ミナ

銀鮭

第1話  ミナ 

「もう遅いことやし、今夜はここにするか」

 と、おっちゃんは真面目くさった顔でいうけれど、場末のホテル街をあちこちと散々連れまわした挙げ句の果ての安ホテルだった。


 ミナは大きな欠伸をしながらコクンと頷くと、細く長い指先で気だるげに髪の毛を掻きあげる。とてもじゃないが、真面目に相手はしていられない気分だった。


 恥ずかしげもなく夜空を白く染め上げる華美でにぎやかなネオンサインも、その足下の路地裏は、かえって汚く、薄暗い。おまけに空気も重く澱んでツンとアンモニア臭が鼻をさす。


 突然、植え込みに隠れていた電飾看板がジッーと鳴いて明滅する。


 ――宿泊¥3800より――


 恐らくそれが決め手だったのだろう。


 競馬、競輪、競艇にパチンコと、賭け事には見境なく大枚をつぎ込むくせに、へんなところで始末したがる、おっちゃん。博打うちとはそういうものか、まったく生きた金の使い道を知らない。


 といっても、そんな分別くさいことをいうようなミナであっても異存はなかった。ドヤ街の、窓も風呂も便所もない、二畳あるかないかの湿気た黴臭い部屋よりは、よっぽどましだと思わなければならない。


 肌をさす寒い夜風にふかれながら、あるいはうっとおしい藪蚊に喰われながら、公園や駅のベンチで野宿することもまれではない。そう思えば床があり、壁があり、まして天井があるのであれば、いっそ天国や極楽といってよいだろう。


「どこでもええけど、早よぐっすり眠りたいんよ」

 これが今現在の、ミナの偽らざる心境だった。


 長旅と、既に今夜一仕事終えてミナはとことんくたびれていた。とにかく熱いシャワーを全身に浴びたい。そして粘つく糊のように素肌にねっとりまみれた汗と、身体の内側、ことに肉の襞や溝の一つひとつにまで染み込んだ穢れをきれいさっぱり洗い流し、あとは死人のようにぐっすりと眠りたかったのだ。


 ミナは部屋に入るとすぐに寝室とガラス一枚で仕切られたバスルームへとむかった。

 湯船にお湯を張るのもうざったく、衣服をむしり取るように脱ぎ散らかした。壁のタイルにむかって立ったまま赤いカランをひねると、熱いお湯が無尽蔵に飛び出してくる。ほとばしる熱い飛沫と立ちのぼる湯気の匂い……全身の毛穴がだらしなくゆるんで、ゆっくりと開いていくのが自分でもわかる。


 手に持ったノズルから噴き出す丸い水滴が、首筋や肩、胸の谷間に打ちつけられる。それが腹の膨らみを迂回して、水飴のようによじれながら陰毛の辺りに集まってくる。内股から膝の裏側へ流れ込んだそれは向こう脛を伝い、くるぶしの下の踵からベージュのタイルへと繋がっていく。

 チャラチャラと排水溝へ流れ落ちる水音が、疲れた身体には心地よかった。


 湯気に曇ったガラスの向こう側で、青白い光が鈍く広がった。恐らくおっちゃんがテレビをつけたのだろう。持ち込んだカップ酒を飲みながら十一時のニュースを見るのだ。


 ミナはバスルームから出ると、濡れた髪の毛を乾かすのも面倒だった。

 バスタオルで軽く髪を拭うとホテルの浴衣をはおり、すぐにベッドの上に倒れ込む。たちまち意識が遠のいて、漆黒の闇の彼方へと誘われていく――。



 もう既に、軽い鼾さえかいていたのかもしれなかった。夢を見るのであれば、恐らくいちばん見やすい状態にあったのだろう。

 

