完全な勝利などあるのだろうか?

 第1話を読んでいる間、僕は確かにMe109Gのコクピットを目の前にイメージしていた。
 「彼」が操縦桿を倒す。109は翼を立て、大気の上を滑り落ちていく。重力の方向が変化していく。その感触を自分のものにするのはあまりにたやすい。
 そう、それこそが題名にもなっているエクスペルテ――凄腕パイロット「彼」の操縦だ。
 しかし第2話に踏み込んで気づいた。そうだ、これは群像劇なのだ。必ずしも「彼」の物語ではない。むしろ「彼」をめぐる物語なのだ、と。
 「彼」のいわば「犯行」はあと3人の視点によって克明に描かれ、まるで何か事件をめぐるドキュメンタリーのように繰り返される。
 もちろんひとつの戦闘を丁寧に描くことだけがこの物語の目的ではない。
 それは第5話を読めばわかる。「彼」がいくら鮮やかにP-51を撃墜しようと、その程度の損害はもはや勝利を約束された連合軍の勢いを減じるようなものではない。
「しかし」とゼウスは言う。
 割合にすれば小さな犠牲に過ぎなくとも、数十人の命が奪われていることに変わりはない。80機の中の8機、10%、80人という数字がその犠牲を如実に物語る。
 阻止できたかもしれない犠牲。その元凶を断つため、ゼウスは凄腕のMe109こと『ジョーカー』の打倒を誓う。勝利の中の勝利を目指すその道のりこそがこの物語の本筋だ。
 だがアメリカ陸軍航空軍第8空軍の上層部は彼の上申を渋る。たかが1機の戦闘機に固執するより、正攻法で爆撃機の護衛をする方が犠牲を抑えられるのではないか? このフェーズは大きな勝利と小さな犠牲を天秤にかけることの正義を問いかける。
 結果ゼウスに与えられたのは4機編成の特別飛行隊。P-51より高空性能に優れるP-38を駆って『ジョーカー』に挑むが、くしくも空軍の戦いは爆撃機主体の戦略爆撃から戦闘爆撃機主体の近接航空支援が主軸となり、戦場も高空から低空に移った。ゼウスはアルデンヌの分厚い雲の下で『ジョーカー』の不意打ちを受ける……。
 ゼウスはスピットファイアMk.ⅨとMe109Gの試乗を通して対ジョーカー戦術をを編み直し、『クイーン』のスペシャルチューンを受けたP-51Dでジョーカーとの対決に挑む。
 
 本筋を追うのであればこの物語は勧善懲悪タイプといえるだろう。ゼウスたちに追われる立場の『ジョーカー』は影であり続ける。その生活、人となりが描かれることはない。だから僕はもう少し『ジョーカー』の物語を知りたいと思った。でもそれはあえて隠されているのかもしれない。
 それがこの物語の面白いところだ。
 「彼」は一貫してゼウスたちに『ジョーカー』と呼ばれているだけで、本名は明かされない。
 そう、「彼」に視点が委ねられる〈一撃離脱〉〈コリジョンコース〉〈粉雪〉〈春〉いずれにおいても彼が『ジョーカー』と呼ばれることはない。
 実はゼウスたちが求める「彼」が一貫して同じ人物なのかどうかさえ、記述上では確証が得られないのだ。
 そしてその不安は最後の3話で一気に増幅される。ゼウスほどの実力者を振り払った黄色い帯のMe109、あるいは赤色空軍を震撼させた『黒い悪魔』。彼らはいったいどこへ行ってしまったのか? そして今まで何をしていたのか?
 ドイツにはまだエクスペルテが100人も残っている、なんて、さすがにそれは冗談かもしれない。でも『ジョーカー』が墜ちたからといって、ドイツ空軍そのものが死んでしまったことにはならない。
 そこにはまだドイツの誇りとおそろしさが残されている。エクスペルテ「たち」は最後まで連合軍に出血を強い続けるだろう。
 そんな仄めかしをしつつ、かつ小さな犠牲の阻止を追い求めたゼウスの救いとなるようなラストはかなり絶妙だ。