第14話 リュドミラの一週間

 それから一週間。リュドミラの日常は一変した。

 これまでは孤独な塔で侍女キャロラインと息を潜めていた生活だった。今は塔内にいても男たちの訓練の音が窓から入ってきて、リュドミラを落ち着かなくさせた。

 塔の下で訓練が行われているのだ。

 「飛べ飛べ飛べ!」「遅い!」「あと百回続けろ!」

 クローヴィスの声がする。野太くて大きい。近くにいたらびっくりして腰を抜かしてしまうかもしれない。

 彼は警備隊からやってきた三人組へ訓練を行っている。ちょっと練度が低いんだよなあとは彼の談である。

 リュドミラもそのことは理解できた。初対面でクローヴィスに横抱きにされたトマスという青年などは見るからに兵士とは思えない体躯をしていた。


『……訓練の指導をした経験が?』


 クローヴィスは自らを元傭兵だと名乗っていたから、そんな経験もあるのかと思った。しかし彼は「見たことがある」とだけ言った。

 以前に訓練風景を見たことがあるから指導もできるということらしい。

 根拠のない自信かと思いきや、トマスに関しては成果が表れてきている。倒れてばかりで地面とお友達状態だったのに、自力で立ち上がる姿を見かけることになった。クローヴィスは時々、倒れこむトマスにこそこそと何やら耳打ちをしているのだが、そのたびにトマスは飛び上がって元気になる。何を耳打ちしているのか気になるが、トマスの名誉にかけても言えないという。

 リュドミラが下を覗き込んで知る限り、クローヴィスの施す訓練はそこまで的外れのものではないように思う。きちんと受けてさえいれば、であるけれど。

 問題は残りの二人。人妻好きのカシムはよくさぼって芝生の上に寝っ転がるか、訓練場の目印に置いた白い裸婦像にもたれかかってトマスたちの訓練を見ているようだ。窓の下を覗き込むリュドミラの姿を見るとカシムは下からひらひらと手を振ってくる。

 ヤコブに至っては訓練に姿を現さない。

 塔の警備は訓練の時間帯以外の朝、昼、晩と各一人振り分けられたが、ヤコブは自分の担当の時間にふらりとどこからか現われ、交代要員がくると去っていく。クローヴィスが話しかけようとしても無視するようなそぶりを見せることが多い。

 実力があるなら強要することもないだろ。彼はそう言うから、リュドミラも尋ねてみた。


『彼はクロよりも強い?』

『そうだなあ。たぶん、俺の方が強いよ』


 気負う様子もない宝玉騎士がさらりと答えてみせる。

 リュドミラもそれを聞いて安心した。

 強そうだという半ば勘のような印象でクローヴィスを宝玉騎士に決めたから。強いに越したことはない。


『クロはどのくらい強い?』

『さあなあ。大陸見渡せば俺より強いやつはごろごろいるだろ。そこはやってみないとわからんが、顔を合わせれば何となくわかることもあるさ』


 ヤコブに勝てるのだと彼は直感で悟っているのか。

 得心したようなしていないような顔のリュドミラ。彼は黒髪をがしがし掻いた。


『『俺は世界一強い』と誇張でもいいから話した方が雇い主は安心するだろうがな、そういうことはしたくない。余計なトラブルを呼び込むこともあれば、自分の慢心に繋がる。まあ、そういうもんだと思ってくれ』

『それは構わないわ。言葉よりも行動してくれる方がずっといい』

『同感だ。ま、しばらくこの塔の下あたりで訓練するから、暇つぶしに覗いてみろ。ご主人様の姿が見えた方がやつらも張り合いが出るからな』


 それからずっと昼間は絶え間なく人の声が塔の上まで登ってくる。

 不思議なもので、今までずっと聞こえなかったことには何の違和感も抱いていなかったのに、人の活気の中で生活していると、それなしでは生きられなくなってくる。

 リュドミラの閉塞した世界に新鮮な風を吹き込んだのはクローヴィスしかいない。

 彼はおおざっぱながらも安全な食事を作ってくれるし、簡単な身の回りの世話もしてくれる。昼は訓練があるし、夜間も見回りに出るために寝る間もないのだろう。

 本当は彼をもっとねぎらって休ませてやった方がいいのはわかっているが、状況がそれを許してくれない。


『皇女殿下。夫はこれまでにないほどにあなた方に興味を持っていますよ。

 クローヴィス・ラトキン。彼の存在はこの塔の雰囲気を一変してしまいましたから。もうここは私と殿下が死んだように生きた場所ではありません。

 私をここから追い出しますか?』


 日に一度もこなくなった侍女のキャロラインが先日、リュドミラにこう告げたから彼女は警戒を解けない。

 食事に毒は入らなくなったけれど。

 毒味用のネズミを捕まえる罠を仕掛けなくてもよくなったけれど。

 毎日の食事が美味しく感じられたけれど。

 彼女を取り巻く環境は変わらず彼女に牙を向けている。

 まして自分には時間がない。

 一刻も早く手を打たなければならないのに、彼女の宝玉騎士はあくまで彼女自身の安全を優先する。

 そんなことよりも、と彼女が言い出したらまた頬を張られるだろうから言わないでいるが、歯がゆさを感じているのも事実だった。

 皇女という身分はあっても、彼女自身の存在はあまりにもちっぽけだから、今すぐ何かしなければ手遅れになるのではないかと不安になる。

 私はこの人生で何を為せるのだろう?

 いつもそのような問いとともに生きている。


「……母様、どうしよう」


 リュドミラ皇女を今一番悩ませていること。

 ……クローヴィスとの接し方。




 それから数時間ののち。塔に夕焼けの光が忍び込んでくるころに事態が動いた。

 訓練にまったく首を出さなかったヤコブが急に訓練場に現れたと思ったら、その足でクローヴィスに決闘を申し込んだのだ。

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