 いや、実際ミナは夢を見ていたようだ。遠い過去の、自分の知らない、遥かな淡い想い出の中へと飛翔していく。


 そんなミナを、うつつの世界に引き戻したのは――。

 やっぱり、おっちゃんだった。


「……う。おっちゃ……やめて。……な、お願いやから……」


 耳朶から首筋へかけて蛞蝓の這う感触がある。

 背中にまわされた腕になかば抱き起こされた身体が、弓のように反らされる。左の乳房は修練された指先によって、滑らかに愛撫されている。


 ミナは焦点のさだまらないうつろな眼で滲む天井を見あげた。

「な……やめて……」

 聞こえるか聞こえないかの幽かな声を、吐息といっしょに洩らす。


 それは無意識の抗いだろうか――。

 いや、むしろ意識した懇願かもしれない。


 けれどもそんなことは些細なことで、ミナにとってはどちらでもよかった。

 それより言葉とは裏腹に、ますます淫靡に濡れそぼっていく我が身が、ミナには他人のもののように思えて、心許なく切なくて、恨めしくて情けない。


 部屋の電気は消してある。だのに淡い暖色の光に包まれているのは、ベッドサイドのスタンドだ。笑い声が洩れ聞こえるのは、消し忘れたテレビだろう。


 全面鏡張りの天井には不気味な獣が映っている。

 かつては人間だった男と女が、見るも無残な醜い獣に成り果てて、互いに相手の秘肉を貪り喰っている。


 ――これは商売やないんよ――


 朦朧とした意識を打ち破るように、ミナは心の中で呟く。


 ――そうよ、これは商売やないんよ――


 と、何度も自分自身に言い聞かせる。


 もし、これが商売であるならば……。

 そう、これがお金のためのセックスであるならば、ミナは気も狂わんばかりに身悶えて、随喜の涙を流しながら悶絶するくらいのことはやってやる。


 ――が、それはあくまで身につけた演技であって、実際そうなってしまってはプロ失格だ。相手を喜ばすのが商売で、いちいち感じていては身がもたない。


 ――では一体全体これは何なのだ? この物狂おしく、切ないまでの高ぶりは――


 裡に埋もれたもう一人の自分が、たちどころに反問を投げかけてくる。


 真実、演技でなしに身悶えて、おまけに意識までもとろけてしまう。

 そうなるのは唯一おっちゃんとだけだが、困ったことに、それがミナを捕縛して自由にはさせてくれない。


 いや、待てよ。

 一人だけいたか……。


 ミナの肉体を買ったのではなく、ミナの時間を買ったへんな奴。

 指一本、身体に触れられたわけでもないけれど、下着はいつの間にか濡れていた。


 ふと耳の奥を、外国の古い、昔の音楽が流麗な旋律で流れていく。

「大井競馬場の入口で待っている」と言ってくれたのは、もちろん名前も住所も知らない男だ。

 その男の顔が緩やかに眼底に浮かびあがる。

 約束をしたわけではないけれど、気になる男には違いない。


 しかし、クラシックとかいう音楽も、気になる男の容貌も、おっちゃんの皺深い顔とだみ声に、あっという間に掻き消される。


「な、教えといたる。銭金のともなわんセックスに何のメリットがあるんや。え、言うてみい。ないやろ。ただ身体が芯まで疲れるだけで腹の足しにもならんわ」

 まだ膨らみ切らないミナの乳房を掌に包み込み、確かそう教えてくれたのではなかったか。

 ならば大好きなおっちゃんといえども、わざわざ腹の足しにもならんセックスなどする必要がどこにある――。


「そしたら、なんでおっちゃんとするんやろう。うちは、いやや、いやや言うてるのに――」


 そう気色ばんでみたところで、おっちゃんとするこの行為が、ミナを女にしたのだと思えば、確かに納得もしよう。

 まだ満足に毛も生えそろわず、初潮さえ迎えてなかった頃から始まって、今ではミナを立派な淫売婦にまで育てあげた背景がある。その事実には、ミナはどう転んだとしても逆らえなかった。


 思い起こせばミナは子だった。

 いや、お父ちゃん以外に家族と呼べる者などいなかった。


「ええか、おなごの“ここ”はな、銭を産む大事な巾着や。そら、なんぼでも産みよるわ。ミナはこんなええもん持ってるんやさかい、将来お父ちゃんに楽させてや」

「お父ちゃんは持ってへんのん?」

「お父ちゃんは男やさかい、そんなええもんは持ってへんな。おなごだけや。おなごは、か弱いし、子供育てなあかんやろう。せやから神さんがくれはったんや。銭を産む大事な巾着や。これさえあれば喰いっぱぐれることはないわ。ミナは美人やし、ぎょうさん儲かるわ。そや、ちょっと、お父ちゃんのこれ触ってみい。そや、そや。見てみい、大きなりよったやろ」

