第37話 痛む心と体


 頭は鉛を溶かしたように炎火するが、身体の芯は氷水をかけられたように冷え切って震えが止まらない。かと思えば喉の奥から迫り上がる吐き気に胃が張り詰めて、胸の奥が激しく痛む。滝のように流れる汗が衣服に染み込み、それがまた不快感を伴い、玉鈴を襲う。体が可笑しくなってしまったようだった。

 起きなければ、と思うほど身体を蝕む苦痛は去ってはくれない。深い底無し沼に足を取られたように身体は言うことを聞かない。


 ——なんで、僕がなにをしたの。


 朦朧とした意識が浮上し、蜘蛛の巣が張り巡る天井が視界に入る度、呪詛のように心の中を泥々とした感情が支配する。


 ——嫌だ。なんで、僕は、お母さん、どうして、なんで。ごめんなさい。助けて、ごめんなさい。


 心の中で何度も繰り返す。助けを求めて、逃げようとして、謝罪を繰り返す。

 ふつふつと湧き出る様々な感情に心が押し潰されかけた頃、額に張り付く前髪を、細い指先が優しく梳いて横に流してくれた。



『駄目よ。怒っては』



 微かに漂う香りと、慈愛に満ちた声が玉鈴の名を呼ぶ。彼女の声だ。



『鬼になってはいけないわ』



 言い聞かせるように彼女は囁いた。すると不思議な事に身体を蝕む熱がさっと引いているのに気付く。重い瞼を持ち上げ、玉鈴は小さく「おかあさん」と呟いた。彼女の姿を見ようと視線を彷徨わせようとした時、玉鈴の両目を温かい両手が包み込む。その手をどかそうと根っこが張ったように褥に縫いつく両腕を持ち上げようとした時、『もう少しお休みなさい』と彼女は言った。

 両目を覆う手は胸の上に。とん、とん、と一定の間隔で優しく叩く。

 その律動に、気付けば玉鈴はまた深い眠りに落ちていった。




 ***




 玉鈴が目を覚すと見知らぬ女が側にいた。彼女ではない事に落胆し、つい「おかあさん」と呂律がまわらない口調で言い、右手を伸ばすと女は嫌な顔をして「あの女は死んだよ」と冷たく言い放つ。その言葉の意味が分からず、両目を瞬かせる玉鈴を一瞥すると女は無言で部屋から出て行った。

 入れ替わりに現れたのは村の長老だ。長老といっても、先日父親の跡を継いだ年若い男で、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと自分と極力関わらないようにしていたので玉鈴は彼の人柄分からない。けれど彼女が言うには村に不利益をもたらさない限りは何事にも寛容だという事は聞いている。


「死ななかったのか」


 床から起き上がろうとする玉鈴を制すると長老はどこか安心した風に呟いた。


「熱は?」


 嫌忌していた自分を懸念する長老に玉鈴は内心、いぶかしみながらも「大丈夫」と口を開こうとした。けれど、長時間水を飲まなかった喉は枯れて声が出てこない。無理に引き出そうとするとピリッとした痛みが走る。痛みに耐えるように顔を顰めると長老は水差しから茶器に水を移し、それを手に取り、玉鈴の側に跪いた。


「起き上がれるか?」


 声が出ないので顎を引く。それを見て、長老は玉鈴の背に手を回した。起き上がるのを手伝ってくれるのだろうか? 不思議に思い端麗な顔を凝視すると長老は面倒くさそうにため息を零し、「手伝う」と言った。

 長老に背中を支えてもらい、上半身を持ち上げると口元には水が並々注がれた茶器が運ばれる。


「ゆっくりでいい。飲め」


 初めて受けた家族以外からの優しさに水に毒が入っているのかと疑うがカラカラに乾いた喉が水を欲し、玉鈴はそのまま水を口にした。

 ぬるいのに熱がくすぐり火照る身体には冷水のように冷たく、喉が潤う。

 玉鈴が全ての水を飲み干すと長老はゆっくりと玉鈴を再度、褥に横たえた。


「まず、先にだ。お前にはいくつか言わなければならない事がある」


 長老は冷たい目で玉鈴を見下ろした。


「他の奴らが勝手に去勢を施したのは誤算だったが丁度いい。占い師の言葉通り亜王様は龍の子を妃に迎える。お前は見た目も悪くないし、動作を覚えれば男とバレないだろう。亜王様が幼児趣味だとは聞かないが後宮に入れば万が一の可能性もある。夜の勤めはするな。力を失うとでも言っておけ」


 玉鈴は愕然がくぜんとした。この男は何を言っているのだろうか。言葉は通じるはずなのに意味がわからない。男の自分が妃だと知られれば己はもちろん、村の人間全員刑に処されるはずなのに。

 子供の自分が理解している事をいい歳した大人が知らないはずがない。

 玉鈴の考えを読み取ったのか長老はこの部屋に入って初めて仏頂面から薄ら笑いを浮かべた。


「もしバレれば俺たちは殺されるだろうな。だが考えてみろ。城がある首都からここまで来るのにどれほどかかる? 一日でもあればあの女の子供らを痛めつけ殺す事もできる」


 唇の端を歪めて長老は笑う。


「お前がきちんと仕事をすれば俺達は子供達を傷付けない事を誓おう。いや、それよりも今までよりも豊かな生活を送らせてやる。良い食事を与え、学問を学ばせ、あとはあの襤褸家も建て替えてやろう。お前は後宮で妃として贅沢すればいい。国が探している龍の子だ、決して不自由にはならないだろう」

「本当に? 何も、しない?」


 痛む喉から出たのはしゃがれた老婆の声だった。喉を潤しても痛みは治る事はなく、じくじくと火傷に似た痛みが続いているが玉鈴は言葉を紡ぐ。


「僕が、僕が妃になれば、みんな幸せ……?」


 自分が亜国に行けばみんな——家族はその方が幸せに暮らせるのだろうか。彼女は家族一緒に暮らすことが幸せだと説いたが、彼女がいない今、残された家族を守れるのは自分しかいない。しかし、子供の自分にできることは限られている。家族を連れての後宮入りはできない。ならば長老の申し出を受けた方が得策ではないだろうか——?


「ああ、幸せに決まっている」


 凍ったように固まる玉鈴を見て、長老は耳元で囁やいた。


「お前は天を支配する龍ではない。地底を這いずり回るしかできない蛇だ。蛇を好きな人間がいると思うか? きっと子供達はお前の事を内心、蛇男だと罵っているだろう」

「そんなこと……」

「あるさ」


 ——あるわけない。


 否定しようにも熱がくすぐる身体はいうことを聞かない。興奮するほどに熱は高くなり、意識が朦朧しつつある。寝てはいけない、と唇を噛みしめて意識を引き留めるが長老は玉鈴の両目の上に手を置いた。


「ゆっくり眠りなさい。人間ではないお前が唯一、村のために役立つんだ。今は養生し、今後は死ぬまで村のために働きなさい」


 広く、骨張った手の平は彼女のとは違う。微塵も優しさを感じさせないが疲れ切った身体にはとても効果的で、気付けば玉鈴はまた眠りに落ちていた。

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