(10)

 文化祭まであと一日。

 授業を取りやめて終日行われていた文化祭の準備は、不慣れながらも大きな混乱もなく終了し、いよいよ当日を迎えるのみとなった。

 明日に向けてやるべき事を終えた生徒たちが続々と帰宅していく中、新村麻衣は、一人廊下を歩いていた。

 向かっているのは、数学科準備室。彼女が、一度も足を踏み入れた事のない場所だった。

 彼女の設定した期限は、文化祭当日であったが、その前日である今日、その部屋で話がある、と岳の方から連絡が来たのである。


 岳自身が死ぬのか、それとも彼女である真琴が死ぬのか。

 その結論が出せず、延期してくれと頼み込むつもりだろう、と新村はため息を吐く。


 ――先輩。どんな言い訳をしたところで、明日には必ず先輩を殺しますからね?


 殺した後は、死んだ椿本岳と付き合う。それが、彼女の目的だった。

 目的を達成する為ならどんな手段も厭わない、と彼女は心に決めており、彼女の意志の固さがよく表れていた。


 約束の数学科準備室の前に辿り着いた彼女は、中の様子が窺えない扉の前で立ち止まる。

 扉の向こう側で待っているのは、勿論、連絡を寄こしてきた一つ上の学年の男子生徒だ。

 心の準備など必要ない、と中へ入ろうとドアノブに手を掛けた時、彼女は一瞬、その動きを止めた。


 ――あれ? 私、なんでここに来たんだろう……?


 ふと疑問に思って、ドアノブからそっと手を放した。

 先輩の彼から連絡があってここに呼ばれたのは間違いないが、果たして来る必要があったのだろうか、と彼女は考えに耽る。

 回答の期限は文化祭の日だと自分が指定し、そこで全てを終わらせるつもりだった。

 なので彼女は、約束の日の前日である今日に、彼に会う必要など全くなかった。


 彼の都合で、延期する為ではなく、当日よりも早くけりをつけてしまいたいのかもしれない。

 自分の都合を彼に押し付けている身の彼女としては、前日だろうが当日だろうが、どちらでも良かった。

 問題なのは、時間を延ばしてもらう為の相談だった場合だ。

 彼女自身もその可能性があると分かった上で、今、こうして出向いている。


 ――私は、悪役なのに……そのはずなのに、どうして、先輩の呼び出しに、素直に応じてるんだろう……?


 それは、どうしても彼女の中で消化しなければならない事柄だった。

 譲歩する姿勢など無いのなら、呼び出しに応える必要も、ましてや岳と一緒に帰った時に、文化祭当日まで回答を待つ必要もなかったのではないか。

 悪役に徹し切れておらず、完全に矛盾している自分に衝撃を受ける。

 気が付いてしまったせいで複雑な感情が入り混じった状態の中で、彼女は逃げ出すように再度、扉の取っ手を掴んだ。

 ガチャリという音と共に扉は開き、彼女は中に吸い寄せられていった。


 中は至って普通の、数学の教材が棚に並べられた部屋で、机とパイプ椅子が置かれていた。

 その椅子に腰を下ろした二人の人物が、新村の入室を待っていた。

 一人は、眼鏡を掛けた地味な雰囲気の、二年生の男子生徒。

 もう一人は、肩から胸にかけてをきちんと手入れのされた長い髪で覆い、モデルのようにスッとした体型の、同じく二年生の女子生徒。

 傍から見て、全くと言っていいほど釣り合っていない二人は、どういうわけか恋人関係にあった。

 そして、真琴の存在を確認した瞬間に、新村は眉をひそめる。


「椿本先輩。どうして、先輩の彼女さんまでここにいるんですか?  もしかして、彼女さんに死んでもらって、自分だけ生き残るっていう最低な選択をしちゃうんですか?」


 部屋に入るなり、彼女は岳を煽るようにそう尋ねかけた。

 彼は、座ったままの状態で首を横に振って、口を開こうとする。

 彼に対話の主導権を渡したくない彼女は、もう一度、彼を煽る。


「じゃあ、自分の死ぬ姿を彼女さんに見てもらいたかったんですかね? いいですよ? これから私が先輩を殺しますから、彼女さんには大人しく、そこで見ていてもらいましょうか?」


 二人の様子を注意深く観察していた新村だったが、煽られても何の反応も見せない先輩たちに違和感を覚える。

 余裕のある感じとは別方向の、覚悟の決まったような二人の表情を見て、彼女は少しだけ怖いと思った。


 ――なにかをしようとしてる……?