「石みたいにかとうなったわ」

「どや、おもしろいやろ。そしたら今度はべろで舐めたってみい……」


 ミナが物心つく以前から、その小さくいたいけな身体に夜毎そう教えてくれたのは、確かにお父ちゃんだった。

 酒くさい息を吐きながら、赤く充血した眼を闇に爛々と光らせて、時には黒く艶やかな髪をやさしく撫でながら、時には桃の表皮のように赤く火照った素肌に荒々しいほどに舌を這わせながら、添い寝してくれたお父ちゃんだった。


 巷では、膨らみに膨らんだバブルがついに弾けて不景気風があちらこちらに吹き始めていた。擦り切れてささくれ立ったのは古畳だけではなかった。人の心も同じように擦り切れて、世間では、親思いで真面目だと評判の息子が、突然切れて両親を刃物で刺し殺したりする。


 そうしてひび割れて剥げ落ちたのも壁の漆喰だけではなかったのだ。親兄弟のように接してくれた上司や先輩が会社存亡の危機に際しては、喜んで部下や同僚の首を差し出した。


 世の中、妙にぎくしゃくとしだして、その綻びがあちらこちらに現われた。


 経済大国という揺るぎない冠をかぶっていた国が、気がつけばいつの間にか腐敗ガスに充満し、水面に浮かびあがった死魚のように、波に揉まれながら少しずつ身体の一部をもがれて、その姿を崩していく。


 といってもミナの生活はバブルが弾ける前から崩壊していた。

 古畳は擦り切れ、壁は崩落し、朽ちた天井からは雨が漏り、ゆがんだ木枠の窓は開けたが最後、閉めるのにも苦労するほどの代物だった。

 およそ廃屋と看做されても仕方がないほどに閉ざされた六畳一間のボロアパートは、冬には路地裏を木枯らしが吹き抜け、戸外よりもさらに冷たい冷気が夜具の隙間に潜り込んできた筈なのに、やっぱり夏にはむっとする湿気と熱気が部屋に澱み、天井裏にでも死んでいるのだろう、ネズミだかイタチだかの死骸が発する饐えた臭いが嗚咽するほど鼻を衝いた。


 職工だとか警備員だとか、隣近所にはそう言い触らしていたらしいが、日雇い人足あるいは的屋、大道香具師のようなものであったかもしれないように、幼いミナには到底見当もつかない仕事をしていた筈のお父ちゃんが、いつしか雨でもないのに家でごろごろするようになったのは、やっぱりバブルが弾け飛んだ所為だろうか。


 ついにはスポーツ新聞を握り締め、やれ競馬だ競輪だと出かけていく。

 アパートに取り残されたミナはとりとめもなく後ろ姿を見送るだけで、決して駄々をこねて困らせたり、まして泣きじゃくったりはしなかった。

 あくまでも気散じを装い、吉江という女の前では無邪気に一人遊びをしたものだ。


 名ばかりではあるが一応「お母ちゃん」と呼んでいたその女が、荷物をまとめて腐れたアパートを出ていったのも、恐らくその頃のことだったのだろう。


「あー、あほらし。言わんとってちょうだい。うちはもともと子供は好かんし、あんたのお母ちゃんでもあらへんのや。あんたの面倒なんかみたことあらへん。ほ乳瓶でミルク飲ましたんも紙オムツ取り替えたんも、みんなお父ちゃんがしたことや」


 借金取りが呆れて帰るほどの部屋にはとても金目の物などある筈はなかったが、それでも何やら目一杯鞄に詰め込む女にむかってミナは思い切って、

「お母ちゃん、どっか行くんか」

 と問いかけたのだった。


「うるさいなあ、この子は。お母ちゃんて、言いな。そや、ついでやから言うといてあげよか。あんたが大好きなお父ちゃんもほんとうのお父ちゃんやあらへんの。あんたは赤ん坊の時に、あの男に誘拐さらわれてきたんやからね。うちは言うたんや。帰すのは無理としても、せめて公園のベンチへでも捨てときて。せやけど、どっちにしても不憫やと思たんやろう、連れていく言うてきかへん。それもあんたが泣きもせんでにこにこ笑うてるさかいや。ははははっ。自業自得やな。ほな、さいなら――」


