第8話 皇女殿下の朝

 翌日。白み始めた空とともに、彼は何度目かになる仮眠から目覚めた。塔の入り口脇にもたれかかっていた姿勢をやめ、毛布をはがし、大きく伸びをする。ついでに塔の外周を走ってみたり、腕立て伏せや屈伸運動をしたり、剣で軽く素振りをしつつ体をほぐす。

 そのころになると、朝日が目を射んばかりに東の空から現われた。


「よし、行くか」


 塔の手前で助走をつけた彼。

 そのまま勢いよく螺旋階段を駆け上がる。

 それはなぜか。雇い主のリュドミラに朝の挨拶をしに行くためだ。




 バタバタバタバタ!

 床が軽く震動するほどの音に、リュドミラはベッドから慌てて起きた。な、何事、と言いかける口を押え、彼女はベッド脇に立てかけておいた白い杖を剣のように構えた。

 どくどくどく、と心臓が早鐘を打つ。

 階段を上る足音は、まっすぐ最上階へ向かい、彼女の自室の前で止まる。


「失礼するぞ」


 のんきな声とともに入ってきた大きな人影。クローヴィスだ。

 彼はベッドの上で固まるリュドミラをしっかり確認した。


「うん、起きてるな」

「さ、騒がしいのにどうやって寝ていろと?」

「騒がしかった? 誰が?」

「あなたが」


 人差し指で指されたクローヴィスはバツが悪そうに頭を掻いた。


「朝は早めに起きた方が気持ちいいだろ」

「不愉快な足音で起こされるのが?」


 琥珀色の目がすうっと細くなる。彼はすぐに折れた。主人の機嫌を損ねるのは得策ではないと判断したのだ。


「……次から気をつける」

「ノックも忘れないで」

「わかった。だが……」

「なに?」


 ネグリジェ姿のリュドミラの前で、彼はまだその場でぐずぐずとしている。実は俺、と彼は意外なことを言い出した。


「今まで女に仕えたことがないから何をすればいいのかよくわからん。だからいろいろ気が回っていない。もし、俺がふさわしくない言動をしていたらその都度言ってくれ。直すから」


 彼から歩み寄りのような言葉を聞くとは思わなかったリュドミラは、どぎまぎしながらも冷静に答える。


「……みんなの前で口を利くわけにはいかないけれど、何か意思表示はするわ」

「よろしく。それと……」


 彼は昨晩の出来事をリュドミラに告げる。

 犬の鳴き声と彼女らしき人影を塔で目撃したことを。

 リュドミラはぎくりとした。


「どうしてそんな夜に塔に入ったの? 誰かがやめとけと言ったでしょうに」

「皇宮とは言え、夜は危険なことには変わりないさ。用心が足りないぞ」

「好んでここに近寄る者はいないわ。入り込むのはネズミぐらいのものよ」


 クローヴィスは腕組みをする。


「……だったら犬は?」

「さあ? 昔は黒い犬を飼っていたこともあるけれど。今は何も飼っていない。あまり楽しい話じゃないから、これ以上は聞かないで」

「ふうん」


 彼は微妙に納得できていないような間で相槌を打つ。リュドミラは、彼女自身の事情にクローヴィスを巻き込むつもりはない。今はまだ。


「そうだ。皇女殿下、おはようございます」

「お、おはよう?」

「では、またあとで」


 ばたん、と扉が閉まる。階段を降りる音が聞こえる。

 今の、何の脈絡もない話題転換は何だろう。「おはようございます」って、何?

 リュドミラの今までの朝は、日が高く上った辺りで世話係のキャロラインが上ってきて、朝食のプレートを置くところから始まっていた。朝早くに騎士からの訪問を受け入れる習慣は、ない。

 リュドミラは、宝玉騎士(クローヴィス)を手駒にするために選んだ。自分の足とするために。

 彼なら自分の言うことを聞いてくれそうだ、という曖昧な第一印象を理由にしたのだ。

 けれど、この時点でどうだろう。彼女が想像していた存在とはまるで違っている。すでに何かが間違っている。ちっともリュドミラの言うことを聞きそうにない感じがひしひしと伝わってくる。

 むしろ、振り回されているのはリュドミラの方だ。

 先行きの不安さを思い、彼女はため息をつきながらのろのろとネグリジェからドレスへと着替えるのだった。

 彼女はまだ知らない。着替え終わった後に、朝食を持ってきた新米宝玉騎士による突撃再訪問が敢行されることなんて。




 塔から下りたところで、朝食を持った侍女、キャロラインに出会った。


「おはようございます」

「おはよう。今日の朝食か」

「はい」


 クローヴィスは、おもむろにプレートに乗ったパンを手に持った。彼女は驚いたように目を見張るが、気にせず一口食べてみる。


「あっ……」


 しかし、それ以上のことを彼女は言わない。表情を観察しながらもサラダやスープも一品ずつ口にする。

 だが、最後にチーズのひとかけらを口に入れそうになった時、侍女の目の色が明らかに変わった。


「これか」


 クローヴィスは口に入れる直前でチーズを放り投げた。綺麗な放物線を描くチーズがぽちゃんと池に落ちた。

 侍女は気の毒なほどに血の気を失せた顔をしている。


「な、何のことでございましょうか」

「いや、大したことではないさ。あ、皇女の朝食は俺が持っていくからあんたは別の仕事をしてもらって大丈夫だ」

「は、はい……」


 侍女がくるっとターンをして戻っていった。最後の方は駆け足気味だ。朝から怖がらせてしまっただろうか。


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