第02話 幻視赤藍/アルレーン②


 ――二人はノーラン皇国冷部に位置するローレッド山脈の中腹に住んでいる。


 食料は自給自足だが困ることはない。魔獣の肉は下手な獣肉よりも旨かったし、世間の情報だって数か月に一度は入って来る。師匠の知り合いたちや通りすがる傭兵連中から話を聞いているお蔭で、山下の権力が絡むような厄介事はほとんど起こらず、隠れて修業をする上では、何不自由のない生活だった。


 実は、このような生活に至るまでは長い月日が必要だった。

 この山に住み始めた当初、イルファンとリアトは本当に二人きりだったのだ。


 二人だけで暮らしていたころのことを、少女は今でも思い出す。

 あのとき、少女はリアト以外の人間に会ったことがなかったのだ。


 記憶にはないが、昔には母親や父親や友達のようなものもいたのかもしれない。誰かと話をして、心を通わせて、誰かに触れる。触れられる。そうした営みへの渇望は、心の奥底から湧き上がるものだったし、それを抑え込むのに少女は苦労してきた。渇望は古い記憶を呼び覚まして、ひどい頭痛を引き起こしたからだ。


 父と母に抱き抱えられた記憶。暖かいぬくもりに包まれた記憶。そして言葉。断片的な言葉は愛おしく優しい。たぶんそれは愛されていた時の虚しい痕跡で、それらはイルファンにとって苦痛だった。文字通りの痛みを伴っていた。激しい頭痛にひどい苛立ちで、ぐらぐらと脳が揺れるとそれには抗えない。そのために、理由も分からぬまま記憶を嫌った。終いには、昔を思い出すことも止めてしまった。


 リアトもリアトで全然話をしない人間だったから、自然だったのだろう。ローレッドの山奥では獣と魔獣、そして山の音だけが存在していた。それ以外には音は無い。声もない。話もない。それで充分だった。


 だが、ある冬のこと、ローレッド山脈を横切る大街道がある理由から使えなくなってしまった。その為にエレングル王国の商人たちは湿部の山道を用いるようになった。こちらはリアトとイルファンの住み家により近く、少女が自分たち以外の人間に会うことも多くなった。イルファンは六歳。出会うのはほとんど傭兵ばかりで、剣のことすらもあまり話さないリアトと違って、彼らはお喋りだった。


 最初の内はイルファンは話を聞くだけだった。だが次第に、自分から話をするようになっていった。不思議と記憶の痛みは来なかった。他人と近づき、触れ合っているというのに、いつしかイルファンは痛みも苦しみも感じなくなっていた。


 ぼやけた記憶の中に剣と師匠、そして二度と会わない友人たちが刻まれる。傭兵連中は少女の剣技に舌を巻いた。彼らが彼女を最初に認めてくれた。とはいえ、最初に出会った傭兵たちは、その翌月には死んでいた。雪狼の群れに襲われたためにローレッドを越えられずに死んでしまったのだ。


 仮に自分が一緒なら。幼い少女はそう思った。

 たとえどうしようもなくてもそう思った。

 彼らの命は驚くほどに短くて軽い。

 それらはイルファンにとって大事な出会いだった。


 それからまた数年が過ぎると湿部の道を使用する者は減り始めた。これは、乾部の大街道が復活したためだが、それによって傭兵の数は眼に見えて少なくなった。しかし顔馴染みの傭兵は少女の為だけにローレッドに寄ってくれたものだった。いつしか、イルファンの一番の楽しみは、彼らとの会話になっていた。たまにやってくる旅人や傭兵の話を聞いていれば、広い世界に様々な人間たちが居ることに気付かされる。広大なローレッドさえも狭い世界。本当の世界には二人しかいないのではない。この世にはまだまだ知らないことがあるのだ。楽しいことも悲しいことも。


 何度か、傭兵とリアトを引き合わせようとしたことがある。彼女の気難しさをほぐそうと思ったのが、リアトは彼らに会う事もしなかった。イルファンはその時気が付いた。彼女が嫌いなのは会話ではない。人だ。リアトは人嫌いなのだ。


