(4)

 真琴の発言は、非現実的なものだった。


 ――――彼女が人を殺すと、殺す前の時間にまで巻き戻る。


 彼女の言う通りではあった。岳が死んだ後、ナイフで刺される前の、彼女と対面している光景に戻っていた事は間違いではない。

 ただ聞いただけでは信じられないような事だが、身をもって体験した彼は、簡単に否定できない。

 どうやって時間が戻っているのかも不明で、理屈も分からないが、それは彼女も同じ事だった。

 何人もの男をナイフで殺す事によって、導き出された法則を、彼女は話しているに過ぎなかった。

 この現象の全てを、彼女自身も理解しているわけではない。

 そして、彼女は試行の結果で分かった事の一部を付け加える。


「そして、“私が殺したこと”と“私に殺されたこと”は、『私』と『殺された人』にしか分からない。たとえ、誰かが殺人の一部始終を目撃していたとしても、その人は何も憶えてない。『私』と『殺された人』の、二人の記憶の中にしか存在しないの。さっきの記憶も、私と椿本くんの、“ふたりだけの思い出”なんだよ?」


 彼女は嬉しそうにそう語っているが、思い出と呼べるほど、時間も経過していない上に、悪い思い出なので、残っているメリットなどどこにもなかった。

 二人だけ、とわざと強調するように言われ、少しドキッとした部分もあったが、彼女の言葉に惑わされてはいけないと、岳は我に返る。


「二人以外の部外者の記憶が消えてくれるんなら、その人たちと同じように、僕の中の記憶も消えてくれれば良かったのに……」

「せっかくの私と二人だけの思い出なのに、消えちゃってもいいの?」

「人間誰だって、嫌な記憶は消したいって思うでしょ? それと一緒だよ。こうやって、笠嶋さんと会話してるだけでも、お腹が痛くなってくる」

「そんなに痛いなら、トイレ行ってきてもいいよ?」

「そういうことじゃなくて!」


 否定する彼が呆れるような素振りを見せると、彼女は笑みを浮かべながら謝罪する。完全に彼の事をからかっていた。


「ごめんなさい。刺されたことを思い出して、お腹が痛い、ってことね。そっか……私にとってはいい思い出なんだけれど」


 そう言いながら彼女は一歩ずつ、彼の方へと歩みを進め始める。

 彼は彼女との距離が詰められていく事に、一抹の不安を覚えながら、少しだけ身構えて、彼女の言葉に耳を傾け続ける。


「私のナイフで傷ついたお腹から、段々とあなたの命が流れ出ていく。そんな感覚を思い出すたびに、私は幸せな気分に浸れる。でも、思うだけじゃ足りない時が必ず来ちゃって、そんな時に椿本くんがいてくれたらって思うの」


 障害物として自分の前に配置した机の上に膝を乗せて、彼女は彼の方へとそっと手を伸ばす。


「襲われたあの日から、私は男の人のことを殺す対象としか見れなくなっちゃった。だから、不用意に近づいたりしないし、話もしない。じゃないと――――殺したくなっちゃうから」


 彼女が男を避けていた理由がやっと判明した瞬間だった。

 こうしている今も、彼女は目の前の男を殺す事しか考えていないと思うと、彼女の伸ばしてきた手が凶器にも見え、岳は思わず身を仰け反らせた。

 そのままバランスを崩して、床に倒れこんだ彼を、彼女は、机の上から四つん這いになって見下ろす。


「ねえ、椿本くん?」


 机から降り出す彼女の、スカートと太ももの隙間から下着が見えそうになる。それを彼が目を瞑ってかわしている間に、腹部に重みを感じた。

 彼が目を開けると、彼女が彼に馬乗りになっていて、綺麗で整った彼女の顔は、これでもかというくらいの至近距離に存在していた。


「私と契約しない?」


 岳の顔に息を吹きかけるように尋ねかける真琴。そんな彼女の手には、いつの間にナイフが握られており、切っ先は彼の首元の方を向いていた。


 ――脅しの間違いじゃ……?


 そんな状態で、「契約」という言葉を持ち出されても、脅迫にしか聞こえない。

 しかし言葉に出せば、また殺されかねない、と岳は言葉を飲み込んだ。


「さっき私に告白してくれたでしょう? 今でもその気持ちに変わりがないなら、椿本くんの告白を受け入れようと思うの」

「それってつまり……付き合ってくれるってこと!?」


 その問いかけに彼女が頷いた瞬間、曇っていた彼の心が一気に晴れ渡る。


 ――僕が笠嶋さんと……!?


 ナイフを突きつけられている事など忘れて、素直に喜びが溢れる。

 しかし、それも束の間で、彼女はある条件を彼に提示する。


「うん。でも、その代わりに、椿本くんには私の欲望を受け入れてほしい」

「え……?」

「聞こえなかった? 私と付き合う代わりに、私に殺されてよ、椿本くん――――?」


 首元にあった切っ先がゆっくりと彼の顔へと近づいて、彼の視界に入るのと同時に、その動きを止める。


 ――あれを……繰り返せって言うのか?