 二人が何かを企んでいる事は、その雰囲気からも間違いなかった。

 その企みが何のかを確かめようとした瞬間に、それまで椅子に座ってじっとしていた二人が、一斉に動き出す。

 机を挟んで、パイプ椅子に座っていた二人は立ち上がり、扉の近くにいる新村の元に来るわけでもなく、ただ、新村とは距離のあるところで隣り合う。

 その光景に不快感を抱いた彼女の口から、思わず言葉が飛び出してしまう。


「なんですか? 先輩たちは仲が良いってところを、私に見せつけたいんですか? そんなことされたって、私の気持ちを逆撫でするだけですよ」


 その言葉通り、新村は二人を睨みつける。

 そんな彼女の表情は、真琴が制服の隙間から取り出した物を見て、すぐに変わった。

 銀色に光る鋭い刃物の存在を確認して、その目を大きく見開かせたのだった。


 ――私を殺す……いや、違う?


 彼女は、岳と真琴が殺し殺されの関係にあるという事を知っていて、すぐにその事柄が頭に浮かんできた。

 まさか目の前でその行為を見せつけられるとは思ってもみなかった彼女は、困惑するばかりだった。


 そして彼女は、この時にも、自分が矛盾している事に気が付く。

 岳の事を殺そうとしていた自分が、彼が真琴によって殺されるのだと察した途端に、狼狽えている。


 ――なんで……私にとって、先輩はただの……


 ごくりと唾を呑み込む彼女は、彼の死を願っていたはずだった。

 死んだ彼と付き合う事で、自分を満たそうとしていた。

 それなのに、彼が殺されると分かった瞬間、怖いと思った。


 そんな戸惑っている彼女を横目に、真琴は岳の腹部目掛けて刃物を突き立てた。

 引き抜かれた刃物にはべっとりと血の跡が付いていて、その傷口からも赤い液体が周囲に飛び散る。

 その刹那、幼馴染を失くした日の出来事がフラッシュバックして、彼女の頭の中を完全に支配した。

 真琴に刺されて、机にしがみつきながらも前のめりになって膝を着く岳の姿が、記憶の中の霧林の姿と重なった。


「先輩――――!」


 彼女は叫んだ。

 訳が分からなくなって、ぐちゃぐちゃな感情を整理できないまま、無我夢中で彼の元へと駆け寄っていた。

 机もパイプ椅子も押し倒しながら、うつ伏せに倒れそうになっていた彼を仰向けにして、何度も何度も呼びかける。


「先輩! 死なないで! もう見たくないんです! 誰かが死ぬところなんて! 先輩! 先輩! 先輩先輩先輩先輩――――!」


 まだ息はあるが、それも今にも消え入りそうで、眼鏡のレンズにまで垂れた落ちた涙でぼやける光景の中、必死に彼の姿を捉えようとする。

 彼女自身にも止められないほどの感情が溢れ出して、呼びかけ続ける。


 そんな二人の姿を黙って見下ろしていた真琴は、持っていたナイフを逆手に持ち直す。

 そして、岳の傍で泣き叫んでいた新村を蹴り飛ばした。

 彼女の眼鏡も一緒に飛ばされてしまい、床を這って眼鏡を探した。

 ようやく見つけて彼女が眼鏡を掛けて、岳の方を見る。

 すると真琴は、倒れた彼に馬乗りになって、何度も彼の体目掛けてナイフを振り下ろしていた。


「あ。ああ……いやああああああああああああああああああああああああ――――」


 自分が殺そうとしていたはずの人間が目の前で殺されていく様を、彼女は、声が枯れるくらい泣き叫びながら見つめていた。

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