第25話 一発屋、一発逆転する(前編)

「なに、ただの与太話だよ。……もうお前の勝ちは確定したんだ。それくらい付き合ってくれてもいいだろう?」


 僕は宿木の注意を引こうとすがるように、哀れっぽい声を上げる。宿木はそんな僕を見てとりあえずは警戒を解いたのか、「ふん」と鼻を鳴らして僕を見下ろす。


「まあ、いいだろう。負け犬の遠吠えくらいは聞いてやる。それで人生を変える一発が何だって?」

「ああ。僕は前にそのことについて花咲と話したことがあったんだ」


 僕は体中を走る痛みをこらえながら、壁にもたれるようにどうにか立ちあがった。


「お前は知らないだろうが、彼女はうちの学校で『一発屋』というのをやっていた」

「……い、一発屋?」

「そう。『一発屋』……つまり『人生を変える一発』を売る商売だよ。何かの目標やなりたいものがあるクラスメイト達にそのきっかけを与えてやるんだ。それで僕も彼女にそれをしてもらおうと思った時に話したんだ。『人生を変える一発』はどういうものなのかってね」


 宿木は無表情に僕を見つめ返す。


 三人の手下も困惑した顔をしながらも、とりあえずは黙って傍観していた。


 僕がしていることは前に宿木が僕に対してしたことと同じことだった。


 つまりは時間稼ぎである。


 これにどんな意味があるかわからないが、ここで最後の最後まで悪あがきをし続けなければ一生後悔する。そんな気がしたのだ。


「彼女は僕にこう言ったんだ。『人生を変える一発』というのは『微分』なんだと。その人生における変化率が大きい瞬間のことだ、とね。僕はそれを聞いて思ったんだ。それじゃあ人にとって人生の変化の度合いが最も大きいのはいつなのか。それはゼロが一になる瞬間なんじゃないかって」


 そう。僕は何かをするのに「はじめの一歩」を踏み出すことがいつも怖かった。


 恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったのだ。


『余計なことするなよ』『お前、邪魔だわ』『つかえねえな』『ねえ、本当にあいつと絡まないといけないの?』


 周りから投げかけられたのはいつもそんな言葉だ。


 何かに挑戦すればいつだって自分の無力さを思い知らされるだけだった。


 スポーツにしろ人間関係にしろ、何かをする度に失敗して笑いものにされるうちに最初の一歩を踏み出すのが怖くて何もできなくなってしまっていた。


 だけれども、花咲に出会ってからは初めての連続だった。初めて誰かを大事に思い、他人のためにできることをしたいと考えて、距離を置いていたクラスメイト達に初めて自分から一歩を踏み出した。


「ゼロが一になる瞬間?」

「そうだ。何かの分野で『一回』達成したことを『二回』『三回』成し遂げてもそこに大した違いはないだろ? でも初めて何かを経験する時の新鮮さは、そいつの世界観を変えるんじゃないかと。


 宿木は一瞬目を見開いた後で「ははははっ!」と笑いだした。榎田や茨木までも見下すように顔をニヤニヤと緩ませる。


「おいおい、美空ちゃん! お前はこいつと同じ学校だったんだろ? だったら数学ぐらい教えてやらなかったのか?」


 宿木は手を拘束されたまま立ち尽くす花咲をからかうように声をかけた。


 だが、花咲は「さてね」ととぼけたように首をかしげるだけだ。宿木は「ふん」と鼻を鳴らして僕を侮蔑するように言葉を続ける。


「じゃあ、僕が教えてやろう。一般的な二次関数では微分係数によって算出する変化率は『増えていく』のが普通だ。勿論、対数などのように最初の接線の傾きが最大でだんだん変化率が下がるものもあるが、例外的なケースだ。……人生にたとえるなら、最初は一つずつ些細なことしかできなくとも積み重ねて学習することで発展的に十や二十もの大きな成果を上げられるようになるのが有能な人間という訳だ」


 宿木はここで一度言葉を切って可笑しくてたまらないというように口を歪ませて見せる。


「『ゼロが一になる瞬間が大きく変化する』などとんだ見当違いだよ。君のように最初の一歩を踏み出しただけで何かを達成したと勘違いしている凡人にはお似合いの結論だがね」


 嘲笑する宿木に対し僕は「なるほど。凡人ということに関しちゃあ返す言葉もないな」とため息交じりに答える。


 宿木は続けて「君もそう思うだろ?」と花咲にも水を向ける。


 彼女は静かな表情でこう答えた。


「確かに、数学的には君のいう事が正しいな」


 宿木はその答えに「我が意を得たり」とばかりに得意そうに鼻を鳴らす。だが、彼女の言葉はそこで終わらない。


「……だが、彼の言わんとしていることは数学的結論を超えた形而上の意義を指している。確かに『ゼロが一』に増えても『一が二』に増えてもそれ自体の差は同じ『一』に過ぎないし、二次関数においてはむしろ後者の方が変化率が大きい。だが前者には後者にはないという重大な変化が含まれるんだ。この観点は興味深いものがある」


 そこで彼女は小さく口の端を持ち上げて「そして」と続ける。


「私は十の力で一しか持たない者をいたぶる男よりも、一の力で懸命に十の相手に挑もうとする男子のほうが好みなんだ。いじらしくてね」


 宿木はこの件に関しては花咲も自分に賛同するものと思っていたらしく、小さく舌打ちをすると僕に向き直った。


「それで? 話はそれで終わりか? ……本当にただの与太話だったな。さて本題に戻るが彼女が自身の開発した量子コンピュータの改良に協力する気がないのなら、僕らはその気になるまで君をいたぶり続けないといけないわけだ」


 そこで彼はぱちんと指を鳴らした。


 檜原がニヤリと笑ってポケットからなにか工具のようなものを取りだした。鋏に似ているが、刃の部分が持ち手と比べて小さい。


 あれは……ペンチ?


