦争を終えたばかりの、たくさんの剣術士がいて、そして「彼女」もいたのだ――。





 今でもリルクは考えることがある。


 あのとき街へと行かなければ、自分が酒場を選ばなければ、いやそもそも自分がヴォファンと会わなければ、あのような悲劇は起きなかったのではないだろうか。しかし、戦争が終わりを迎えようとしていたあの瞬間、運命は動きだしたのだ。


 乾いた土に鮮血が染みこまれていくのを見て、男は目を瞑る。


 そうすると、あの日のことが鮮明に思い出された。

 そしてあの輝かしい日々のことが。


 今はもう青年ではないリルクは、燃え落ちた城を横目に、呟く。

 その命はもう長くはないと知っている。


 だが、それならば、なおさらに。

 言葉を残さねば、ならない。


「イルファン」


 男が言った。

 呟きは、煙のなかに溶けていって、

 後にはたった一行の台詞も残らなかった。


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