放課後、僕は彼女に殺されない。

(1)

 学校の教室から廊下に出て、数学科準備室へとたどり着くまでの道のり。

 岳は、いつもなら死刑台へと向かう囚人のような気持ちで、その道を歩いていた。

 しかし、その日の彼は、いつもとは全く異なる感情を抱きながら、彼女の待っている一室へと向かっていた。


 ――一体今日は、どんな風に殺してくれるのかなー?


 胸を躍らせながら、扉の前に辿り着いた彼は、「よし」という掛け声とともに扉を開けた。

 室内で待っていたのは、不敵な笑みを浮かべた美少女だけだった。

 彼が入って来て扉を閉めるなり、すぐに彼との間の距離を詰めだした彼女は、忍ばせておいたナイフを右手に装備する。

 そして、彼の左手のひらにナイフを突き刺すと、すぐさま逆手に持ち替えて彼の顔面の横へとその手を移動させる。

 そのまま扉にナイフを突き立てて、彼の左手を固定した。


「うッぐァッ……!!!!」


 苦痛の悲鳴が漏れ出るのを聞いた彼女は、スッと彼に顔を近づけて、自らの唇によって彼の口元を塞ぐ。

 左手から滴り落ちる血液が、ナイフを伝って、彼女の右手へと垂れていく。

 数分もの間、彼女との熱いキスを交わしていた岳は、やっと離れた彼女に対して、冷たい目線を浴びせていた。


「違うよ、真琴さん。僕が求めてるのは、こんなものじゃない」


 キス以上の行為を求めているようにも聞こえる発言だった。

 ナイフを逆手に持った彼女の右手を串刺し状態の自らの手で握って、扉に突き刺さったナイフを無理やり引き抜かせる。

 同時に彼の左手からも抜けて行ったナイフには彼の血がこびり付いており、彼女はそれを嬉しそうに見ていた。

 次の瞬間には、素早く順手に持ち替えて、岳の腹部目掛けてナイフを突き刺した。

 刺された岳は、扉に背中を預けながら腰を落としていき、一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべた後は、自らの口元を大きく歪ませていく。


「そうだよ! これだよこれ! 僕が求めてたのはさあ! 早く巻き戻って、もっと僕を殺してくれよ! 真琴さんのその白くて綺麗な手が、僕の血で真っ赤に染まって取れないくらいに、僕の体をぐっちゃぐちゃにしてくれよ――――――――」










「ハァハァ……」


 ベッドから飛び起きた岳は、自らの息が荒くなっているのと、体中汗まみれである事を確認する。

 時刻は朝の四時。

 昨日の夜は寝つきが悪く、ずっと寝られないまま、最後に確認した時計の時刻は二時半だった。

 寝られたのはそれから三十分後として三時で、まだ一時間しか寝ていない事になる。

 そんな短時間なのにあんな夢を見ていたのか、と彼は大きく深呼吸をしながら、再度枕に頭を預けた。


 ――なんだったんだ、今の夢……


 夢の内容は、現実と区別がつかなくなるくらい鮮明に覚えていた。

 真琴に殺される夢と、その夢の中で殺されるのを懇願していた自分。


「狂ってる……」


 まさにその言葉通りの状態の夢で、疲れ切った岳は自らの腕を額に当てる。

 そんな狂った夢を見せられたのも、昨日の放課後の彼女の発言によるものが大きいかった。


 そして、たとえ夢の中であっても、彼女に殺される事を無意識のうちに望んでしまっている自分が、途轍もなく怖かった。



 ――放課後、僕は彼女に殺されない。











「――――好きだよ」


 昨日の放課後。真琴の告白を聞いた瞬間、岳の頭の中は真っ白になった。

 「好き」という言葉が辺り一面に広がって、ゲシュタルト崩壊を引き起こしている。


 ――「スキ」って……「好き」ってこと?


