最後のエクスペルテ

春沢P

第1話 一撃離脱

 高度10,000m。

 どんよりと曇った肌寒い秋の日。離陸した戦闘機はすぐさま基地の上を覆う雲に突入した。薄暗い灰色の雲の中、上昇を続けると徐々に明るくなり、やがて雲を抜けた。

 青空の下にそびえる雲の崖が左右の視界を遮った。白い谷間に沿ってさらに上昇を続け、やがてどの雲よりも高い場所に到達した。

 眼下は純白の世界。そこに荒野の岩山のように雲がそびえていた。頭上は果てしなく澄みわたり、青を通り越して黒に近い色合いだった。もっと高く昇れば、昼でも星が見えるはずだ。

 太陽は南の空に輝き、飛行帽に真夏のような日差しが照りつけていた。

 気温はマイナス50度。気圧は地上の1/3。酸素マスクを外せば数分で意識を失う。ここは人を寄せ付けない世界。生身の人間はどこにもいない。

 彼は3人の部下とともにそこにいた。

 グレーの塗装をまとった小ぶりな戦闘機が4機、距離を開けてジグザグの編隊を組み、雲のはるか上を飛んでいた。胴体と翼には黒い十字が描かれていた。


 四角い格子に覆われた狭い操縦席で、彼は北の空を見渡した。酸素マスクとゴーグルで素顔は見えない。これから敵との戦いに挑む男が、どんな顔をしているのか。それは彼自身にも分からなかった。

 彼の目の前には、DB605Aエンジンを納めた長い機首が伸びていた。機首から続くなだらかな流線型の胴体は、操縦席のすぐ前に「ボイレ」と呼ばれる左右二つの突起が流れを乱していた。その下には2挺の13mm機関銃が収まっていた。

 彼は足の間の20mm機関砲を覆うカバーを一瞥した。MG151/20。ドイツが誇る世界最高の機関砲。それをプロペラ軸に装備する。彼はこの「モーターカノン」に絶大な信頼を置いていた。

 Me109G-6、通称『グスタフ』。2挺の機関銃と1門のモーターカノン。それがこの戦闘機の武器のすべてだった。しかし、これ以上何が必要だろう。敵を攻撃する武器を必要なときに必要な場所に運ぶ。戦闘機はそういう道具だ。武装を少々欲張ったとしても、飛行性能が落ちれば目的を果たせない。

 そして、必要なときに、必要な場所で、最も重要な的に弾丸を命中させる。それが戦闘機乗りの仕事だ。彼はそう考えていた。『グスタフ』があればそれでいい。『グスタフ』の能力を完全に引き出す。彼はそこに使命を見出していた。


 北の空には、同じ高度で飛ぶいくつもの機影が見えた。どれも細い飛行機雲を引いている。

 4機の緩い編隊が2個。8機の戦闘機が同じ高度を、同じ方向に飛んでいた。

 長い機首。銀色に輝く機体。透明な一体型の涙滴型キャノピー。翼の下にぶら下げた2個の巨大な燃料タンク。

 アメリカ陸軍のP-51D『ムスタング』。後に第二次世界大戦最良の戦闘機と評される機体が、1kmほど離れて並行に東に飛んでいた。

 彼と部下のMe109も飛行機雲を引いていた。この距離ならば敵に知られないはずはない。しかし、敵は悠然と直線飛行を続けていた。

 敵から見ればこちらは逆光で、距離が適度に開き、姿ははっきり確認できない。同じ方向に同じ速度で飛ぶ長い鼻の戦闘機が同高度にいる。飛行機雲を引いていることを隠す気もない。編隊もゆるくジグザグになった4機。

 さて、「ヤンキー」が我々を敵だと気づくのにどれほどかかるだろう。彼はそう思い、マスクの下で片方の口角を上げた。

 彼らの後ろには、数km離れてB-17爆撃機の編隊が続いていた。高度は7,000m。左後方の雲の上に、銀色の胴体やプロペラの輝きが多数見えるのを既に彼は確認していた。


 彼は1,000mほど下を飛ぶ敵の4機編隊に、自分の影が落ちるように徐々に位置を変えた。左横を飛ぶ敵はこちらが敵だと気づく気配はなかった。

 眼下の敵は銀色の胴体が眩いほどに太陽の光を反射していた。アメリカ陸軍はだいぶ前から軍用機に塗装をすることをやめていた。Me109のグレーの迷彩の方が空中では見つけづらいはずだ。敵は身を隠す効果より、塗装にかかる工数と重量を減らすことを選択した。そう彼は考えた。P-51の主翼は表面を平滑に加工し、その上に銀塗装をしていることは知らなかった。

 『ムスタング』は機首や胴体、そして尾翼に、青や赤、白や黒で派手なマークを描いていた。まるで自らの存在を誇示するようだ。

 敵はドイツ軍に発見されることを脅威とは感じていない。派手な塗装は連合軍の約束された勝利を誇示するためのものだ。そして、同士討ちを避けるためでもある。連合軍にとって最も手強い敵は、今や味方の戦闘機や対空砲火なのだ。雑多な国から成る連合軍にはそれが最も深刻な問題のはずだ。

 同士討ちがドイツ軍より脅威だと認識されるなど、彼には面白いことではなかった。その認識を改めさせる必要性を彼は強く感じていた。今やほとんどのドイツ軍パイロットが急速養成による、飛ぶだけで精一杯の技量だったとしても。


 目標とする敵から見て、自分の機が完全に太陽に入ったと確信したとき、無線電話で彼は部下に攻撃開始を伝えた。飛行帽のヘッドフォンからはプチプチと送信ボタンを2回押す音が、続けて3度聞こえた。3機の部下からの了解の合図だった。彼の小隊シュヴァルムに多くの言葉はいらない。

 操縦桿を左に倒すと、傾いて揚力を減じた機体はなだらかに下降に入り、重力に引かれて鋭い加速を始めた。

 高高度の薄い空気の中、1,000mの高度差などほんの十数秒の距離だった。

 彼は、Revi 16B照準器のレティクルに先頭のP-51の操縦席を捉え、弾丸が命中するまでの時間を考慮して補正を行った。そして、射撃を開始した。

 Me109の武器は機首に集中している。機体の軸線の直近から、あるいはプロペラ軸という軸線そのものから弾丸が発射される。彼の目の前で、機首から放たれた曳光弾が細い束となって敵機へと伸びていった。

 コンマ何秒か後、狙いをつけた敵の小隊長機のキャノピーが粉々に砕け散った。太陽に輝く破片を後方に撒き散らし、操縦者を失った機体はゆらりと傾いた。そして徐々に高度を失っていくようだった。

 操縦者の死亡。「撃墜」の要件が満たされたことを確認し、彼は速度を緩めることなく、敵小隊の左横をかすめて降下した。

 彼は窮屈な風防ガラスの下で体をひねり、さっきまで自分がいた空の上を仰いだ。上空の敵は一斉に翼から燃料タンクを落下させた。それがキラキラと輝く一瞬を目撃した。

 その直後に、彼の機体は雲に突入した。

 彼の部下も同様に射撃を行い、隊長を追って雲の中に消えた。

 彼は、灰色の世界を飛びながら、この出撃で小隊が無事に任務を達成したことを改めて認識し、深い満足感を覚えた。

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