モヤシ炒め、酢、投入

キャトルミューティレート

第1話モヤシ炒め、酢、投入

 時間は夜20時。仕事終えて社を出た、彼は30分地下鉄に揺られて自宅の最寄り駅にたどり着く。


「腹ぁ減ったなぁ」


 季節は冬。帰宅ラッシュに揉まれたこと、そうでなくても地下鉄内の温度設定が高かったこと、だから改札をでて地上に出たのち、暗くなった空を見上げながらそう口にした男にとって、ひんやりとした空気は気持ちが良かった。


「冷凍ご飯はレンチンだろ? さて、確か鶏もも肉とニラはあった気がするが……」


 吐き出される白い息の行方を目で追いながら、夕飯の献立を思案する男。


「野菜……高いんだよなぁ」


 流石に野菜がニラだけでは栄養バランスが悪いと思ったから、帰宅前に買い物をすべく歩み始めた。




「こ、コイツァ……」


 そんな男は、近所のスーパーのとある一角で手を伸ばしたまま固まった。野菜が並ぶスペースだ。そして男は今ある野菜の目の前で立ち尽くしていた。


 その野菜とはモヤシだ。ビニールパックに入った200グラム分のが所狭しと並べられていた。問題は別に彼がモヤシが嫌いだかとかそうではない。


「その差、39円……かよ」


 売られるモヤシの、価格設定に葛藤を覚えたのだ。彼の目に燦然さんぜんと輝くは「広告宣伝の品! モヤシ一袋29円!」の文字。普段だったら気にせず手に取るだろう。もし、その29円のモヤシが残り一袋しかなく、その後ろに控える価格設定一袋68円のモヤシが大量に売れ残ってさえいなければ。


 いつだったか見たドキュメンタリー番組を思い出す。日本のモヤシ農家が相次いで廃業している事実を取り上げたプログラムだ。その29円が広告塔になるから、小売店は販売価格を引き上げる事を渋ると。だから消費者はモヤシが安いのが当たり前なのだと捉えているのだと……適正価格で、モヤシ農家は商品を売ることが出来ないのだと。


「スマン農家さん。それでも、一人暮らしのリーマンにはこの29円が有難いんだ」


 もしかしたら横から主婦のオバちゃんが、最期の一袋にさっと手を伸ばしてこないとも限らない。だから彼は空に謝り、29円のモヤシを選択した。安いなら、それに越したことはない。消費意欲とはその様なものだ。ならばあとはレジに持ち込むだけ。さすればその葛藤もなくなるはず。


 が、彼はその後大きな失敗をしでかした。モヤシのほかにおもむろに手を伸ばし、買い物かごに放り込んだニンニク一球。


「ッツ‼」


 その価格、198円。


「あぁ‼ なんて小っちゃいんだ俺‼ 居酒屋に行こうもんなら一回4000円だぞ!」


 自分では意を決して壮大な選択を決めてみせた心持ち。それがたった一球のニンニクに覆されたことに自分の矮小わいしょうさを突き付けられたような気がして耐え切れなくなった。


 そして、そんな小さな自己嫌悪を消す為、彼が取った行動というのが……


「68円二袋買ったら136円だかんな! 38円も得‼ なんて買い物上手だコンチクショウ!」


 件くだんの68円のモヤシも買い物カゴに入れたこと。変なフォローを自分にしたところが、また彼の小ささを際立たせたことを、たぶん彼自身は分かっていないようだった。




 良い香りが漂う。その香ばしさに、換気扇の下、コンロの前で男は鼻で深く息を吸った。


 ごま油の香りだ。重厚な香りは、加熱されたフライパンからの上昇気流に上手く乗った……だけでない。2欠片分のニンニクスライス片も炒めていたから、香りの一方は油に移り、もう一方は容赦なく彼の鼻孔をくすぐった。


 ニンニクに少し焦げ目が付いた頃か、ジュワッという油のはじける音。彼がここでフライパンに加えたのが一口大より少しだけ小さくカットした鳥のもも肉。ニンニクの香りが移ったごま油に、鳥の油が溶け込んでいく、そしてそれがもも肉に絡まるのだ。