 その証拠に、二人だけのときは普通の会話が成り立つこともあった。少女の話術がこなれてきたこともあって、リアトから話を引き出すこともできるようになった。少女が話しかければ言葉を返してくれるようになった。だがそれでも、リアトは他人とは話さなかった。どうしてか、関係の浅い人間とリアトは会おうとしなかった。彼女が時たま会うのは、怪しげな商人を除くと、皇都エルトリアムからやってくる友人や弟子くらいのものだった。弟子と云っても、半分は力試しの高慢ちきばかりなので、まともな会話になることは少なく、大抵の場合は、怒号と悲鳴でオチがつく。


 ちゃんとした友人もいなければそれが増える見込みもないというのは、寂しいことだろう。お節介にも、それを治してやろうと思ったこともあるが、自分のことすらよく知らないのに、他人の心についてとやかく考えるのも馬鹿馬鹿しい気がした。


 リアトは強い師匠だしそれで別に良い。

 そう思ってイルファンはどうにかしようとするのをやめた。


 そんなわけで麓の村に降りることすらほとんどなく、リアトは、ほんのわずかな弟子たちとも二言三言話すのみで、剣を振るうだけの世捨て人であり続けたのだ。


 この日までは。



Δ



 その師匠が山を下りるという。

 しかも、わざわざ人に会いに行くという。

 イルファンは好奇心から思わず尋ねた。


「誰に会うんですか」

「レアーツ=ルーミン」即座にリアトが答えた。

「剣王ですか」


 イルファンは絶句しそうになった。

 

 自らの修める流派の、剣王の名前くらいは知っている。あのレアーツ=ルーミンと知り合いであるなど、リアトほどに強い剣術士ならば有り得ない話ではないが、それにしても剣王など簡単には信じられなかった。なんでも剣王と呼ばれる存在は、単騎で数千の歩兵の軍勢を打ち払えるし、その剣は一振りで山を斬り飛ばせるほどだとかなんとか。それが本当だとしたらあまりにも強すぎる。興味深くはあった。


「剣王に会うのは嫌か」

「いえ、むしろ光栄だと思います」

「それならいいが」

「でも、剣王ということは皇都にいくんですよね」

「その通り。エルトリアムだ」リアトが言う。

「私、行ったことが」

「ないな」


 実のところ、少女は剣王よりも皇都に上る方に好奇心を擽られていた。皇都エルトリアムは真交流の聖地であると同時に、ノーラン皇国最大の都市でもある。もう十三にはなるが、イルファンが大都市に行ったことはない。その光景を想像しただけで顔が綻ぶ。皇都には一体なにがあるのか。なにをしようか。なにを食べようか。


 皇都の話は、時たまやってくるリアトの弟子たちからも聞いていた。エルトリアムには良いものも悪いものもそのすべてがあるという。都の剣術士というのは、貴族の三男坊みたいな連中が多いので、ある程度は高い水準の話をしたがるものだし、伝聞は往々にして誇張されたものだ。だが、それを差し引いても、皇都には夢があった。


 巨大な城壁に囲まれた百万の家々、それらひとつひとつに歴史があり、愛と温もりがある。街の成り立ちがあり、それを守る人々の矜持がある。それらは、すくなくともこのローレッドにはありはしないものだ。ここはなにしろ、病の巣なのだから。


 空想がどんどん膨らみ、都の姿を想像しようとする。

 

「皇都、楽しみですね」

「そうか。行ったことがないのだったな」

「はい」

「とても大きな街だ。きっと驚く。人間が多くて、巨大な城があって……」


 たくさんの人々と家々の連なり。

 騒めきや笑い声、そんなもの。

 ありふれた場所には当たり前のように存在するその景色。


 どうしてだが、少女にはそれが想像だにしないものに思えた。

 奇妙なくらいに遠く、手に入りようがないものに。


「あ」


 その瞬間、少女は奇妙な熱を感じて眉を顰めた。

 あつい。燃えるようにあつい。

 身体が熱を感じているのだ。

 それはまるで、血をすべて熱されているかのようだった。

 