 おそらく五つ六つの年頃であったろうミナにとっては、当時吉江が言ったことが、すぐに理解できなかったのは当然だが、それでも女は二度と戻ってこないだろうことだけは確信が持てたのだ。


 これでもう自分を陰で苛める者がいなくなったと思えば、ミナは悠久の安堵を得られた気分だった。


 思い起こせば女に関する記憶は、たいがい苛められたものばかりだった。

 確かに吉江は、お母ちゃんではない。

 吉江は、お父ちゃんが一杯飲み屋で拾ってきたという、ただの飲んだくれの阿婆擦れなのだから。


 ミナと吉江が二人っきりになると、きまって女は顔色を変えミナを顎でこき使った。

「うちはな、あんたにタダ飯は喰わさんのや」

 とりあえずは、それが口癖の女だった。


 朝晩の布団の上げ下げ、食事の後片づけ、部屋の掃除などはミナの仕事だった。その間、女は片膝立てて酒を飲み、下卑た笑い声をあげながら一人テレビを見ていたのだ。


 ミナがお父ちゃんと一緒の寝床に入った翌日には、決まって女の態度がとげとげしくなっていて、お父ちゃんが出かけた後、むやみやたらと殴られ蹴られした。

 ミナがお父ちゃんに言いつけないのをいいことに、それはもう執拗で陰険な虐待だった。


 だからミナは女を「お母ちゃん」と呼んではいても、それはそう呼ぶようお父ちゃんにしつけられたからで、たとえそう呼んだとして、なにゆえ母娘としての情や愛などが感じられるというのだ。


 その邪魔者で憎々しい吉江が出ていったのだ。

 これでもう真夜中に、雌鶏が首を絞められるような女の喘ぎ声を、部屋の隅で布団にくるまりながら聞かされることもない。


「お父ちゃんと二人だけの生活ができるんや」

 と、ミナは刹那に喜んだものの、そのお父ちゃんがほんとうのお父ちゃんではない、と言い残した吉江の言葉が耳について離れず、踏み出した足が地に着かないほどの衝撃で、ミナをそのまま地獄へと蹴落としたのだ。


 ――そしたら、ほんとうのお父ちゃんとお母ちゃんはどこにおるんやろう――


 かつて抱いたこともない不安が募ってくる。


「あのガキそんなこと言いくさったんか! 嘘や。嘘に決まったあるやろ。そんなこと心配せんと、早よ寝え!」


 吉江のことを話すと、お父ちゃんは怖い顔でそう答えただけだった。


 しかし、吉江が出ていってしまうとお父ちゃんはどこへ行くにしても、ミナを連れて出るようになったのは予想だにしなかったほど嬉しいことだった。


 といってもほとんど競馬場か競輪場だが、それでもミナには嬉しくて、お父ちゃんがレースに熱中している間はおとなしく傍にしたがっている。


 帰りには、必ず一杯飲み屋に立ち寄った。

 そこで晩ご飯を済ませるのが日課となっていた。


 蒼くて煙たい煙草の煙にむせながら、淫らで妙に滑稽な猥談がおもしろく、肉の焼け焦げる匂いと煙の入り混じる男くさい空気の中で、自分自身おとなになったような気分で食べる串かつやどて焼き、おでんやホルモン焼きなどがミナには堪えられないほどのご馳走だった。


 ある日、いつものようにカウンターの隅の席に腰掛け、足をぶらつかせながら串かつをかじっていると、便所に行っていたお父ちゃんが戻ってきて、

「ちょっとおいで」とミナを手招きしたのだ。


「この娘か? えらい小まいやないか」


 店横の路地を少しばかり入った所には、頭の禿げ上がった男が待っていて、一瞬驚いたような素振りを見せたが、すぐに思わせぶりにニタリと笑うと、ミナを上から下まで舐めるように見ながら言ったのだ。


