第16話 料理人を探せ

 子どものころ、母の化粧台に置いた淡いすみれ色の香水瓶を手に取ったことがある。すべすべして光っていて、とてもきれいだ。

 うっとりしていると、母が恐ろしい形相で瓶を奪った。


「触らないで……! わたくしの切り札なのよ!」


 小柄でひかえめだった母が、ふだんかぶっていた偽りの仮面を外し、本性をあらわにしたのは彼女の知る中でこの一度きり。

 実父の葬式でも彼女は貞淑な妻を演じぬいた。そして葬式を訪れていた、とある貴族に見初められ、再婚することになる。

 連れ子の彼女は何不自由なく育てられた。あの香水瓶にまつわる記憶の断片を心の奥底にしまい込んだまま。

 彼女が嫁ぐ間際、香水瓶を譲り渡された。さらにその製法をひそかに伝えられ、他言することを固く禁じられた。

 彼女の切り札。それは生と死を自在に操る妙薬だ。

 彼女は無害な顔の皮の下、身の内にひそかな毒を隠し持っている。







 クローヴィス・ラトキンという男は自分に対して無頓着な男である。

 風呂は一週間どころかひと月入らなくとも平気だ。その汚い服だって大事なところが隠れていればいいわけであって、色の取り合わせだとかデザインは一切気にしない。生地が丈夫であればよしとする。

 傭兵時代は過酷なもので、戦場の最前線は寝る間さえ惜しかった。命の危機に瀕していることもあるが、「寝る間を惜しんで」働けば、雇い主の金払いもよかった。ひと月は余裕で起きていられる。

 周囲の仲間たちは彼の異様な身体能力をうたぐったりしていたが、彼は気にしていなかったし、なんなら彼らのからかいや揶揄もそれと思わずに聞き流していた。

 そんな彼が料理をすれば、その腕前は彼基準では十分でも、日ごろ毎日の献立に苦慮する百戦錬磨のマダムや、宮廷専属のお抱え両人に叶うはずもない。

 彼にとっては「自分が食えればいい」、その一択しかないのだ。

 よって料理のレパートリーは、母から簡単に仕込まれた料理と、自分で適当に編み出した素人料理ぐらいのもの。食事は一日三食。その三食を作り出すのに、世の主婦たちはたいへんな苦労を日々重ねていることをクローヴィスは実感する。

 育ち盛りのリュドミラに今後も食べさせるには、もったたくさんのレシピを手に入れるしかない。

 彼は他人のためなら努力を惜しまない男だ。


「料理のレシピですか?」


 厨房の責任者が「なぜ」と言いたげな顔をする。


「そんなもん、どうするんです?」

「作るために決まっているだろ」

「はあ。ご苦労さんなことですな。というより今までよく続いてきたもんですよ。野菜屑のスープや焼きの甘い肉でよく皇女殿下が我慢してこられましたね。言い出すのが遅いぐらいです、あんな粗末な料理を食べさせるなど、普通ならとてもできませんな」


 そう言いながらフライパンや鍋を振る料理人の手つきは魔法そのものだ。次々と陶器の皿に盛られる料理は目がつぶれるほどに豪勢な輝きを纏っている。

 皇宮で雇われる料理人ならば料理の腕も推して知るべし。

 クローヴィスの素人目にも一線を画した実力がわかる。


「こっちも毎日、毎日目が回るような忙しさなんですよ! 皇宮の人々を養うために朝、昼、晩の三食作っているんです。加えて、あなた様から預かった牛の世話までさせられているんです! わたしではなく、他の暇な料理人に聞いてくださいよ!」

「どうせなら一番上手いやつに聞きたいだろ」

「おだてたって何も出ませんよ」


 相手はクローヴィスの顔も見ないまま。リュドミラの料理を作るために日に三度は訪れているから、彼も宝玉騎士への敬意も簡易的になったものと思われる。


「あの皇女殿下に関わりたがる者はいませんよ。ここの料理人のほとんどが、ザーリー閣下の息がかかった者ばかりです。使用人も半分が、官僚も四割が。あの方に逆らおうだなんて思っちゃいけません。並みの人じゃありませんから」

「ザーリー閣下はそんなに偉いのか」

「常識ですよ。ガー皇国の財布を握っておられる。本人も大変な財産家であり、皇室とも縁戚です。でも、それだけじゃあありません。あの方は大変な苦労人で、そこからあれだけの地位に上りつめた人ですよ」