 殺された時の感覚を思い返した途端に、喜びが一瞬にして恐怖に変わった。

 急にそんな提案をされても、すぐさま結論を出せるはずもなく、岳も黙り込むしかなかった。


「明日の放課後もこの教室で待ってるから。契約する気があるなら、明日もう一度、私に告白してみせて?」

「もし……もしも断ることになったら?」

「ここまで私自身のことをさらけ出したのに、断る気なの……? まあ、そうなったとしたらまた明日考えましょう」


 彼女は顔を上げると、ナイフを突きつけるのをやめて、立ち上がろうとする。

 またもや、彼女のスカートの中が見えそうになった彼は、目を瞑ってそれを回避した。


「バイバイ」


 そう言って彼女は、自分の席の方へと向かうと、机の横に掛けていた鞄を持って、早々に教室から出て行った。

 一人残された岳は、そのまま横になった状態で、額に手を当てながら彼女との契約について考える。


 彼女と付き合うには、彼女に殺されなければならない。

 殺される前に提案されていれば、彼は「イエス」と即答していたかもしれなかったが、死を味わってしまった今となっては、すぐには答えが出ない。

 

 彼女は彼の事が好きだから、この契約を持ち掛けたわけではなく、単純に殺す相手が欲しいと思って、提案してきたのだろう。

 男性を殺す対象としてしか見れなくなった彼女にとって、付き合うというのは、彼が考えているほど重要な意味を持たない。


 私に殺されてくれればそれでいい。そう岳の事を捉えている。

 彼女はそれで構わないのかもしれないが、岳はそれではダメだった。

 普通の恋人同士のように付き合いたいと思ったから告白したのであって、そこに彼女に殺される項目が入ってしまうと、それはもう普通ではない。

 しかし、逆に考えれば、殺される事だけを我慢すれば、彼女と付き合うことができる。

 そう聞くと良い条件のようにも思えてきて、岳は自らの頭を悩ませていた。


 自分のせいで倒れたり、移動している机や椅子を元の位置に戻す間も、岳はずっと考えていた。

 そんな状態を家に帰るまで引きずって、気が付けば、夜から次の日の朝まで、彼はずっと考え続けていた。

 回答期限である翌日も、普段通りに登校する彼だったが、授業の内容は一つも頭に入ってこない状態だった。

 彼女の事で頭がいっぱいで、普段と変わりない様子で真面目に授業を受けている彼女の事を十分おきに見ていた。


 ――彼女は昨日、どんな気持ちで自分の嫌な過去を、話してくれたんだろう?


 契約を持ち掛ける為の説得材料として話したのだろうが、それでも隠す事はできただろう。

 同じクラスの男子である彼に、強姦未遂の話をするというのは、彼女にとってのリスクではある。そして、それを避けられない彼女ではないはずだ。

 少しでも信用がないと話せないと考えた彼は、「彼女に信用されてるのか?」と昨日の行動を振り返ってみるが、信用を落とすような行動しかとれていない。


 ――なんで、僕なんかに話したんだ……?


 彼女も、殺す相手を探すのに苦労していたから。告白してきた彼が、都合がよさそうだと思ったから。殺した時の感覚が、他の人よりも良かったから。

 考えても考えても、どこにも辿り着けないまま、約束の放課後を迎える。

 彼女を待たせてはいけないと思いながらも、彼の足はトイレの個室へと向かい、便座の蓋にそのまま座り込んで、両手で頭を抱えながら、回答を考える。

 こんな風にトイレに閉じ籠るのも中学校以来の事だろう。トイレはいつだって、彼の心を落ち着かせる場所だった。


 あんな思いをする前の彼女は、男の子に恋をしていたのだろうか、と岳は考えだす。

 その人が突然、恋愛対象から、殺人対象になってしまったのだとしたら、どれほどの辛い思いを彼女はしなければならなかったのだろうか。


 ――もしも、僕が彼女だったら……


 彼女の事が好きだったはずなのに、今では殺したくてしょうがなくなってしまったら、と彼は想像する。


 ――耐えられるのか……?


 それに耐えながら彼女は生きているのだとしたら、今どれほどの辛い思いをしているのか、と考えるだけで彼自身も辛くなってくる。

 死ぬのが痛いから、彼女と付き合わないとか、死なない為の別の方法を探すとか、そんな事を考えている場合ではなかった。


「はあー……バカだな、僕って」


 それは今からの自分の行動に対するものでもあり、過去の自分を顧みながら出た言葉でもあった。

 便座から立ち上がった彼は、トイレを後にすると、教室へと向かった。

 教室では、笠嶋真琴だけが、寂しそうに自分の席に座っていて、ドアの前に立っている彼に気づくと、立ち上がる。


 少しでも彼女の力になれば、それでいい。それが好きという気持ちではないのか、と自問しながら、岳は教室に足を踏み入れた。

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