十三花

月庭一花

 あなたはまだ気づいていない。

 自分たちの関係はずっと続いていくのだと、永遠に変わることはないのだと、あなたは当たり前のように思っている。当然のことだと思っている。けれどそれは遠くない未来に崩れ去ってしまう。跡形もなく。どうしようもなく。まるで公園に作られた歪な砂の城のように。いとも簡単に崩壊してしまう。そのことを知ったあなたはしばらく立ち直れないほどの傷を心に負うことになるのだけれど、もちろんあなたはそんなことなぞつゆとも考えていない。そしてあなたがそのときに負った傷は、未だにわたしが抱えている深い傷でもあるのだ。

 窓の外では雪が降っている。ちらちらと粉雪が、音もなく降り続いている。

 わたしは傍らで眠る彼女を起こさないようにそっとベッドを抜け出て、周囲に散乱した衣服を拾い集める。素肌の上に毛糸のパーカーを直接着て、カーペットの上を裸足で歩いていく。どこからか飼い猫のアマンドが起き出してきて、そっとわたしの足に体をすり寄せる。

 ふと何かが気になって、ベッドを振り返ってみる。けれど彼女は身じろぎひとつしない。起きる気配もない。すうすうと規則正しい寝息が続いている。わたしはその姿にほんの少し安堵して、もう一度外の風景を見つめる。窓の向こう側には雪が降り続いており、窓の中にはぼんやりとしたわたしの影が映っている。

 わたしが自分の頬に手を添えると、ガラスの中のわたしも同じように手を動かしていくのが見える。右目の下には深い傷がある。あなたの不注意——あるいは無意識のうちにそれを望んでいたのかもしれない——で刻み付けられたこの傷は、今でもこうして、ちゃんとわたしの顔に存在している。

 中等部の三年に上がったばかりのあなたは気づいていない。自分の顔に一生残る傷ができるだなんて。夢にも思わない。あなたは三年一組のほぼ中央の席——名前の順。月庭という苗字のせいだ——でいつものように本を読んでいる。その頃あなたが好んで愛読していたのはエミール・ゾラやアベ・プレヴォといった古典的なフランス文学だった。クラスの誰とも話題を共有し得ないものを、あえてあなたは選んでいたのではないかと今のわたしは推測してみるのだが、自意識の塊のようなあの当時の自分が何を考えていたのかなんて、はっきりと思い出すことは不可能だ。記憶はすでに薄れ、もはや霧の中の小さな泉のごとくであり、その正体は不透明で曖昧模糊としている。誰にもあなたの心を伺い知ることはできない。

 そのときのあなたはいつものように本のページをめくりながら、右手でペンを回していた。あなたはペン回しが得意だった。左手だけで本を抑え、無意識下のうちに右手で頬杖をつき、人差し指から中指のあいだに、そして薬指のあいだにペンを回しつつ、移動させ続けていた。右耳にかちゃかちゃという音が小気味よく響いていた。あなたのペン回しは芸術的だった。その回転たるや目で追えないほどのスピードなのに、一度たりとも取り落とすことはなく、そして滞ることもなかった。

 悲劇はそのときに起こった。出席番号十二番の加藤詩織——もちろん、あなたは彼女の名前を忘れるはずがない——が歩きながら友人とのおしゃべりに夢中になっていて、あなたが本を読んでいるのにも気づかずに、不意にぶつかってきたのだ。

 背中に衝撃を受けたそのあと、前のめりになったあなたと机とのあいだに、それはあった。シャープペンシルの先端があなたの皮膚を裂き、肉を刳ったのだ。

 最初は痛みよりも熱を感じた。火傷をしたときのように。それは最初、激しい熱さとして知覚された。

 血がぽたぽたと本を汚していくのをあなたは呆然とした面持ちで見ている。悲鳴をあげたのは加藤詩織だった。周囲のざわつきは今でも覚えているが、そのとき誰が何を言ったのか、どうやって病院に連れて行かれたのか、あなたは覚えていない。ただ、目のすぐ下を六針縫われ、もう少しずれていたら失明していたかもしれないよ、と医師に言われたのを、まるで霧の中から取り出したばかりのように、ぼんやりと記憶しているだけだ。

