本編1-2 守るべきもの
「兄上」
銀色の髪、闇を宿した紫紺の瞳、漆黒のマントに漆黒のブーツ。マントには銀の鷲の刺繍が入っており、それが彼を夜空のように見せる。
ラディフェイルは不安そうな顔で、一番上の兄、セーヴェスに問い掛けた。
「国は、これからどうなるんだろう?」
わからない、と、優しげな緑の瞳を曇らせてセーヴェスは答える。その胸元で、エメラルドのペンダントが揺れた。まるで彼の瞳みたいな、優しく穏やかな光をたたえたエメラルド。
「民を思うならば降伏した方が良いだろう。このままいけば、僕らきっと全滅する」
でもね、と彼は言う。
「それは本当に民を思うことに繋がるんだろうかって、僕は思うんだ。それで民の命は救えても――国の象徴たる王が帝国に頭を下げるなんてことがあったら、民の心は破壊される。難しい問題だよ、ああ、難しい問題だ」
セーヴェスはその綺麗な顔を、難しげにゆがませていた。
ラディフェイルも不安だったが、今一番、不安を感じているのはこの兄だろうと彼には容易に想像がつく。セーヴェス・エルドキアス。彼はこの国エルドキアの第一王子で、次に王となる者だから。王位から離れた、第三王子のラディフェイルとは違うのだ。
それでもラディフェイルは不安だった。彼はこの国を深く深く愛していたから。
そんな弟の頭を、セーヴェスは優しく撫でる。
「大丈夫だよ、大丈夫だ、ラディ。もしも何かあったとしても、この僕が何とかするから。最悪、降伏することになって民から愚王と罵られたって、その責はすべて僕が受けるから。生贄がいれば万事解決なんだよ。そして僕はその、生贄にふさわしい」
嫌だ、とラディフェイルは兄の身体を抱き締めた。
「俺は、嫌だ。兄上が、誰よりも優しい兄上が、国のために犠牲になるなんて!」
しかしセーヴェスは、仕方のないことなんだよ、と言って、ラディフェイルの身体を引き離した。
「僕は誇りを保つことよりも、降伏をして少しでも多くの命を救うことに尽力するね。そうしたらきっと恨まれるだろう。でも、それで、いい。それが王としての僕との在り方、王としての僕の最良の選択なんだから」
その緑の瞳には、凛とした揺らがぬ意志。ラディフェイルのちゃちな言葉では、否、他の誰のどんな言葉でも、そよとも揺らがぬ確固たる意志。
外見は優男でも。
宿した意志は、強烈だった。
セーヴェスは、言うのだ。
「それが、僕の生き方だから」
だからごめんよ、と、彼は泣きそうな顔で、ラディフェイルに言った。
戦況は思わしくない。すでに国民の三分の一は戦場で命を散らしたという。国が崩壊するのも時間の問題だ。それでもエヴェルは法を撤回しない。
セーヴェスは、囁いた。
「僕は、国のためならば悪魔になるよ」
その次の日、兄弟の父、エヴェルは死んだ。
毒殺だったらしい。
◇
「俺は、疑いたくないけれど――」
「駄目、兄さん。その先は言わないで」
エヴェルが死んで、セーヴェスが臨時で即位して王になった。そしてセーヴェスはエヴェルの法を撤回、降伏する方面に持ち込もうと、アルドフェックに交渉し始めた。するとそれに怒った国民が暴動をおこし、国は荒れに荒れた。
そんな中で、ラディフェイルと五歳下の妹エルレシア、そして第二王子、十八歳のクレヴィルは王宮のある部屋で話し合っていた。
ラディフェイルは、父を毒殺したのはセーヴェスであろうと推測していた。その推測を裏付けるようにクレヴィルが発言する。
「悪いがエルレシア、父上を殺したのは十中八九、兄上だぞ。兄上以外、父上を殺す理由のある者がいるのか? それこそアルドフェックの刺客でも来たならば別だが、アルドフェックは今のところ、王宮にまで侵入したことは、ない」
ラディフェイルは思い出す。前日の、セーヴェスの言葉を。『僕は、国のためならば悪魔になるよ』。その言葉と、決意のこもった揺るがぬ瞳。そして言った、『ごめんよ』。
いやいやをして否定しようとする十歳のエルレシア。でも現実は、そう甘くはない。セーヴェスがエヴェルを殺した、おそらくこれは真実だ。
国を良くしようとして、
悪魔になった第一王子。
そして悪魔はいつか殺される。衆目の前、晒されて。
別の道はなかったのだろうかとラディフェイルは思ったが、既に賽は投げられた、今更死者が蘇るわけでもないし、あとは成り行きを見守るしかないのだろう。
そしてクレヴィルはセーヴェルみたいに優しくはなかったから、ラディフェイルを慰めることはしなかった。エルレシアに対してもそれは同じだった。
ただクレヴィルは、現実を突きつける。
「戦いが、始まるぞ」
内憂外患、外からはアルドフェック、内からは怒り狂った国民。二つの脅威が王宮に迫る。
「覚悟を決めろ。悪いが僕は自分のことに精一杯なんだ、弟妹を守る余裕なんてない。全て終わって皆が無事であったのならば、その時再会を祝おうじゃないか」
言って、踵を返して立ち去ろうとするクレヴィル。その背にラディフェイルは声を投げた。
「何処へ、行くんだ?」
決まっているだろう、と、淡々とクレヴィルは答えた。
「逃げるんだよ、この王宮から。王位は棄てる。暗礁に乗り上げた船にいつまでも乗っていたら、こっちが溺れるだけ。僕は溺れたくないからな。……降伏は、アルドフェックに受け入れられるだろう。でもその代わり、僕ら王族は誇りを踏みにじった者として、国民から絶対に許されない。生き延びたければ今すぐ逃げろ。忠告できるのはそれだけだ。僕は自己保身に入る。臆病なんて言うな、人間は結局のところ皆、自分本位な存在なんだから。……ついてきたいなら、いますぐ動け。僕なら安全な場所を教えてやれる」
それだけ言って、クレヴィルはいなくなった。
おそらくもう二度と戻ってくる気はないのだろうとラディフェイルは思った。
そしてラディフェイルもエルレシアも、動けなかった。
最後、二人の視界から消える前、クレヴィスは後ろを振り返った。そして誰もついてこないのを見ると、諦めた顔をして今度こそ本当にいなくなった。
欠けていく。一人、二人。最初に父、次に兄。ラディフェイルの周囲から、次々に家族が欠けていく。
まだ十五歳に過ぎないラディフェイルと十歳に過ぎないエルレシアは、そんな様をただ呆然と見送るしかできなくて。
「……俺は、無力だ」
悔し涙を流しながらも、ラディフェイルは拳で王宮の柱を殴った。
エルレシアは呆けた顔をして、突っ立ったままその様を眺めていた。
◇
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