第6話 少年、テレビの前で煩悶する

「ただいま」


 僕はそう言って自宅の玄関の扉を開ける。


 といっても、両親は共働きで家には誰もいないのだが。


 いつもなら気にならない静寂が今日はどういう訳か煩わしく感じられた。僕は学校の制服から私服に着替えてリビングルームのTVのスイッチを入れる。


『……という驚きの事件を今夜は特集します』


 番組の司会の声が薄暗い室内に響いた。


 どうやら何かのドキュメンタリー番組が再放送されていたようだ。


 内容にはあまり興味がなかったので、僕はそのままソファーに寝そべって天井に目を向けながら思考を巡らせ始めた。


 考えていたのは他でもない、花咲に言われたお礼の話である。


「どんなことでも。人生を変えるような一発を、か」


 現金な話だが、少し前までそんな欲求はないと思っていたのに改めて願いをかなえるだけの力を持った当人から問われ、しかもタダで叶えてくれるとなると流石に何も願わないのは勿体ないように思えてくる。


 手に入らないと思い込んでいたものに急に現実味が出てきて、僕らしくもなく浮足立っていたのだ。


 さて、何をかなえてもらおうか。人生を変えるような一発、か。


 僕は生まれて初めて胸が躍るような心地になったのかもしれない。

 だがちょっと待てよ、と僕は思いなおす。


 脳裏をよぎったのは、果部や宇田のことだった。


 彼や彼女たちは花咲のおかげで『一発』は当てることができたものの、人生を変えるほどには至らず結局元の木阿弥になってしまったではないか。


 どうせ願うのなら一発で終わるのではなく、それを生かして人生そのものを覆せるような大きな一発を狙うべきだ。


 となると。


 非常に陳腐だが、僕が最初に思いついたのはやはり金であった。


 海外の宝くじでは数百億円にもなるものもあるようだが、日本のサッカーくじでも十億円の当たりくじが出た例もあるようだ。


 彼女の未来予測装置を使えば、例えば「サッカーでどちらのチームが勝利するか」を予想するのはお手のものではないだろうか。


 株や競馬などは税金がかかると聞いたことがあるが、宝くじなどは非課税だったはずだ。


 数百万円や数千万円程度では一生遊んで暮らすなどできないが、十億円あれば人生を謳歌するには十分だろう。


 勿論、金があれば幸せになれるわけではないが貧困や飢餓、病気といったたいていの不幸は経済力で回避できるのだ。


 金を贅沢に使って充実した人生を送っている自分など考えられないが、それでも大抵の人間が抱える人生の悩みの半分は解消されると言って良いだろう。


 僕がそこまで思考を巡らせた時。


『衝撃事件! 宝くじ当選者を襲った悲劇!』


 TVのドキュメンタリー番組からそんなナレーションが僕の耳に飛びこんでくる。


 ビクッとして僕は思わず目を向けた。


『今回はアメリカで実際に起こったある悲惨な事件を紹介したい』


 TVの画面には再現ドラマとセンセーショナルなナレーションを交えて、アメリカの殺人事件の成り行きが映し出された。


 とある貧民街の青年がたまたま購入した宝くじで数十億円もの大金を手にする。


 しかしその次の日から近所の人間や親せきが「金を貸してほしい」と訪ねてくるようになる。金額そのものは数万円程度だったが、借りた人間たちは催促しても一向に返そうとしないのだ。


 人間不信になりかけたところで青年はある女性と出会い、「家に置いておくから人に狙われるのだ。管理会社を作ってみてはどうか」と薦められる。


 だが、ここで大げさなナレーションが入る。


『この一見善良そうな女! 実は、彼女は最初から青年から金を奪うことが目的で近づいたのだ!』


 その女性は管理会社を作る手伝いをすると言いながら、青年の金を自分のために横領していた。ある日、数千万もの金額が減っているのに気づいて問い詰めようとした結果、青年は逆にその女に殺されてしまう、という結末だった。


『宝くじさえ当たらなければこんなことにはならなかったのに』


 番組の最後はそう呟いて涙を流す青年の母親の表情で幕を閉じた。


 画面に見入ってしまっていた僕は我に返って首を振った。


「……考えてみれば、うちは特別貧困な家という訳でもないな」


 我が家は別にお金持ちでもないが、どこにでもある中流家庭である。おそらく僕を大学に進学させる程度の資産はあるようだし、僕にしたって就職して働けば生活に困るということはなさそうだ。


