穏やかな休日

海洋ヒツジ

穏やかな休日

 午後四時前。いつもより暖かく、いつもより早い時間の金色の夕暮れ。

 何となく体の調子がいいぼくは、引きこもりがちな体をおして丘の上にある公園へと向かうことにした。

 なだらかな坂を進み、ゆったりと高度を上げ、やがて頂上。

 静かな広場に、一人だけがぽつんといた。

 その制服を着た女子学生に話しかけようと思ったのは、いつもの痛みがなかったせいだろう。

「こんにちは」

 つまらなそうにスマホを触っていた女子学生は無反応で、そのままスマホを触る作業を続けた。もう一度声をかけると、おもむろにぼくの方を見た。

「……ちわ」

 低いトーンで「こんにちは」の短縮形を発する女子学生。睨むような目つきで、あまり機嫌は良くなさそうだ。

 けれどぼくは挨拶を返してくれたことにすこぶる気を良くして、彼女の近くに位置取ることにした。

 成人済みのぼくより若い女子学生は、接近したぼくを怪訝な目で見つめたが、逃げることはしなかった。

「なんすか」

 声をかけられたことで、ぼくの方から何か用事があると思ったのだろう。しかし顔も知らない同士、用事も何もあったものではない。

 強いて言うなら、調子のいいぼくは、この何とも言えない調子のよさを誰かと共有したいと思っていた。

「今日はいい日ですね」

「そうっすか?」

「とても暖かいです。昨日は少し肌寒いくらいだったのに、今日は過ごしやすい」

「それだけ?」

「そうですが」

「フツーじゃん」

 女子学生はすんなりと言い切った。他意はないが、小生意気な口調だ。

「この時間の夕暮れって、何か特別な感じがしません? 不思議と落ち着くというか」

「そうかな」

「空気感というか、熱感というか、自分にぴったり合っていて、不安や悩みがどうでもよくなる感じです。今は、とても穏やかだ。心地いい」

「アタシはそうでもないや」

 この公園にいることで感覚を共有できていると思っていたぼくは、落胆した。独りよがりで話していた自分が恥ずかしくなる。

 沈黙。遠くの方で馬鹿にするようにカラスが鳴いている。

 ゆるく日が落ちていく。初夏が近いせいだろうか、夕暮れが長く感じる。冬ならばすぐに薄暗くなるのに。

 公園の背の高い時計はちょうど四時を指している。学校の授業が終わるのはいつ頃だったろうか。三十分前だったか、三十分後だったか。

 丈の短いスカートのこの女子学生は、見たところ高校生のようだが、学校はどうしたのだろう。

「……でも、分かるかも」

 唐突に女子学生は口を開いた。

「え?」

「いやだから、なんとなく穏やかになれる感じ、だっけ? そういう日、あるかも」

 感覚的でしかない話だ。それを、分かると言った。

「雨の日なんかがそうかな。ざーざー降りとかじゃなくて、しとしとって感じの雨。それを窓辺で聴くのが好き」

「雨の日か」

「お兄さん的にはどうよ? 雨」

「昔は好きだったかな。でも今は、ちょっと痛むから」

 ぼくは思い出して、足の部分をさすった。雨の日は気圧のせいか、ここがひどく痛くなる。

「へえ、ないのに痛むものなんすか」

「そういうものだよ」

 さすった右足は、硬い鉄の感触。

 本来のものは、数年前に交通事故で失った。今は片方だけ。

 ふうん、と女子学生は言って、足の話はそれきりになった。

「とにかく雨がいい。夏の日の、涼しい雨。窓を開けて、床に寝転がって目を閉じるの。そうすると、いろいろ忘れられる」

「嫌な事でもあるのかい?」

「そりゃあ、あるに決まってるでしょ。たくさん。面倒で面倒で、逃げたくなるよ……今日も、ちょっと逃げて来た」

 何処かを見つめる女子学生。つまらなそうな目で。

「学校にチクったりしないでね。ずる休みなんて、他の子もしてるんだから」

「ああそうか。まだ授業中なんだ」

「それで話しかけて来たんじゃないの? 学校をサボる不良生徒にわざわざ説教でもしてくれる、暇な人かと思ったけど」

「勘違いだよ。暇には違いないけど」

 そうかあ、と女子学生は空を仰いだ。

 今日は木曜日。平日を、どうやら彼女は学校の外で過ごしたらしい。

 ぼくは無断で学校を休むことにもろ手を挙げて賛成はできないけれど、わざわざ正そうとも思えない。特に、事情がありそうな女子学生に対しては。

 関わりないぼくには、その事情を聞くことはできないけれど。

「今日は、忘れられた? 嫌な事」

 悩み多き女子学生は、空を仰いだ顔を元に戻した。その時に、んぐ、と変な声を出した。

「まあちょっとは」

「それならよかった」

「そうすか」

 やっぱり、今日は特別な日のようだ。不思議と落ち着く、何の変哲もない穏やかな日。

 向かった先、逃げた先の公園で、ばったり出くわし打ち解ける。

 きっと空の色のせいだと思うのだ。四月の半ば、不意に現れた空が、あまりに綺麗な金色をしていたから。

「静かっすね。誰も外に出ていない休日みたい」

 女子学生が言う。丘の上の公園は不思議と人がいない。とっくに授業が終わっているだろう小学校からも離れており、下校のはしゃぎ声も届かない。

「もしかすると本当に日曜日だったり。ぼくら二人だけ、今日が平日だと勘違いしている」

「ねーよ」

 ぼくが笑う。女子学生が笑う。

 後に続く会話はなくて、ただ妙に落ち着いた公園のベンチに座り、二人してゆっくりと暗い橙に染まっていく空を眺めていた。

「じゃあ、先に」

 三十分くらい経った頃。女子学生は鞄を持ち上げると、あっさりと家路についた。

 軽やかとは言えない、引きずるような足取りで、元いた場所へ帰っていった。

 休日が終わる。

 そろそろ帰ろうかと腰を上げた時、機械の右足が少し痛んだ。ぼくはまた杖を突きながら、ゆるやかに坂を下りていく。

 次の休日が、今から待ち遠しかった。

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