 あぁ、モヤシなぞいれずに、此処で塩コショウを加えて表面がカリカリになったところで口に放り込んだらどうなるのだろう。そしてそれを……冷たいビールと流し込む。


 イカンイカン、と思いつつもよだれが口の中で溢れるのが分かった男。予期せず鳴った腹の虫などは「早くそれを寄越せ」とでも言っているよう。


 だが……その誘惑に負ける事はなかった。当然だ、そうでなければスーパーで葛藤に負けてしまった意味がないのだから。 


「敬意を表し、お前から行かせてもらおう! 《68円》‼ 君に決めた!」


 まるで国民的人気コンテンツの登場人物のような呼びかけと共に、肉への火の通り具合を見計らって投入したのが例の物、高級モヤシ。


 シャッキリとした食感を大切にしたいのだろう。彼はそれを手早くジャッジャッと肉と合わせて炒めるために、箸を素早く動かし、フライパンを振るう。追って刻んだニラも追加した。


「もしこれがペペロンチーノだったら、しょっぱな油にニンニク入れてからすぐ入れるものだけど……って……え?」


 そして加えたのは乾燥唐辛子3本分を輪切りにしたもの。種は、すでに取り出し済みだった。


 ちょっと今回の料理は上手く行きそうだ。そう彼が思った時だった。


「し……塩……出すぎちゃった」


 これは、本格的に彼を小さい男だと評価せざるを得ない。高級モヤシだ。とはいえ68円が現実だ。もちろん他に投入した食材にも材料費は乗ってくるだろうが、それでも総額200円といったところ。


 大きく絶望した。高級モヤシを使ってなお、だからこそ注意して料理してなお、失敗してしまったその事実に対して。


 不可抗力だったというのに。ササッと加えるはずだった塩がザザザーと入ってしまったのは。


 「塩を入れては次はコショウだ」と、大焦りで黒コショウの入ったミルに手を伸ばす。入った塩は大量、だから予定していたよりも多くのコショウを挽いた彼。


「が、が、ガチで……失敗した」


 十分すぎるほどの味付け、恐る恐る炒めたてのモヤシ炒め口に入れてみたのだ。すぐさま、出すのは舌だ。そして即口に含んだのは、コンロ横の流し備え付けの蛇口をひねって出した水道水。


「そ、そんな……68円も出して、これかよ」


 丁度いい量の塩っ気であればそこで料理は終わりのはずだった。野菜は熱を加えすぎると水が出る。だが失敗に打ちのめされ、呆然と男は火にかけられ続けているモヤシ炒めを眺めていたから、気付いた時には火が通り過ぎたモヤシはフニャフニャになってしまった。


「目も、当てられねぇ」


 500円出して、コンビニ弁当を買っておけばよかったと今更ながら思う彼。変えようもない結果。受けとめきれない失意。


 黙って、どんどん水が出て、グジュグジュという音がするようになったフライパンを見つめていた。そこにあるのはもはやモヤシ炒めではなかった。農家の努力を無駄にした成れの果て。


「……認めねぇ」


 が、彼は小さいだけではない。


「俺は……認めねぇっ‼」


 そのケチの度合いも一級品だった。彼がそれを口にした時、このモヤシ炒めの話の結末は、結末ではなくなった。


 物語は俗に起承転結で構成されているという。ならばこの瞬間、この状況は起承転結の承となった。


「リーマンの、独身生活、舐めるなよぉぉぉ!」


 演技じみたセリフ。それは仕事から離れたこのプライベート空間だから発せられること。


「ならぁ、俺はここに米酢を召喚する‼ うっぉぉぉぉぉぉぉ‼」


 普段はあまり使うこと無い調味料、お酢を持ち出した彼は、それを適量フライパンに注ぎ入れた。既にモヤシから出た水は蒸発。カラカラに乾いた金属製のフライパンが、常温液体であるお酢に反応しないわけがなかった。