「どうした?」女が問う。

「いえ、突然気分が悪く……なんでしょう」

「なんだ?」


 熱い。

 いまやそれは灼熱だった。


「あっ!!」


 そう言うやいなや、少女は己の頭蓋を抱え込んで、その場にしゃがみ込んだ。焼けた針で脳の奥を突きさされたような痛みが唐突に奔ったのである。久々の痛みだ。昔のことを思いだそうとしたときの、あの疎ましい痛みだ。なにかの記憶を探ろうとしたわけでもないのに、どうしてまたこんなことになっているのか。


 耐えて治るような生ぬるい類のものではない。


「あいたたたた」


 嗚咽と涙を堪えながらイルファンはぎっと歯を食いしばる。

 不思議そうな顔をする師匠から逃れるように厠へと走り出した。


「どこへ行く」リアトが言う。

「粗相!!」イルファンが言った。


 言葉と裏腹に少女には余裕がなかった。


 脳中の痛みはもはや耐え難いまでに己を主張しており、それはむしろ肉体の痛みというよりは魂の痛みのように思われた。苦しみのなかで少女は庭の井戸へと走った。瓶に冷えた水がこんこんと溜められている。なりふり構わず頭を突っ込んだ。きんと耳鳴りが響き、少女はその水奥の暗やみにちらちらと輝く光を見た。それは血のように赤い炎の燃え広がる様であった。どこまでも赤く、どす赤く、深い。


「赤」


 イルファンは思わず声をあげようとして気付いた。

 息ができる。


 大きく息を吸い込めば暗やみの奥から火の粉交じりの空気が流れ込む。どうやら自分は瓶のなかに異なる位相を見ているらしい。どういうことなのか。奇妙なことだと思いながらも手さぐりで幻の底へ沈んでいく。いつしか全身が水に沈み込んでいた。重たい水だ。だがそれがいつの間にやら燻る黒煙へと変化していく。


 焦げたにおいを感じたとき、少女はようやく、どこかの地面に着地した。そうして足が着いた瞬間、そこがもはやローレッドではないことをイルファンは知った。木切れの粗末な小屋はどこにもなく、その場所は炎。眼の前には燃えたぎる王城。石造りの巨大な建造物がごうごうと崩れ落ちていく光景を動けぬままに見ていた。世界のすべてが焼け落ちている。まるで炎で造られた町のようにさえ見えた。


 ひとり立ち尽くすイルファンの背後には誰もいない。夜のように深い暗闇が背後から、やってくる。その存在のすべてを呑み込もうといくつもの手を伸ばしている。遠く、炎と城の向こうに、山の上の、幾つもの家々の煌めきと逃げ惑う人々が見えた。いまや少女は別の位相のなか、巨大な都市の光景に立っていた。


「紅く、火に焦げる貴女のこと」

「なに?」

「逃げて、イルファン」女の声だった。

「誰なの?」


 聴こえる声には覚えがない。

 だがイルファンは頭を振ってそれを払おうとした。


 何かを応えようとするも喉が焼けていて掠れ声すら絶叫に代わった。朧げな記憶の中に燃える街の光景が浮かび上がった。知らない景色だと意識した瞬間の例えようのない違和感。人間たち。紅い巨城。それが異相を通して流れ込む。


「私はこれを知っている……?」

「イルファン!」


 またしても誰かの声が聞こえた。聞き覚えがあるようでない。幾つも折り重なった女性の声は自分を呼んでいる。自分を助けようとしている。空の向こうに大きな船のようなものが浮かび上がり、そこから何かが落ちて爆ぜる。それが墜落することも知っていた、とイルファンは思う。初めてなんて嘘なのだと思い知らされる。