 あなたはしばらくのあいだ茫然自失の状態だった。無理もない。それはあなたがそれまでの人生で受けた最も激しい痛みだったのだから。思い出したように心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む傷自体もさることながら、顔に傷を作ってしまったというその事実こそが、あなたに大きなショックを与えていた。

 その傷に動揺し、泣き叫んだのは、あなたの双子の姉の六花だった。青ざめた顔であなたを見つめ、許さない、絶対に許さない、とあなたのためにぼろぼろと涙を流し、あなたをぎゅっと、強く、激しく抱きしめてくれた。

 あなたの顔には引き攣れが残った。それは傷自体よりも、あなたの顔の表情を損なうことになった。笑うとその引き攣れは更に歪になり、もはや不気味ですらあった。だからあなたは笑わない少女になった。それは今も後遺症のようになっていて、わたしは未だに人前でうまく笑うことができない。

 今現在でも勿論そうであるように、あなたと双子の姉の六花は一卵性の双生児である。顔貌は驚くほどよく似ている。怪我をする以前は親ですらあなたたちを間違えるくらいだった。あなたたちはよく互いの衣服を交換する遊びをした。そしてそれを更に確乎とするために、服と一緒に名前まで入れ替えた。当然周囲はすぐに気付くだろうと思ったのだが、あなたたちの思惑に反して、誰も入れ替わったことに気づかなかった。そう、誰も。一人も。実の親でさえも。あなたたちは憮然としながら思う。どうして誰も気づかないのだろう。二人はこんなにも違うのに。

 あなたが中学二年生のときに起こったいささかショッキングな出来事を、わたしは今でもしっかりと覚えている。それは二学期の中間考査のことだった。

 担任の川辺先生に呼び出されたあなたは二枚の答案用紙を見せられた。片方はあなたのもので、もう一枚は六花のものだった。同じ点数だった。同じ箇所でミスをしていた。筆跡も同じだった。挙げ句の果てに、答案用紙の端の猫のイラストも、全く同じ場所に描かれていた。まるでトレースされたもののように。ただ、名前だけが違っていた。あなたの答案用紙には月庭七花と書かれており、もう一枚には月庭六花と書かれていた。

 これは、どう解釈したらいいのかしら。そう言った川辺先生は複雑な表情を浮かべていた。中間考査では学年の全生徒が同じ時間に同じテストを受ける。クラスが違うのだからカンニングのしようもない。誓って言うが、口裏を合わせたわけでもない。けれど先生は何も咎めようと思ってあなたを呼び出したわけではなかった。ただ不思議だったのだ。双子の共時性を目の当たりにして、戸惑っていただけだった。けれどもあなたは言い知れぬ不安を覚え、そして軽い恐怖さえ感じた。こんなことが世の中にあっていいはずがない、と思った。特に猫のイラストは何か禍々しいものの象徴のようにさえ思えた。

 自分が何者なのか、という若者がときに陥る凡庸で平凡でそれでいて哲学的な思考が、あなたを苦しめた。自分と六花は何が違っているのだろう、どこまでが一緒なのだろう、と。あんなに違っていると思っていたあなたたちは、実は全く同じ存在なのではないかと知ったときのあなたの動揺は、とてもとても激しいものだった。そしてあなたは自分だけの印を、聖痕のような何かを漠然と求め始めた。そしてその八ヶ月後に一生消えない傷が顔に刻まれたとき、心を支配したのは、けれどあなたが思っていたような安堵の気持ちなどではなかった。それは激しい喪失感だった。魂の半分を削り取られたような狂おしいほどの渇きだった。永遠に失われたものを思ってあなたはよく声をあげて泣いた。そんなとき、六花はじっとあなたを抱きしめていた。夜であっても、昼であっても。学校の中でも、家の中でも。そのぬくもりだけがあなたを癒した。

 加藤詩織が死んだのは、事件から五ヶ月ほど経った十月最初の金曜日のことだった。その日は文化祭の準備で多くの生徒が校内に遅くまで居残っていた。そんな中、彼女は階段から転がり落ちて、首の骨を折って死んだのだ。

 加藤詩織がどうして階段から落ちたのか、誰にもわからなかった。発見されたときにはすでに息をしていなかった。学校が混乱に包まれる中、あなたは同じように残っていた六花のもとに急いだ。六花もあなたを探していた。喧騒を離れて体育館に通じる渡り廊下で出会ったとき、あなたたちはお互いの顔を見た。そしてそこに、

 あなたがやったの?

