(5)

「うそつき……あと――――おかえり」


 耳元で真琴の声が聞こえ、岳は無事に死ぬ前の世界に戻ってこられた事を確認する。そして、安堵の息を吐くのと同時に、激しいめまいに襲われる。

 彼の人生において、めまいを体験したのは、これが初めてだった。


 ――うっ……気持ちワル……


 目の前の景色がぐわんぐわん揺れ動いて、倒れそうになるのを、彼は必死に堪える。

 しかし、逆らう事ができず、そのまま前のめりに倒れてようとしていた。

 彼女は、そんな彼を自らの方に抱き寄せながら、一緒になって教室の床に膝を着く。

 自分へともたれかかってくる彼の顔から、器用に眼鏡だけ取り外しながら、彼女は彼を自らの胸に抱く。


 ――いいにおいがする……


 今の自分の羨ましい状況すら認識できずに、そんな呑気な事を思いながら、彼は虚ろな目で宙を見つめていた。

 先ほどまで過呼吸気味になっていた彼も、彼女に抱き寄せられてから、段々と落ち着きを取り戻していった。


「ホントは怖いくせに……二回目でこんな状態なんだから、一週間付き合うのも難しいかもね」


 彼の顔の血色が良くなっている事を確認すると、彼女はそう言葉を漏らした。

 その言い分は正しく、これが毎日続いて、次第に慣れていくとは、彼にも到底思えなかった。

 それでも彼は、現実を受け入れて、殺される事に慣れるしかない。


 何故なら、彼女の事を好きになってしまったのだから。


 そんな好きになった彼女の胸に抱かれているこの状況は、彼にとって、この上ない喜ばしい事のはずなのに、今はそれに反応する余裕すらない。

 彼の中に棲み付いてしまった死の恐怖。それと同時に存在する、彼女の力になりたいと思う気持ち。

 それが彼の心の中にあるうちは、彼女と別れるという選択が彼の前に現れる事はないだろう。


「僕の心配……してくれてるの?」

「口だけじゃないのって心配してるだけよ。椿本くんのことを心配してるわけじゃない」


 彼女から頭を離し、フラフラとさせながら彼女の顔を見つめる。

 真琴が今、どんな表情で目の前にいるのか、岳にはぼやけて分からなかった。


 ――あれ? なんでぼやけてるんだ……?


 眼鏡を掛けていない事も認識できていない状態のまま、彼は自分の気持ちを話し始める。


「僕のことなんて、正直どうでもいい。僕の心が壊れたって、体が壊れたって別にいい。笠嶋さんが満足してくれるんなら、僕は喜んで犠牲になるよ。だから――――これから先、僕以外の男は、もう殺さないでほしい」


 彼からそんな発言が飛び出すとは思っていなかった彼女は、少し意外な表情をした後、感心するように尋ねかける。


「へえー。じゃあ、私が満足するまで、永遠と殺されてくれるってことでいいのかな?」


 彼がゆっくりと頷くのを見てから、彼女は持っていた眼鏡を彼の顔に戻す。

 漸く目の前の景色がはっきりと見え、彼女の満足げな表情もその目に映った。


「そっか。じゃあ、私は椿本くん以外の男の人を殺さない。てっきり怖気づくかと思ったんだけど、ちゃんと頷いてくれて安心した。やっぱり、狂ってるのは私だけじゃないみたいね」


 そう言われた彼は、不服そうに「そうだね」と彼女の言い分を肯定する。

 まだ足元が覚束ない感じではあったが、先に立ち上がった彼女の手を借りながら、岳も地に足を着く。

 自分だけを殺してほしいと宣言した事を少しだけ不安に思いつつ、彼は真っ直ぐ彼女の事を見つめた。


「椿本くんって下の名前なんだっけ?」

「岳だけど……なんで?」


 彼女から唐突に質問され、彼はそう聞き返す。


「椿本くんって長くて呼びづらいから、呼び方変えようかなって思って……――――“がっくん”?」


 その言葉を聞いた瞬間、彼の様子が一変した。


 ――うっ……!?