「こっちだ、俺について来い」男の声だった。

「えっ、あっ、ちょっと待って!」

「暴れるな。ジッとしていろ」


 逞しい男の腕がイルファンを抱え上げて何かを告げた。

 しかしそれは数瞬後にはもう聞こえない。


 鮮血が迸って少女の顔に降りかかった。

 何人もの魔獣が火の中で殺し合っていた。


 琥珀の髪の毛。

 誰もが赤々と染まる世界では何もかもが血の色に見える。

 炎の色に見える。


 一滴の滴が男の頬を伝って、少女の胸に落ちた。

 その背後では誰かの絶叫が聞こえる。

 黒焦げになった数万の死体。女性の死体。

 伸びる男の掌がイルファンの眼を覆い、「見るな」と言った。

 暗転……。暗転、暗転する細切れの夢。


「あの街へ行け、イルファン」男が言った。

「そこに何があるの」

「お前自身がそこにいる」男はすでに死んでいる。


 だれだ。だれだ。

 何を見てはいけない。

 言葉はもどかしいほど細切れで、届かない。

 これは自分の記憶なんだろうか。

 遥か昔に沈めたはずのそれが。

 なぜ。なぜいま。


 逆流し、記憶が消え。また蘇り。

 そしてまた背後の暗闇から少女を呑み込もうとする影の孤独。


 恐ろしいほど不快だった。

 こんな記憶は知らない。


 リアトに助けられる以前に何があったかなど知りたくはないつもりだった。いらない記憶は消えていればいい。何もかも初めてでいい。鮮明には思い出せないが、それでも何かの片鱗が脳に流れ込んでくる。


「エルトリアムには彼がいる」女の声。


「エルミスタットに会いなさい」


「会わないといずれ消えるわ」


「あなたはいつか消えてしまうわ」


「死と同じように」女の声だった。


 だがそんな名は聞いたこともない。


「わけのわからないことばかり言うのはやめて!!」


 するとその瞬間に、紅い城の記憶はおぼろげなものとなっていた。

 その気持ちの悪い痕跡を感じて身震いする。

 急速に熱が冷めていくと同時に、目の前が真っ暗になった。

 喉へと流れ込んでくるのは、水。


「ぷはっ」息を切らしていた。


 と、肩に誰かの手が触れた。

 振り返るとそこにはリアト。


「どうした……大丈夫か?」

「あ、はい」イルファンが言う。


 少女はすでに甕から顔をあげていた。


 濡れた髪からぽたぽたとしずくが落ちる。もちろん、どこにも焦げた様子はない。火屑ひとつ付いていない。ただの幻覚。幻だったのだ。裏庭で呆けたように甕をのぞきこむ自分は、さぞかし間抜けに見えたことだろう。


 でもあれは確かにそこにあった。だが、そう考えているうちに、あの光景の現実感は、みるみる薄れていった。残るのはあやふやな炎だけ。その赤色だけだった。こめかみを押さえる少女を見て、不思議そうにリアトは首を傾げた。


「何事だったのだ?」

「ちょっと気分が悪くて」少女が言った。

「む。もうそんな歳か」


 リアトは何かを勘違いしているようで眼を丸くしていた。ひとしきり驚いたあとに、彼女は何事も無かったように話を続けた。いつも聞いている声がやけに響いて、イルファンは頭の片方に手を当てながら首をくるくると回した。


「イルファン。話の続きだが、奥義の伝授は皇都エルトリアムの剣王に伺いを立てねばならない。奥義を知るに相応しい技靈心を持っているのかを確かめるという名目でな。我が兄に務まるとは思わんが、厄介なことにこの儀には呪がかかっている」


 眉間に深い皺を寄せながらリアトが言う。


「兄」少女が繰り返す。

「そうだ。私よりも強い」リアトが答えた。


 彼女が剣王の妹であるという事実をイルファンは、今知った。それはそれで驚くべき事実であっただろうが、少女は大した反応を見せることができなかった。それよりも水瓶のなかに視えた物の方が深く、深く、少女を捕えていたのだ。


 よく分からない炎の幻視。

 あれは私の記憶なのだろうか。

 いつかは知らなければならないことなのか。

 

 ならば。


 うわの空で、

 イルファンはただ師匠の言葉に頷いていた。

 まずは街へ行くのだ。


 それが予言暦千二一年の氷炎月のことだった。

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