 と書かれているのを見た。少なくとも、あなたは六花の顔にそう書いてあるのを見た。あなたたちは何も言わなかった。お互いの震える手をぎゅっと、静かに握り合わせただけだった。


 高校は共学だった付属の高等部ではなく、県下の女子校に通った。とある複合企業が経営するその学校は、多くの生徒が寮で暮らしていた。自宅からでも通えない距離ではなかったが、あなたたちは寮生活を選んだ。あの加藤詩織の事故——それとも事件と呼ぶべきなのだろうか——があなたと六花を深く、強く結びあわせていて、そこに何かが入り込む余地などすでになくなっていた。まるでぴったりと重ね合わされた二枚のアクリル板のように。あなたたちが互いに必要としていたのはあなたたちだけだった。あなたには六花が必要で、六花には七花、あなたが必要だった。

 寮では当たり前のように同室になった。学校側からも、赤の他人と相部屋にするよりも何かと都合がいいんじゃないか、とでも思われたのだろう。当時のあなたは目の下の傷を隠すために常に眼帯をしていた。六花も同じように眼帯を着けて生活した。あなたたちは再び同じものになった。同じ眼帯を着けていると、周囲はあなたと六花の区別がつかなかった。そしてあなたと六花は子供の頃のように時折名前と存在を入れ替えた。あなたは六花のクラス(六花は2組だった)で授業を受け、六花はあなたのクラス(あなたは3組だった)で授業を受けた。

 中学二年生のときに感じたあの哲学的な問いは、すでにあなたの中にはなかった。自己の同一性……というよりも二人の同一性をあなたは六花との関係の中に見出していた。そしてそれを自然なこととして受け入れていた。

 高校生活が始まって一ヶ月と経たないうちに、あなたは性的な快楽を求める術を身につけた。親の目から逃れられたこと、環境が変わったことがその要因であると思うのだけれど、その行為を覚えた切っ掛けがなんだったのか、今はもう覚えていない。最初は拙い自慰行為から始まり、いつしかあなたは六花と快楽を共有するに至った。自分のものではない手で触れられることは、あなたに格別の刺激を与えた。けれどもやがてその行為が、結局は自慰の延長線上でしかないのだと、あなたは気付いてしまう。あなたは六花であり、六花は七花、あなたそのものだったから。

 そこであなたたちは女子校特有の、擬似的な恋人とでも呼ぶべき存在を作った。彼女たちの名誉のためにも名を記すことは控えるけれど、ここでもあなたたちは、一対一の関係を作ることはできなかった。純粋な自分と他者という関係を構築することができなかった。あなたは当然のように六花のステディとデートし、六花はあなたの恋人と逢瀬を重ねた。入れ替わることの愉悦がお互いの恋人同士にも及んだというわけだった。そこに罪悪感と呼ぶべきものは一欠片もなかった。なぜならどんなに親密な関係になっても、相手の女の子はあなたと六花の区別がつかなかったからだ。あなたと六花はいついかなるときでも決して眼帯を外さなかった。寮で二人きりになる時間だけがその例外だった。

 六花はあなたの恋人にしたのと同じ唇で、あなたにキスをした。あなたも六花のステディに触れたのと同じ指で、六花の性的な無聊を慰めた。まるで自分の体にするように。けれども恋人にするのと同じように。その新しい快楽を、あなたたちはきたるべき次の段階として、当然の如く受け入れていく。そして更にその度合を深めていく。

 あなたは六花があなたの恋人と肌を重ねるのを覗き見るのが好きだった。そしてあなたは六花の恋人と睦み合っているときに、六花に見られるのが好きだった。六花もあなたが自分の恋人を抱く姿を見るがの好きだと言った。そしてあなたの恋人と肌を重ねるとき、あなたに見られているといつも以上に肌を赤く染めた。背中や首筋に汗をかいているのが暗がりからもよくわかった。いったいどちらからこの背徳的な行為をしようと提案したのか、残念ながらわたしは覚えていない。