 そうだ。それよりもこういうことは「お金ではどうにもならないこと」を願うべきではないだろうか。


 例えばそう。女の子だ。


 柳田のやつではないが、花咲に頼めばTVに出演しているアイドルのような美少女とだってあんなことやこんなことができるのではないか。


 勿論、フェロモン薬とやらに頼った仮初めのものかもしれないが、それでも一度だって国民アイドルレベルの美少女と肉体関係をもてたなら本望かもしれない。


 と、その時だ。


『今日のゲストはアイドル、是玉蘭菜これたまらんなちゃんです!』

 TVから司会の声が響き渡った。


 いつの間にか番組はバラエティーに変わっていたらしい。


 映し出されたのは、愛らしい笑顔が人気の百万年に一度の美少女と話題のアイドルだった。


「相変わらず美人だよな。この子は。スタイルもいいし。これ、たまらんなあ」


 思わず僕は画面の中の彼女に目を奪われる。



 そこで番組の司会者は、話題を進め始めた。


『今日の番組テーマは、学生時代の恋愛でーす。……蘭菜ちゃんはどう?』

『私ですかあ? まあ正直言って同級生の男子なんてイモにしか見えませんでしたね』


 今をときめく美少女アイドルは無邪気な笑顔でそう言い放った。


『そうなの? じゃあ、今身近にいる人とかどう? そこのテレビのスタッフさんとか』

『あはは。いやでも、そういう人って何で大人になって照明をする仕事を選んだんだろうって思っちゃうんですよ』

『えっ? これはキツい一言が来ちゃったなあ』

『ライト浴びせるだけの仕事とか、マイクで音声を録音するだけの仕事をするのに、何で自分の一生を捧げちゃったんだろうって』


 そこで、周りの出演者から『言い過ぎだよー』『スタッフさんだって頑張っているんだから』とその場の雰囲気をとりなすようなセリフが出てきた。


「そりゃあ、そうだよな」


 僕は思わずぽつりと呟いていた。


 生まれた時から可愛らしい容姿に恵まれ、周りから特別扱いされて生きてきたのだろう。当然性格にも影響が出ようというものだ。


 人間の価値は外面と内面、両方あってのものだとは思うが、やはりああも性格が自分本位だとわかってしまうと、僕は何だかさっきまでの欲求を満たそうという気持ちが萎えていくのを感じていた。


 いや、結局のところいくら美人であっても気持ちが通じていなければ虚しいだけなのではないか。そのことは既に柳田が身をもって示していたはずだ。


 僕はため息をついて何となくTVのチャンネルを変えた。


 他に叶えたいことはないだろうか。


 宇田のように、音楽でみんなを魅了する?


 だが、一曲しか作れないのでは意味はない。


 いや待てよ。音楽ではなく他のものならどうだ?


 そう。例えば漫画なんてどうだろう。名作漫画を描いて世界中の人々の心をつかむのだ。


 ファンの皆から尊敬を集めて、アニメなども制作されたりして。数千万部くらい売れれば、お金だって入るし、生活にも困らない。


 一作しか書けなくても大ヒットすれば十分ではないか。


 何より自分の書いた作品が誰かの心を動かすのはきっととても嬉しいことのはずだ。


 僕には漫画を描く才能はないが、花咲ならば漫画の才能を開花させる道具くらい持っているかもしれない。あるいはヒットする物語を作る機械を持っているかもしれないではないか。


「うん、悪くない。これで決まりだ」


 僕がそう呟いた時。


『実録ドキュメンタリー! 情熱の夜明け!』


 何やら別のTV番組が始まったようだった。


『今日はあの日本で一番ヒットしている漫画家! 嬉杉小丸うれすぎこまるの密着取材です!』

「お、あの『進撃のピースハンター』の作者、嬉杉小丸か」


 僕もこの人の書いた漫画の単行本を持っている。十年ほど前から週刊漫画誌に連載を始めて、アニメもすでに放映され世界中で売れている大人気の漫画家である。


『どうですか? 先日、漫画賞も受賞されたそうですが』

『いやあ、売れすぎて困りますよ』


 TV画面の中には眼鏡をかけた不健康そうな青年が映し出され、インタビューに答えていた。


『今後の作品の展望はいかがですか?』

『ようやく、半ばを超えたところです。これから伏線を回収して主人公が宿敵との決着を着けることになると思います。盛り上がるので期待してもらえれば、と』

『これはファンとしては嬉しい話ですね』


 そこでインタビュアーは別の話題に移る。


『ところで、嬉杉先生は普段どんな生活をしているんですか?』

『どんなって。……朝起きたらネーム。下書き。アシスタントさんが来たら作画作業ですね。一段落したら担当さんと次の話の打ち合わせです』

『はあ。息抜きとかは』

『お盆と年末くらいですね。それ以外はずっと漫画です』


 画面の中の日本一有名な漫画家は生気のない表情で質問に答え続けた。


『一日の睡眠時間は?』

『四時間も眠れればいい方ですね。アハハ』

『はあ。……そんな生活をずっと?』

『ええ。デビューしてから十年位。……週刊漫画を描くって大体そんな感じですよ?』


 僕は見ていて思わずため息が出た。


 そうだ。アニメ化して何千万部も売れるとなれば、当然それだけまとまった話を書き続けなければならない。昔ヒットした漫画は大体、全四十巻くらいで完結していただろうか。今は人気があればもっと長く続く漫画もあるようだ。勿論それだけ人気があるものに限られるが。