 ジュワァッ‼ という音はさながらフライパンの咆哮。一気に蒸発するお酢の香りを思わず鼻で吸い込んでしまった男は、ツンという衝撃に一瞬気が持っていかれかける。


「まっだまだぁ‼ ハァァァァァァ‼」


 気合いだけなら男もフライパンの咆哮には負けてはいなかった。酸っぱい香りに身を包まれ、それでも自分を信じた男は全力でフライパンを振った。ひとたび、ふたたび、みたび。


 酢を持ち出したのは特に何かの理由が男にあったわけじゃない。ただ塩辛さを何かに変えたかったそれだけだから。


 だが奇をてらったその判断は、この物語の起承転結構成中の《転》をもたらした。


 焦げが回り、色が全体的に茶色くなったモヤシ炒めなれのはて。そこに、当初考えもしない《照り》が生れたのだ。


 「行くしかない!」と彼がそう思ったのはその照りを認めたから。怖すぎて味見はしない。だから彼は、その成れの果てにお酢が絡まったソレに視線を外さず……底の浅い平皿に手を付けた。




「動け、動いてくれよ俺の腕……」


 手塩を掛け過ぎた・・・・・・・・、フライパンで育て過ぎたソレ・・・・・・・を前に、男は声の震えを止められないでいた。


「いう事を、聞いてくれ‼ 俺の指‼」


 カタカタと震えるのは箸だ。


 物語は結末へと至る。


 モヤシは200グラムと結構な量はあった。しかし、不良息子か不良娘かは知らないが、確実に育て方を違えたソレに対し、育てた彼には自信がなかったから、箸でつまんだのはたった一本、しなしなにへたったモヤシ。


「……ん?」


 苦い顔をし、腹を決めてその一本だけを、押し込むように口内に運んだ。


「あ……れ……」


 しかし、そんな彼が見せたのは拍子の抜けた反応だった。


「お……前、どう……して……」


 そんなはずがある訳ないと、今度は箸でゴッソリモヤシを救って口に放り込む。


 甘味が、口いっぱいに広がった。いや、塩っ気はあるのだ。だが塩を入れ過ぎた時に味を見た際に感じたしょっぱさは見当たらなかった。


「旨い……よ?」


 それどころか、あれだけ刺々しかった塩辛さはまろみに包まれ、ジワリと舌全体に広がっていった。その広がるさなかに、塩分をかんじたすぐ後に甘みが主張してきたのだ。

 おかしい、砂糖など入れていないのに。だが確かにその甘味を彼は味わった。


 予想以上の美味、それがこの料理ものがたりの結末だった。舌に不快さが全くないから十分に咀嚼そしゃくし飲み込んだ。


 フゥッと鼻から抜ける香こうは爽やかな酸味だった。それを感知したところで、ホッとした脱力が一気に彼の体を襲った。それはもう警戒しないでいいという合図なのだ。


 試しにカットしたもも肉も口にする。良く味わう。塩っ気は確かにある。だが噛むたびにあふれる油と肉汁はまろやかな味わいをさらに濃厚にしただけでない。爽やかな酸味と溶け合い、程よい食べ応え、しかししつこさのないサッパリ感を現実のものとしていた。


 そう、それはまさに中華料理の一つである酢豚を彷彿とさせるような。


 そして……


「プハッツ‼」


 大きく、喉で鳴らしたゴクリという音。ビールで流し込むのが一連の味の移り変わりを締めくくった。それを何度も繰り返す。そしてそれがレンチンしたご飯に合わないわけがなかった。




 起承転結というのが物語を作るうえで重要な構成順番なのだろう。


 余談というのは、この起承転結のどこに当たるのかは不明だが、あえて言おう。


「ハッハァ‼ やっぱあの時の俺の采配は間違ってなかった。《68円》を買ったのだってきっと運命で……」


 その後、終わり良ければ総て良しとばかりに気を取り直した彼の言に分かる通り……


 やはり、


 彼は、


 小さい男だ。

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モヤシ炒め、酢、投入 キャトルミューティレート @mushimaruq3

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