 このどうしようもない知的、或いは痴的な実験は二年間の長きにわたって行われていたが、ある日唐突に終りを告げる。あなたが久しぶりに自分の恋人と寝ているとき、彼女がおもむろに違う、と言ったのだ。

 あなたは七花じゃない。

 と。

 あなたにはその言葉の意味がわからなかった。どう解釈していいのかわからなかった。あなたは慌てた口調で、わたしは七花だよ、と言う。けれども相手は信じない。信じてくれない。どうして彼女がそう思うのかさえあなたにはわからなかったが、その確たる自信に満ちた断定的な物言いは、あなたをさらに不安にさせた。あなたには自分が七花であると証明できるものが何もなかった。だからとうとう自分の眼帯を外し、

 ほら、ここに傷があるでしょう?

 と告げてしまう。

 この行為に六花は——もちろん、このときも六花はあなたが恋人と裸で抱き合っている場面を見ていた——怒りをあらわにした。激昂したと言っても過言ではなかった。同一であること、お互いがお互いのまるで鏡として存在していること、それらが今、一瞬にして崩壊したのだから。瓦解してしまったのだから。今なら察してあげることもできるが、そのときの六花の気持ちを思うとわたしは今でも胸が痛くなる。部屋のクローゼットから飛び出してきた六花は驚いているあなたの恋人を尻目に、あなたの頬を思い切り打った。恋人が何か抗議の言葉を吐こうと口を開きかけたとき、六花は冷たい声で出て行け、と言った。仮にも自分も寝たことのある女の子に対して。あなたの恋人は服を着る暇もあればこそ、青ざめた顔で早々に部屋を出て行った。恋人はあなたになんの説明も求めなかった。ついでに言えば、これで彼女との関係は終わってしまうことになるのだが、あなたはまだそのことを知らない。そして部屋にはあなたと六花だけが残った。

 六花は泣いていた。ぽろぽろと涙をこぼしていた。けれど泣きたいのはあなたの方だった。六花に打たれた頬がじんじんと痛みを訴えていた。ごめんなさい、とあなたは言った。謝る気なんてなかったが、謝らなければこの場は収まりがつかないだろうと思ったのだ。

 六花は無言だった。そして、それが崩壊の始まりだった。


 わたしたち、しばらく距離をとった方がいいと思うの。と六花は言った。六花は静かにあなたを見つめていた。あなたも六花を見つめ返していた。一週間自分を無視し続けて、やっと口を開いたと思えばそんな言葉を投げつけてきた六花に腹を立てて、あなたは憤りに震える声で、どうして、と訊ねた。六花がちらりと窓の外を見た。外は雨だった。細かな雨が音もなく降り続いていた。

 どうしてわからないの、と六花は視線をあなたに戻して、怒ったように言った。改めて振り返ってみるとこれがあなたと六花のあいだの、初めての、そして決定的な不和だった。あなたたちは小さな頃から喧嘩という喧嘩をしたことがなかった。だから互いに納める矛先を見つけることができなくなっていたのだ。

 その後あなたは京都の女子大に進学し、姉の六花は青森の大学に進んだ。姉がどんな学部を選択したのかさえ知らなかった。教師や親と会話をすることがあっても、あなたはその話題を周到に避けた。話題に上りそうになると、席を立つか不自然に話を変えた。あなたは京都の大学ではロシア文学を専攻した。あれほど心惹かれたフランスの小説はすでにあなたの中で輝きを失っていた。あなたは特にチェーホフを愛し、『桜の園』はあなたの卒業論文のテーマにもなった。あなたは大学で一度も眼帯をしなかった。本格的な化粧を覚えたこともあって、あなたが思っていたほどには、顔の傷なんて誰も気にしなかったのだ。あるいは気づいても、誰もその事に触れなかった。右目の下にある不安の影のようなこの傷は、不気味な皮膚の引き攣れは、別段気にとめるほどのものではなかったのだと、あなたは思い知ることになる。ウィークポイントは上手に隠せばいいのだということを学ぶ。もっとも、笑うことが苦手なことまでは、あなたは克服できなかったのだけれど。