 「すき」という日本語ではなく、「SUKI」という違う国の言葉のつもりで、自分の事を罵倒しようとしているわけではないのだろうか、と思うくらいに彼女の言葉を信じられなかった。

 彼女の口からそんな言葉が聞けるとは、思ってもみなかったのだ。


 嬉しさよりも先に動揺が彼を支配するのと同時に、真っ白な頭の中に黒い何かが垂れ落ちてくる感覚に襲われる。

 黒い何かはすぐさま言葉となって、彼女の元へと届くのだった。


「ウソだ……」


 その疑念の一言は、奇しくも彼女と契約を交わした際に、今と同じく彼女に抱き着かれた状況の中で、彼女から言われた言葉でもあった。

 否定するような彼の言葉を聞いた彼女の反応はというと、驚いた素振りなど見せる事無く至って冷静で、抱き締めるのをやめて、彼と距離を置いた。

 そして、彼の発言の真意について問いただす。


「どうして、嘘だって思うの?」


 彼の顔をじっと見つめる彼女の表情は、どこか寂しげだった。

 つられて岳の気持ちも暗い海の底へと沈んでいく。

 それは彼女が寂しげだったと言うのもあったが、違う理由が多くを占めていた。


 ――やっぱり僕には、見せてくれないんだ……


 芳原を目の前にした時に見せた彼女の表情が、彼の脳裏に過ぎる。

 あの時のような恋い焦がれるような表情を自分にも見せてほしかったのに、自分では彼女にそんな顔をさせられない事に苛立ちを覚える。


「真琴さんが芳原のことをまだ好きだって思ってるように、僕には見えるんだ。ホントはそうじゃないのかもしれないけど、僕にはもうそうとしか思えない……」


 彼の答えに、彼女は困ったように眉を垂れる。

 素直に彼女の好意を受け取っていればよかったのかもしれない。

 しかし、彼女の告白は、彼女の本心ではないように岳には見えたのだった。

 だから、本当の意味で好きと言ってくれる日が来るまで、彼女との契約関係を全うしようと言葉を紡ぐ。


「だからさ。僕がそう思わなくなるその日まで、いつもみたいに僕を殺し続けてよ、真琴さん」


 今度は岳の方から真琴に近づいて、彼女のスカートのポケットの中からナイフを取り出した。

 いつもはどこに忍ばせているのか全く見当もつかない彼だったが、今日だけはそこにあると解っていた。

 そして、ナイフを彼女に無理やり握らせると、その手首を握って、自らの首元へと移動させていく。

 いつもの彼女ならば、ここまでやれば殺さない筈はない。むしろ、殺してほしいと頼んだ時点で殺しに来てもおかしくはなかった。

 しかし、彼女は微動だにしなかった。

 彼女のナイフを握っていた手が、ゲームセンターのクレーンゲームのアームのように力を失くして、ポロリと床にナイフを落とす。

 床と刃物が勢いよく接触して、部屋には金属音が鳴り響く。

 その光景を目の前にして、岳は自らの目を見開いた。


「……私はもう、ツバキくんを殺せない」

「――――!?」


 彼女の口から告白よりも衝撃的な言葉が飛び出してきて、目の前が歪んで壊れてしまいそうな感覚を覚える。

 それを必死に元に戻しながら、言葉を絞り出す。


「どうして……?」


 彼女の殺人衝動の解消を目的として、彼は彼女と付き合えている現状だったはずだ。

 その根幹を成す殺人行為が亡くなるという事は、契約も破棄になって、彼女とは別れる事になってしまう。


「契約はもう終わりで、僕とはもう、付き合えないってこと?」

「違うよ。本当に好きだから、大切な人だから、もうツバキくんのことは殺せないの……」


 ナイフを失った彼女の手が、岳の頬へと添えられる。

 その手は小刻みに震えていて、今にも首を締めてきそうな表情を浮かべながら、殺人衝動に抗い苦しんでいた。


 ――じゃあ、本当に真琴さんは、僕のことを……?


 岳のごくりと唾を呑み込む音だけが、室内に響く。

 彼女の事を救おうとしていたはずなのに、結果として自分自身が彼女の事を苦しめてしまっている。

 苦しむくらいなら、いっその事いつものように殺してくれればいいのにとも思うが、彼女は殺したくないから苦しんでいた。


 ――僕は、どうしたらいいの……真琴さん?


 その言葉を口に出す事など、到底無理だった。何故なら、彼女だってその答えを求めているのだから。

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