 悲惨な殺人現場を目の当たりにしたかのように、大きく目を見開き、苦しそうに自らの胸を押さえる。

 彼女が口にしたのは、彼にとっても馴染み深いニックネームだった。

 そして、その名で自分を呼んでいた少女と、目の前にいる真琴の姿が重なって見え、岳は耐え切れずに目を逸らす。


 これから彼女と付き合っていくなら、絶対に話しておかなければならない事が彼にはあった。

 それは、彼が中学生の時の事で、彼女に呼ばれたニックネームと深く関係していた。

 しかし、今このタイミングで彼女に話す事ではないと思い、目を逸らしたまま口を開けずにいた。


「だめ?」

「いや……」


 言葉を濁す彼の一連の様子から何かを察したのか、彼女はそれ以上、この事を追求しなかった。


「そっかー、イヤなんだー。呼びやすい名前だと思ったんだけど……じゃあ、“ツバキくん”は?」


 先ほどのニックネームで呼ばれる心配がなくなって、彼はほっとして、黙ったままの状態でその場に立っていた。

 それに対して、彼女は無視されていると思ったのか、怖い笑みを浮かべて口を開く。


「ねえ。聞いてるんだけど? もしかして、私のこと無視してる?」


 今にも懐からナイフを取り出して刺し殺してきそうな声色だったので、彼も慌てて答える。


「そ、それで大丈夫! うん! 椿本よりツバキの方が、笠嶋さんも呼びやすいと思うよ!」

「か さ じ ま さ ん?」


 暗に、その名前で呼ぶなと彼女は言っていた。

 彼女に刺されない為には、彼女を笠嶋以外の呼び方で呼ぶ必要があった。

 その雰囲気を岳自身もきちんと読み取った上で、機嫌を窺うように下の名前で呼んでみる。


「真琴さん……」


 ニックネームで呼ぶなど恐れ多く、下の名前をさん付けで呼ぶのが彼にとっての精いっぱいだった。


「変な名前で呼ばれたら殺しちゃおうかとも思ってたけど、まあ、及第点かな。気が向いたら私のこと、まーちゃんって呼んでも良いよ?」


 果たして、そんな気軽に彼女の名前を呼べる日が訪れるのかと、彼はぎこちない笑みを彼女に返す。


「嘘。まーちゃんって呼ばれたら、殺しちゃうかも」


 そう言いながら真琴は、おもむろにポケットに手を突っ込んだ。

 及第点を出しておきながら刺されるのかと思った岳は、咄嗟に身構えるが、ポケットから出てきたのは、彼女の握りこぶしだけだった。

 目の前に突き出された拳が手のひらを上に向けたまま開かれ、手の中にあったものが姿を現した。


 カギ。


 彼女の手の上に、ちょこんとカギが居座っていた。


「ナイフじゃなくて残念そうだね?」

「ぜ、全然そんなことないから!」


 彼が全力で首を横に振って否定する様子を、彼女は面白がっていた。


「うふふ……冗談。それじゃ、いこうか」

「……どこに?」


 その尋ねかけに答える事なく、彼女はカギを持っていない方の左手で彼の左手を掴むと、彼を連れて教室を飛び出した。

 放課後の校舎にいる誰かに見られてもおかしくない状況に、彼は周りを気にしながら歩く。彼女の方はというと、堂々と前だけを見つめて歩いていた。


「見られても、いいの……?」

「どうして見られちゃいけないの? 私と付き合ってるから? 私が彼女だと恥ずかしいから?」

「それは逆だよ」


 こんな自分では、彼女と到底吊り合わないと分かっているから、彼はそう呟いてみせた。同時に、何故自分と付き合ってくれるのか、尋ねたいと思った。


「どうして……真琴さんは、僕と付き合ってくれるの?」

「ツバキくんが、私に殺されてくれるから」


 そう返されるのを分かった上で彼は質問していた。それ以外の回答も期待していたが、彼女の口から出たのは予想通りの言葉だった。


「もし、真琴さんが僕を殺さなくても良くなったら、付き合うのをやめる……?」

「…………」


 彼女は答えないまま、彼と共に廊下を歩き、ある部屋の前で立ち止まった。

 頭上を見上げると、「数学科準備室」と書かれた表札が彼の目に入った。


「しつこく何回も問題集くださいって頼んでたら、先生がカギくれたの」


 そう言いながら彼女は、持っていたカギを使ってドアを開けると、彼を先に、部屋の中へと押し込んだ。

 突然彼女に押されて、躓きそうになりながら部屋に入った彼は、目の前にあった長机を掴んで、倒れずに済んだ。そして、その机に手を置いたまま、ドアの方を振り返る。

 彼の後に中へと入ってきた彼女と彼の目が合うのと同時に、彼女は器用に背中へと手を回して、ガチャリと部屋のカギを閉める。


 室内の棚には、びっしりと数学に関する参考書や問題集が並べられていた。

 岳の背後には長机があり、その周りにはパイプ椅子もあった。

 クラスの中でも極めて秀才な彼女が、先生に頼んで貰ったというのだから、脅すといった犯罪紛いの行為でカギを持っているわけではないだろう。

 しかし岳は、彼女の今までの行動を見て、脅迫して手に入れたのではないかと思い始めていた。


 彼にはそんな事に思考を傾けていられるほどの、悠長な時間はなかった。

 殺す者と殺される者の二人だけの密室の空間。

 これから何を行おうと、邪魔する者は誰もいない。

 だから彼女は、彼をこの部屋に連れてきたのだった。


「やっぱり、やめた」


 彼女はそう言って、手に持っていたカギを宙に投げて遊びながら、彼の方へと近づく。

 その行動を少しばかりの恐怖と共にじっと見つめながら、彼は発言の真意を尋ねかける。


「なにを……?」

「さっきの約束だよ。『ツバキくん以外の男は殺さない』っていう」


 彼女は、彼との距離がゼロになったところでやっと足を止めた。長机と彼女の間に挟まれる状態になった彼は、黙って彼女の話に耳を傾け続ける。


「私と離れたくないんでしょう? だったら、私を夢中にさせて」


 微笑む彼女は、持っていたカギを彼の腹に押し付ける。まるでナイフを扱っているかのようだった。


「ツバキくんだけを殺したいって、私に思わせるくらい、夢中にさせてくれない?」


 突き刺すくらいに力いっぱい押し付けられたカギに、椿本岳は自らの顔を引きつらせた。彼女と契約をした自分の決断に疑問を抱きながら。


 ――ホントに、これで良かったのかな……?

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