「そやから見るだけや、言うてますやろ」


 お父ちゃんは男の肩を抱くようにして、内緒話でもするように耳元でそっと囁く。


「そら殺生や! やっぱり見るだけちゅうわけにはいかんわ!」

 男は艶のある頭を掌でこねながらわざと声を荒げた。


「ほな触ってもよろしいわ。けど、それやったらもうちょっともらわんと――」

「出すがな、出すがな。金やったら何ぼでも出すがな。ほれ、取っとけ」

 男は財布から何枚かの札を抜いて、お父ちゃんに手渡した。


「へい、おおきに。それから指は入れんといてくださいよ。

 まだ小まいよって痛がりますさかいな」

「なんや。そしたらどこ触るんや。まさか、お嬢ちゃんかわいいなー言うて頭撫でて、いったいどこがおもしろいんや!」

「そらそうだすなぁ。……そしたらアソコ舌で舐めてもろたらどうでっしゃろ」


 昼でも薄暗い路地は半間の幅もなく、さらに暗い奥は行き止まりになっていた。

 夕暮れ時だというのに肌寒さは感じられず、そこだけが生暖かい土臭さに満たされていた。


「なんも怖いことなんかあらへん。毎晩、やってるやろう。な、このおっちゃんにもさしたってや」


 ミナはお父ちゃんにパンツを下ろされた。

 そして後ろから抱きかかえられる。

 ちょうどアパートの前の溝で、おしっこをさせられる格好だ。


 目の前には、前屈みにしゃがみ込んだ男の禿げ頭がある。

 身体の自由が利かないミナはどうすることもできなかった。

 けれどもお父ちゃんの頼みだから、どうしようとも思わなかった。


 最初、男は右手を顎にあてがい、難しい顔でミナのアソコを熱心に覗き込んでいた。


「なんや大きめの鍵穴みたいやなぁ」

 言いながらポケットからキーホルダーを取り出した。


「ちょっとぉ、鍵なんか入れんとってくださいよ」

「わかったあるわい! ちょっと入るかなぁ思ただけやないか」

 キーホルダーをポケットにしまうと男は鼻先を触れんばかりに近づけて、犬のようにクンクンと匂いを嗅ぎだした。

 口の周りの薄い口髭がアソコにあたって、ミナはピクンと身を躍らせた。


 恐怖からでも、嫌悪からでもなく、言うならば知らない人という初めての体験が、無意識にミナの腰を後ろに引かせるのだが、お父ちゃんは後ろから躊躇なくぐいと押し出す。


 男は、ずれた眼鏡を掛けなおすと血走った眼を一点に集中させて、今度は人差し指にたっぷりと唾をつけ、その指の腹で亀裂を上下になぞりだした。


「あっ指! 入れんとってくださいよ」

「何度もうるさいやっちゃなぁ、ごちゃごちゃ言いな。上っかわを撫でてるだけやないか。


「――そや、この娘に小便させてくれへんか?」


「小便ですか。ミナ、出るか?」

「いいや、でえへん」


 ミナはお父ちゃんに抱かれているのでまったく怖くはなかった。

 むしろその後、男が口に唾をためて舐めまわしたり、むりやり舌を差し込んできたり、息を強く吹き込んだりするのが、何となくこそばゆくなって身をよじった。

 けれども身をよじればよじるほど、お父ちゃんはミナの足を広げようとする。


 ミナの身体はだんだん下へずり落ちてきて、ほとんどアルファベットのYの字状態になっていた。まるで両足でバンザイでもするように……。

 頭に血がのぼってきた。首がお父ちゃんのベルトのバックルに引っかかって窮屈だった。

 

 男は次第にハアハアと息を荒げると、慌しく肩を上下に揺らし始め、しばらくするとウッと呻き声を洩らして地面に突っ伏した。

 

