第2話「始まりの朝」

 冷たい冬の朝靄が、男の汗ばんだ背中に纏わりつく。それを気合で払うように、男は剣を振るった。空気が真っ二つに切れて、またその裂け目に新しい空気が入り込む。弾む息。男の持つ剣は大きい。身の丈よりも、男の器量よりも。武器に振り回されている感は否めない。だがそれでいい。自分を上回るものでなければ、鍛錬にはならない。

 男の隆々とした筋肉は、剣を振る度、脈動するように盛り上がる。男の髪の赤が、たなびく霞の隙間から差した朝陽に煌く。陽が昇ってきたことが、鍛錬の時間の終わりを告げた。切り株に掛けた手拭で汗を拭う。手拭は長年の汗が染みついて、少し臭う。血気が盛んな男の体臭だ。

「ゴスペル」

 男が籠った声で呼びかけた。男の声に、一匹の狼に似た闘犬が現れた。犬の体毛は黒と白。体の大きさは男と同等くらい。毛並みも良く精悍な顔つきをしている。ゴスペルは低く唸りながら、男に駆け寄ってくる。スピードは緩むことなく、男の身体に、そのまま突進した。男はそれを正面から受け止める。ゴスペルの当たった衝撃で、僅かに男の足元がずれる。膝を落として腰をひねりながら、男はゴスペルを投げ飛ばした。それを二度三度と繰り返すと、一人と一匹は笑った。そうしてじゃれ合う、いつもの朝の挨拶を済ませた。

「さぁ、朝食にしよう」

 男は大剣を担ぎ上げると、ゴスペルは嬉しそうに男の足にすり寄った。男はそれを、快く頭を撫でてやることで返した。戯れながら着いた先は、男が拠点としている小さな掘立小屋だった。見てくれは良くない。無骨。芸術や建築的なセンスなどは、男には無縁の代物だ。

 しかし、中にはたんまりと、光を返すモノがあった。素晴らしき食材たちだ。サシの少ない赤々しい肉に、瑞々しく、色鮮やかな野菜、芳しい荒っぽいキノコに、深緑の山菜。山で獲れた川魚もあった。肉類の半分は燻製にされていて、いつでも食べられるようになっている。昨日街を出ての今日だったから、パンと卵もあった。

 種火から火を起こして、フライパンとスキレットの二つを用意する。調味料も揃っていた。岩塩にバター、動植物の油、各種スパイスに、醤油まであった。

 熱したフライパンにバターを落とす。ジュワーと、耳に心地いい油の弾ける音と共に、香ばしい匂いが立ち昇る。それにフライパンの口より一回り程小さい、厚切りにスライスした大麦のパンを、溶けたバターに浸すようにして焼く。

 火は二口用意してあった。スープを温める鍋が置いてある。それを一旦どけて、もう一つ小さいスキレットを火にかける。

 スキレットが温まったところで、厚めに切ったベーコンをゆっくりと敷く。肉の焼ける、食欲をそそる音がした。揮発した燻製の芳馨が鼻腔をくすぐる。ベーコンは、香辛料の効いた調味液と塩で、漬け込んであるので味付けはしない。白濁とした油が透明に変わり、ピンク色の赤身に、こんがりと焼き目がつく。

 十分に旨味の効いた油を染み出させてから、卵を二つ投入する。作るのはベーコンエッグ。ぷっくりと膨れた黄身は新鮮な証拠だ。殻は青色のイースターエッグだったが、トウモロコシをたっぷり食べていて、味わいは最高に深い。

 水を卵がひたひたになるくらいに入れて、蒸し焼きにすべく、スキレットに蓋をした。火の強さを見極めながら、白身の底はカリカリに、でも黄身はトロトロの半熟に。タイミングが肝心だった。その頃にはパンは焼け上がり、あとはベーコンエッグを待つだけとなった。じっと待つ。

 良い頃合いを見計らって、蓋を開けてから、木製のペパーミルで黒胡椒を粗削りする。白と黄色に黒い粒粒が舞い落ちた。そこに更に醤油を垂らす。互いを引き立てる香りが相になって押し寄せる。思わず腹が鳴った。

 鋼鉄製のフライ返しで、それを掬い上げ、冷めないように、鍋の蓋の上に置いていた、トーストの上に乗せる。ワンプレートの三か所ある中の、一番大きいところにそれを盛り付ける。残りの二か所に、湯気の立つ野菜スープの入った器と、キャベツとレタスと千切りのポテトの、酢漬けを添えた。それらを無骨だが、使い勝手の良い木組みのテーブルに置く。椅子に腰かけると、男は一息息を吐いた。傍に伏せていたゴスペルが、くーんと幼気に鳴く。

「お前はこいつだな」

 ゴスペルの朝食は、生肉の盛り合わせ。食べ応えのある肩ロース、たっぷりのバラ、柔らかいヒレ、ちょっぴりとミスジとランプもあった。それらが大きな木桶に入っている。仕上げで、果実で作った酸味の効いた、深い紫色のソースをかけてやる。朝から、とびっきりの贅沢だった。戦ばかりで、久し振りに帰ってきたこの拠点で、これから精力満点で生きていくために体に、御馳走という名のガソリンを注ぐ。準備は整った。男は目を軽く閉じて、手を合わせた。

「いただきます」

 か細い籠った声とは裏腹に、大口を開けてベーコンエッグトーストにかぶりつく。目玉焼きの薄い膜に歯が当たると、青色のトロトロの黄身が流れ出て、男の指を伝う。醤油の塩味と胡椒の香りが、口腔を抜ける。ベーコンの厚い筋線維は、歯に心地いい感触をくれた。パンのサクサクフワフワも相まって、軟、硬、焦、綿。四つの食感が混然一体になって、口の中を満たす。身震いするほどの旨味。実際、男の背筋に甘美の震えが過った。

 租借しながらゴスペルを見ると、そっちはそっちで満足そうに、満面の笑みで喰らっている。男はバクバクとトーストを平らげると、添えていた酢漬けとスープをかき込んだ。

 一日の活力が全身に漲ってくる。細胞の一つ一つが喜んでいるようだ。それがグルメハンター赫の一日の始まり。これから始まる百味飲味の日々の始まりだ。

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