第9話 メアリーという女

 皇女が朝食を摂る間、キャロラインは来なかった。

 今のうちに、とリュドミラは言う。


「クロにお願いがあるの」

「命令ではなく?」

「……そうね、命令だわ」


 彼女は空になった朝食プレートを横に押しのけ、距離を詰める。


「情報を集めてきてほしいの。皇宮に流れている噂だったら何でもいい。特にザーリーに関する噂には気をつけて聞いてほしい」

「わかった」


 あっさり首肯するクローヴィスに皇女は不安を抱いたようで、重ねて言う。


「もちろん、情報収集だってばれるのは愚策だわ。あくまでさりげなくしてほしい。自分は皇宮の新参者だから何でも教えてほしい、という姿勢でいてほしいの。どう?」

「うん。まあ、大丈夫だろ」

「あともう一つ。これはできたら、でいいのだけれど……」


 躊躇いを見せながら言うには、最近、使用人の中でうっかり調度品を壊した話を聞いてきてほしいというものだった。


 よくわからないが、これまたクローヴィスはあっさり承諾した。

 では、あとはお願いね、と言おうとするリュドミラに、クローヴィスはこう告げる。


「ちょっと待った。俺の方からも提案がある」

「提案?」

「この東の塔前でもいい、兵士を置かないか?」

「それは……」


 リュドミラの顔が曇る。


「それだけじゃない。これからの食事の問題もある。毒見をするのもいいが、そもそも毒見をせずに済むのが一番いい。食材は街で適当に買って済ませられるが、厨房が自由に使えないのは問題だ」

「……私自身がどうにかできる問題ではないわ。考えないこともなかったけれど、父上とお会いする時にはいつもザーリー側の人間がいたから主張することなんてできなかったの」

「なら、ついでにその問題も片付けてこよう。皇女殿下は、警備の兵や安全な食事が欲しいだろ?」


 そうね、と皇女は小さく呟いた。胸の奥に苦しいものを隠しているような表情をする。


「……お願いしてもいいかしら」

「そっちはお願いか」

「そう、お願いなの。最優先は、最初にした命令の方だから」

「承った」


 一旦は扉の方へ向かいかけたクローヴィス。また思い出したことがあって、振り返る。


「一緒に来るか?」


 皇女の口が何かを言いたげに開くが、すぐに首を振る。


「……行けない。行ってはいけないの、私は」

「複雑な事情があるから?」

「私はね、何の害もない弱い者でなくてはならないのよ。今の治世が末永く平和であるためには」


 パタン、といかめしい木製の扉が閉まる音。

 クローヴィスは螺旋階段を下りる。

 かわいそうな、塔の上のお姫様。

 彼女は弱いふりをしなければならない。足も悪く、口も利けないことにすれば、誰も彼女を持ち上げ、利用しようとする者は現れない。彼女は、自らを飼い殺しにされることを望んでいるのだ。ガー皇国のために。

 お姫様とはそういう生き物なのか。そうなのか。

 クローヴィスは釈然としない気持ちになる。彼は、世の中の理不尽には山ほど接してきても、その中から自分の納得する生き方を選んできたからそう思うのだろうか。

 それにしてももやっとするなぁ。クローヴィスの小さな呟きは誰にも咎められることはない。





 東の塔から下りたクローヴィス。

 まず向かったのは、ハッセルへの帰り支度をしているエゴール王子一行だ。彼は恨めしそうに叔父を迎えた。


「叔父上さぁ。昨日、僕のメアリーを勝手に強奪していくんだからさぁ、ひどくない?」

「悪い悪い。急ぎだったんだよ」

「うわぁ、絶対、悪いと思ってないでしょ」


 やんなっちゃうよ、もう! エギールは唇を尖らせる。

 なお、「メアリー」とはエギール所有の乳牛の名だ。彼は美食ゆえに、毎日飲む牛乳には「メアリー」の乳しかありえないと思っている。「メアリー無しでは生きられない」というのが彼の談だ。

 実は昨日、クローヴィスは勝手にメアリーの乳絞りをしていったので、エゴールはお怒りなのだった。


「で? 昨日たまたま僕は出かけていたけれどさ、僕のメアリーを誰に飲ませたわけ? もしかして皇女殿下?」

「そうだ。特製シチューを飲ませておいた」

「何で叔父上が料理をしてるんだよ」

「事情があるんだ、色々と。エゴールたちはいつ出立するんだ?」

「明日だよ。また陸路と船旅一か月だよ。お土産はもらったからいいけどさ」


 甥っ子はぽろりと呟いた。明日でお別れだね、と。


「まさか、叔父上が宝玉騎士になるなんてさぁ……さすがに思わないだろ? きっと父上は腰を抜かしちゃうよ。母上ともども心配するだろうねえ」

「兄上たちもわかってくれるだろ。俺は傭兵だったから、いつもこんな感じだ。雇い主が変われば、住むところも替わる」

「何言ってるのさ。叔父上の家はハッセルだよ。忘れないでよ」

「うれしいことを言ってくれるな」

「もういつ帰ってくるかわからないんだから、言葉は惜しまないよ。叔父上がいなくなると寂しくなるね。せっかくここまで仲良くなれたのに」

「まあな。俺もそう思うよ」


 しみじみとした空気が二人の間に流れた。

 そしてその空気をまたぶっ壊したのはクローヴィスだった。


「エゴール、物は相談なんだが、メアリーを俺にくれ」

「何でさ! やんないよ。やだよ!」


 エゴールの両肩をがしっとクローヴィスは掴む。逃すものか。


「わかってる。いかにお前がメアリーを愛しく思っているか。それこそ昼も夜もなく、その体に触れて、抱きしめて眠りたい思いも。それに彼女から絞り出される乳はお前の朝を素晴らしいものにしているのも知っている。お前にとって唯一無二の女性なのだろう。だがな、彼女の良さを知っているのはお前だけじゃない。彼女の助けを必要とする人が彼女を待っている。ここで一つ、男気に免じて、俺に預けてみないか?」

「お、お、叔父上。至近距離でそんなに恥ずかしいことをよくペラペラとしゃべりますね!」

「それだけハッセルの牛はいいんだよ。よかったな、これで皇女殿下を通じて皇帝陛下に伝われば、ハッセルお国自慢ができるぞ。これは光栄なことに違いない」

「おじうえーっ!」

「よしよし。いい子だから大人しくしてろ。ん?」


 エゴールとクローヴィスの攻防戦は十分ほど続いた。結果、顔をほてらせソファーに倒れこんだエゴールの負け。

 クローヴィスは意気揚々とメアリーを連れていく。

 ではまたな、と軽い挨拶だけ残して。

 エゴールははだけた首元をきっちり締めながら「叔父上が残るんなら僕もガー皇国に遊学でもしてみようかな」と呟いたという。

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