 つまり十数年以上もろくに眠れず遊びもできず、ただ漫画を描くだけの生活を続けてようやく名声と富が手に入るのだ。


「無理だ。……そんなの辛すぎる」


 漫画を描くのが楽しい人間ならばそれでもいいだろうが、僕にはそこまで情熱を燃やせそうにない。


 仮に漫画を描いて一発当てるにしても、その後人生を謳歌できる頃には中年のおじさんになっているではないか。


 僕は先程まで描きかけた夢想を断ち切るように、TVのチャンネルを切り替えた。


 何かで一発当てるとして、漫画が駄目なら他に何かないだろうか。


 例えば小説なんてどうだろう?


 漫画と違って、文章だからまだ体力はそんなにいらないかもしれない。


 なにより週刊連載などはなさそうだ。何かのシリーズがヒットして売れれば、コミカライズ、アニメ、ゲームとどんどんメディア展開して、あとは売れれば売れるほど版権で金が入ってくるんじゃあないか?


 僕の脳裏をそんな考えがかすめた時。


『今日も始まりました。『あの人は今どこに』のコーナーです!』


 変更したチャンネルでまた別のドキュメンタリーが放送されていた。


『本日の特集はあの史上最年少で文学賞を受賞した『揉みたいお腹』の作者。真田貝禎太まだかいていたさんの現在を追いかけます』


 その番組で特集されていたのは、数年前に高校生にして日本で最も権威のある文学賞を受賞して話題になった作家だった。


「そういえば、当時新聞でも取り上げられて話題になったな。でもあれから全然聞かなくなったけど、今何をしているんだろ?」


 興味を引かれた僕はまたも画面に見入っていた。


 映し出されたのは、レポーターが下町の小売商店に入って行く場面だ。


『我々の調査によると、こちらのお店に真田貝さんがいらっしゃるそうです。……あ、真田貝さんですか?』


 売り場で店員の制服を着ていた青年が「あ、そうです」と鈍い反応で頷いてみせる。


 レポーターはかつて一世を風靡した元高校生作家に続けて話しかける。


『『揉みたいお腹』大変すばらしい作品でしたね。太った同級生へのスキンシップから始まる気持ちのすれ違いを繊細な筆致で描いておられまして。私も大変感動しました』

『そうですか』

『今はどんな生活をされているんですか?』

『……見てのとおり、実家の店を手伝っています。小説だけでは食べていけなくて』

『そうなんですか? しかしあれだけ話題になった作品を書いていらしたのに』

『小説家になるよりも小説家で居続けることの方が難しい、なんて言葉がありますが実際その通りでして。二作目が売れるとは限らないんですよ。……文学賞を受賞したという話題性だけで最初は売れますが、飽きられるのも早い。自分が面白いと思うものを書いても読者に受け入れられるとは限らないんです』

『そうですか。……でもあれだけの才能があるんでしたら、執筆を続けていればきっと売れるのでは』


 ここで、あまり似合っていない店員のエプロンをつけた青年は不機嫌そうに呟く。


『あの、今年も本を出版しているんですが』

『えっ! まだ書いていらしたんですか?』

『ええ。まだ書いていたんです』


 ここで気まずい空気が流れて、レポーターやスタッフが「何でちゃんとリサーチしていなかったんだ」「聞いていなかったですよ」と言い合いをする声がカメラ外からかすかに聞こえた。


『いいんです。いいんです。……確かに全く話題にならず重版もかかりませんでした』


 仏頂面の真田貝氏は口から憂鬱な感情を垂れ流すような風情で、しかし辛うじて平静さを保ってインタビューに答え続けた。


『次が売れなければ、担当さんも連絡してこなくなるでしょうしね。今の時代、純文学は売れづらいんでしょうね。かといって娯楽作品は自分には書けませんし、あの分野だって生き残りは厳しいですからね。一つの作品が当たってもそれが保証になるわけでもないのがこの業界なんです』


 僕は苦い心地でTVを消した。


 そう言えば僕には三年くらい前に好きな作家がいたが、その作家も最近活動していた話を聞かない。


 そもそも読者の人数は限られているのに、それを次から次へ現れる競争相手と奪い合わなくてはならないのだ。


 今いるプロ作家のうち、数年後も作品を執筆し続けて生き残る者は全体の何パーセントなのだろう。


「小説で一発当てたからってそれで生活できるわけでもない、か。……で、結局僕はどうすればいいんだよ」


 部屋の中に一人煩悶する僕の声が小さく響いた。

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