 大学ではサークルで知り合った他の大学の男性と何度かデートをした。一度だけ最後までしようとしたことがあるのだが、なぜか急に六花のことを思い出してしまって、彼を受け入れることができなかった。何をしても、何をされても濡れなかった。そんなあなたに対して、男は初めてならそういうこともあるよ、と優しく笑った。それはとても場慣れしたような感じの笑みで、あなたは少しだけ嫌悪を抱いた。確かに男とは初めてだけれど、とあなたは思う。女と寝た回数なら、その男よりも多いくらいなのだ。あなたはなんだか全てがどうでもよくなってしまい、それから男とは連絡を取り合わなくなって、いつしか自然消滅した。

 四年間、あなたは一度も六花に会わなかった。六花からもあなたに何の便りもなかった。帰省してもなぜか六花とはすれ違い、一度も顔を合わせなかった。あなたはよく、今頃六花はどうしているだろうと考えた。そして以前六花があなたにしてくれたように、自分自身を慰めた。もう他の誰かを求めることはなかった。寝室の鏡に映るあられもない姿のあなたは、あなたであって、あなたではなかった。


 母方の祖母が亡くなったとき、あなたは府の図書館で司書として働き始めたばかりだった。急ぎ帰省すると、そこには久方ぶりに見る六花の姿があった。驚いたことに、六花の姿はあなたの生き写しだった。同じ量販的スーツメーカーの同じサイズの喪服を着て、同じような真珠のネックレスをしていた。化粧の仕方もまったく同じだった。そして、六花の右目の下には、あなたと同じ、傷が刻まれていた。

 その傷はどうしたの、とあなたが震える声で訊ねると、六花は苦笑して、患者さんに刺されたの、と答えた。患者さん。……患者さん? あなたは六花の言っている意味が理解できない。通夜の席で六花は今までなにをしていたのかを、訥々とあなたに語ってくれた。六花は青森の——六花がどうしてそんな遠い場所に行かなくてはならなかったのか、結局あなたは理解できない——看護大学を出たあと、精神科単科の病院で、看護師として勤め始めていた。彼女の顔の傷は、妄想のひどい患者に、ある日突然ボールペンで刺されたのだと教えてくれた。もう少しずれていたらきっと失明していたわ、と六花は笑い、六針も縫ったのよ、と傷跡に指先を当てた。あなたにとってそれはまさしく、あなたの傷そのものに見えた。

 あなたは泣きながらごめんなさい、と言った。どうして自分が泣いているのかあなたにはわからなかった。どうして謝っているのかも咄嗟にはわからなかった。涙はあとからあとから溢れてきた。それは心からの謝罪だった。あの日言えなかった心の底からの言葉だった。そのことに初めて気づいたあなたは、震える声で言った。本当にごめんなさい。わたしを許して、と。あなたは六花の胸に顔を埋め、いつまでも涙を流し続けた。

 そしてあなたと六花は三たび一つになるのだけれど、それは過去のような歪んだ、依存しあう関係ではなかった。何かが少しずつ違っていた。あなたはあなたであり、六花は六花だった。六花はその翌年に職場を移り、あなたと一緒に住むようになった。六花は保護センターで毛足の長い灰色の猫を貰い受けてきて、アマンドという名前をつけた。そして慈しむように、その小さな生き物をいつも優しく撫でていた。あなたは六花の指の動きを、ただただ見飽きることもなく、いつまでもじっと見続けるのだった。


 わたしが窓の外を見ていると、いつの間にか目を覚ました彼女が傍らに音もなく立っていた。彼女……六花は裸のまま、わたしと同じように窓の外を見つめていた。

「ごめんね、起こしちゃった?」

「ううん。……外は雪なのね」

 わたしは六花を横目で見た。六花は舞い散る雪を見続けている。

「六花は雪なんて見飽きてしまったんじゃないの、青森で」

「そうね、そうかもしれない」

「ねえ、六花」

 わたしは訊ねた。

「わたしには……わからないことがいろいろあるの」

 六花はわたしを見て、そのとおりよ、と、

 小さく笑っただけだった。

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十三花 月庭一花 @alice02AA

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