「安心したまえ。体に障害が残るようなことはしない。……指先は人体の神経の先端の一つで敏感で繊細にできているってことくらい、君も知っているだろ?」

「……ま、まさか」

「君が爪の二、三枚も剥がされながら良い声で歌ってくれれば、彼女の考えも変わるんじゃないかと思ってねえ」


 流石に僕もその痛みを想像して足がすくみそうになる。


 花咲が「おい。そんなことをしてかえって非協力的になるとは思わないのか?」と鋭く言い返すが、宿木はその言葉に冷笑で返した。


「嫌ならば協力することだ。なにせ爪は二十枚もあるんだ。もっとも早く考えを変えてくれないと彼の場合は『そうでなくなる』だろうがね。……おい、やれ」


 檜原が寒気がするような笑みを浮かべながら僕に近づいてくる。抵抗しようとしたが茨木が僕を背後から抑え込む。


「は、放せ!」


 僕に構わず檜原は腕を掴んで羽交い絞めにする。花咲がさらに何かを言いかけた、まさにその時。


 電子音がその場の空気を止めるように鳴り響いた。


「何だ? こんな時間に」


 苛立たし気に茨木が呟く。


 その音は倉庫内に設置された固定電話が着信した音だった。


 榎田が「事務所からの電話転送ですよ。宿木さんが『いつ大企業からオファーがあるかもわからないから、ビジネスチャンスを無駄にするな』って設定したじゃないですか」と補足するように言う。


 僕ににじり寄っていた檜原が舌打ちしながら背を向けて電話を取る。


「はい、もしもし。宿木電子ですが……」

『うわっ! マジじゃん。本当につながったよ!』

「は?」


 軽薄なノリの若い男の声が聞こえてくる。


『じゃあガチでパクってたってことですか?』


 檜原は無言で電話を切った。


「……何だ? 今のは」

「さあ。いたずら電話っすかね?」


 宿木と檜原が困惑した表情で言葉を交わしあうと、間髪入れずにまたも電話が鳴った。またも檜原が受話器を持ち上げる。


「もしもし?」

『あのう、そちら宿木電子ですよね』


 微かに受話器から漏れ聞こえてきた声からするに、先ほどの発信者とは違い今度は女性のようだった。


「は? そうですが」

『じゃあ、さっき言っていた量子コンピュータをいただいたっていうのは本当だったんですか』

「何だ? 変な言いがかりはやめろ!」


 檜原は受話器を叩きつけるように通話を終了させた。


「……ったく、さっきから一体」


 檜原が不機嫌そうに文句を口走りかけたその時、またも電話が鳴り始める。彼は顔を引きつらせた。もはや電話を取ろうとはしなかった。


 そして僕はその背後で異変がもう一つ起こっているのに気が付いた。


 茨木が少し前から無言で自分の携帯電話をいじっていたのだが、その表情がみるみるうちに青ざめていく。


「あ、あの宿木さん」と茨木が声をかける。


「今度はどうした?」

「いえ、さっきから広報用に作った社のSNSに非難のメッセージが殺到していまして……。それでその中の一つに動画のリンクが貼られていて」

「何だ? 動画?」

「すっ、少し前からこの部屋の中が撮影されてネット配信されています!」

「なにっ!」


 宿木は先程までの冷静沈着な態度から打って変わって完全に取り乱す。


 無理もない。僕がここに来てからの会話の中で彼はこう発言していたのだ。


『彼女が開発した量子コンピュータ』

『いただいた量子コンピュータで何も考えずに流される愚かな大衆どもから金を巻きあげる』


 また量子コンピュータのプロトタイプを盗むために『マンションを調べて忍び込んだ』とも。


 つまりは不特定多数の人間の前で自分が窃盗を犯したことを自白してしまったに等しい。


 宿木は茨木から携帯電話をひったくって動画を確認すると、すさまじい剣幕で檜原に掴みかかる。


「この無能が! 何故、そこのガキの身体検査を怠った!」

「ち、違いますって! あいつは確かに何も持ってなかったんです。それにこのカメラの視点、奥の方からですぜ」


 二人がもみ合っているうちに、花咲は無言で僕のところに近づいてきた。榎田も茨木も揉みあう二人に気を取られていてその事には気づかない。


 彼女は無言で拘束された手首を見せて、僕に目配せする。さいわい手錠など鍵がかかるたぐいのものではなく、ワイヤーロープによる拘束だったのでどうにかほどけそうだ。


 僕が彼女を解き放とうとしていると、檜原が茨木の携帯動画を見ながら呟く。


「この目線、榎田の量子通信グラスじゃないすか?」

「何だとっ!」


 宿木は茨木の指摘を聞くや否や榎田に殴りかかった。


 その勢いで榎田の量子通信グラスが外れて床に落ちる。「ひっ」と榎田が怯えた声を上げるが、宿木は構わず量子通信グラスをグシャグシャと踏みつぶして壊してしまった。


「おまえ! 何かへましてあの女に仕掛けられやがったな!」

「そ、そんな! 私は何も」


 ふと僕の隣でくっくっと吐息が漏れるような音がする。


 横を見ると花咲がこらえきれないとでもいうように口元を抑えていた。


「くっ。ふふっ。はははっ!」


 とうとう花咲は声を上げて笑い出してしまう。その様子を見て宿木が「な、何が可笑しい!」と問いただした。


「いやいや。自分の失態を他人に押し付ける人間のなんと滑稽なことかと思ってねえ」

「僕の……失態だと?」

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