 意外にも、料理人の目には尊敬の念すら浮かんでいる。


「ふうん」

「ガリヴァ・ザーリー。傾きかけの子爵家の貧乏学生が、今やガー皇国を下から支える大人物になったんだから、夢があります」



 仕事の邪魔です、と料理人は忙しそうに話を打ち切った。

 料理のレシピを教えてもらおうとしていたのに、収穫なしのまま。今度は宿舎に顔を出す。

 すると訓練終わりにベッドに転がったトマスを見つけた。まるで砂浜に打ち上げられた深海生物のようだ。


「うわ……ああぁあ……ううううぅ」

「おい、トマス」

「ふわっ! はい、上官! 起きているでありますですよっ!」


 寝ぼけたトマスがベッドの上で起立して敬礼を取った。

 もちろんクローヴィスは「上官と呼べ」と指示した覚えは一切ない。


「料理はできるか?」

「まったく、できないでありますっ! ぐぅ」


 また寝た。大人しくベッドにもぐりこんで。


 夕方。例のごとくヤコブが決闘をしにやってきた。最初の決闘から数日が経つが、彼はそのたびに必死で戦いを挑んでくる。

 意地になっていると言ってもいい。


「やめとけやめとけ。頭に血が上りすぎているぞ。冷静にならないと俺には勝てないぞ」

「いいから早く剣を構えろ。さもなくば敵前逃亡とみなす」

「大げさだなあ」


 勝者はクローヴィスだった。決闘の際に、足に打撲を受けたヤコブが倒れこむ。

 草や土がついたまま仰向けになったヤコブを上から覗き込む。


「いっ……!」


 気絶から覚めたヤコブは目と鼻の先に憎きクローヴィスがいることに慄きの色を見せた。


「おい」

「な、なんだ……」

「料理できるか」

「そんなわけあるか」

「そうか」


 ヤコブは軽く服を叩くと立ち上がり、敗者とは思えない堂々とした歩みで去っていく。

 そもそも料理人でもない男に聞くのが無理だったのかもしれない。

 今度は適当な侍女を捕まえた方がいいだろうか。

 そう思っていたところ、裸婦像に寄りかかって昼寝していたカシムが目に入る。

 ポンポン。肩を叩く。

 するとなぜか手を掴まれた。


「ふふぅーん。俺に気があるのかな、子猫ちゃん。今夜、俺と……」


 彼は聞くにも卑猥な口説き文句を呟いて相手の手をさする。

 そして「子猫ちゃん」の肩に手を置こうとして……気が付いた。


「なんだ、騎士殿か。残念。いい夢を見ていたのに」


 ふわあっ、と猫のようにあくびをする。


「俺を女と見間違えるのは相当危ないぞ。間違っても皇女殿下の前で寝ぼけないてくれ」

「りょーかいりょーかい」

「ところでカシムは料理できるか?」


 二度目のあくびをしようとしたカシム。開いた口をそのまま閉じた。


「……少しはできますケド。それがどうかしましたか」


 カシムはクローヴィスの熱烈な視線を浴びてたじろいでいる。

 太めの眉に、服の上からも筋肉がついているとわかる立派な躰。

 クローヴィス・ラトキンはつくづく男好きのする男だとカシムは身をもって実感した。

 恋愛対象も男だったらどうしようという思考も頭をよぎる。めくるめく薔薇色の世界にくらくらする。そんなもの嫌に決まっている。

 遠い目になるカシムにお構いなしのクローヴィスは、相手の肩をがしっと掴んだ。


「俺に料理を教えてくれ」

「……料理、ですか? えぇ、嫌ですよ。だってそれは給料の内に入らないでしょ。余計な手間が増えるのは面倒ですし、ねぇ? ……いや、やっぱりやります。だから見つめないでクダサイ。身の危険を感じるので」

「よく言った。ありがとう」


 クローヴィスは朗らかに礼を言いながらカシムの腕を引っ張った。

 このまま厨房に連行しようというのである。


「俺、今日はこのままどこかで若い人妻をひっかけてこようと思ったのに……」

「人妻食うより旨い飯を食う方が健全だろ」

「俺には人妻も重要なんだよ! あぁ、俺のメアリー……」

なら厨房にもいるぞ。よかったな!」

「そっちは牛だろ!? 適当なことを言って誤魔化すな、ペテン師!」


 伊達男が髪を振り乱してもクローヴィスの怪力には叶わない。文字通り、ずるずると引きずられていくカシム。



 厨房にて。彼は死んだ魚のような目で調理台の前に立った。


「……で、作って誰に食べさせるんですか」

「皇女殿下に決まっている。諸事情があって自前で用意しているんだ」

「へえ。毒殺を恐れているんですかね。なるほど、だから騎士殿はよく厨房にこもっているわけだ」


 カシムは胸ポケットに入っていた赤い薔薇を水の入った小さなコップに移し、包丁を持った。

 ふう、と深呼吸したカシムは「何を作ります?」と諦めたように尋ねてくる。いかにも嫌そうな気持ちが伝わってくる。

 クローヴィスはこれまで作った料理名を伝えて、それ以外の料理を作るようにリクエストした。


「俺だけだとレパートリーが少なくて困っていたところだった。この国の料理も作れるか?」

「残念ながら、俺は皇女殿下が口にするような大層な料理は作れないんですがねえ。せいぜいが庶民の味なんですケド」

「大丈夫だ、うちのリュドミラは何でも美味しく食べる。育ち盛りにはいろんなものを食わせてやりたいだろ」

「お母さんか」


 ポリポリとカシムは頭をかいた。


「……もしものときは責任を取ってもらえるならやりますよ」

「もちろんだ。俺も毒見するし、安心しろ」


 なんでこんなところにまで来て料理をするハメになるんだよ……! カシムは不平不満をこぼしながら調理を開始した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る