 顔をあげた男の、眼鏡がずれてレンズが白く曇っているのがよほどおもしろく見えたのだろう、ミナは思わず笑ってしまったのだった。


「どや、怖いことなんかなかったやろう」


 駅へむかう道すがら、お父ちゃんは手をつないだミナを上から見おろして、思い出したように言ったのだ。


「うん。こそばゆかっただけや」

 ほんとうにそれだけだった。痛くもなければ、気持ちよくもない。


「そうか。こそばゆかったか。はははっ。そしたら駅の喫茶店でプリンアラモード食べさしたる」


 そもそも、それが最初だった。

 ミナが自分の身体で金を稼いだのは――。


 何しろお父ちゃんは仕事もせずに賭け事ばかりしているのだから、その元手はミナが稼がなければならなかった。

 もちろん客の心配はいらなかった。いつでもお父ちゃんが探してくる。競馬場や競輪場、競艇場やパチンコ屋にはそういう客がたくさんいるので、探すのは容易だったのだ。





「うっしゃ……」

 おっちゃんは酒くさい息を吐きかけながら、せっつくようにミナの股を割ってくる。そうしてミナの両膝の裏側に、自身「節ぶとい指やでぇ」と自慢する手をあてがい、大きく左右に開く。その指も、左手の小指は第一関節から先がない。


「やめて!」と頼んできいてくれるおっちゃんではない。

「いやや!」と拒絶してきいてくれるおっちゃんでもない。

 むしろそうした拒絶の言葉をはくことが、いっそう客を喜ばすのだと教えてもくれたのだ。


 おっちゃんはミナに“女の何たるか”をことごとく実践躬行で教えてくれた。

 だからミナは、今では立派な淫売婦になれたのだと思っている。

 食べることには困らないし、きれいな洋服で着飾ることもできるのだ。

 今現在のこの生活に、ミナは何の不足も不満もない。


 ――が一方では、いつまでもやっていける商売ではない、という思いも最近コツコツと頭の隅を小突いてくる。

 これから先、ミナが一人で生きていくことを考えれば、たちまち不安と焦燥が頭の中をよぎっていく。


 では、そろそろ将来を見越して自分の為に稼ごうか。

 いや、金持ちの男を手玉にとって玉の輿にのるというのもいい考えだ。


 そうなると始末に困るのは――やっぱりおっちゃんのことだろう。

 ――いっそのことその手始めに、商売とみなして金でもとろうか――

 そうすれば自分の気持ちも割り切れて、少しは楽になるのかもしれない。


 しかし、かつては「お父ちゃん」と呼んだ男に、どうして金などとれようか。

 ミナにとっておっちゃんは、今でもこの世にただ一人のお父ちゃんであり、見ず知らずの一見の客などではないのだから……。


 それにミナが稼いだ金はどうせすべてがおっちゃんの懐に入るのだから、金を取っても意味がない。

             

「お、お父ちゃん……」

 ミナはおっちゃんの顔を内腿に挟みながらポツリと呟いた。


 実のところ、お父ちゃんのことをいつ頃からおっちゃんと呼ぶようになったのか、自分でも思い出すことができない。

 吉江が洗いざらいぶちまけた以後であるのは確かだが、お父ちゃんにそう呼ぶように言われたのだ。


 ミナも物心がつく頃になると、世間では実の父娘が交わることなど、どう考えてもまともな行為ではないということが、何となくわかりだした。

 そうするとやっぱり吉江の言ったことは嘘ではなくほんとうで、実の両親がどこかにいるのだろうか、と考えたりもした。


 しかし、考えたところで小娘の身空ではどうしようもない。

 お父ちゃん以外に頼るべきよすがを持たないのだから、ミナは素直に従っただけだった。


「お父ちゃん」から「おっちゃん」へ――。


 何のことはない。ただ呼び名が変わるだけなのだ。


「こら、お父ちゃん言いなて言うたあるやろ。萎えてしまうやないか」

 ぬらぬらと口の周囲を濡らしたおっちゃんが顔をしかめて怒る。


「違うねん。おっちゃん、うちのほんとうのお父ちゃんとお母ちゃんは、

 やっぱり、もうこの世にはおれへんのん?」

 何度訊いたかわからない質問だった。

 

 おっちゃんは何も言わないが、ミナはそう感じ取っていた

 

「わからん。そんなこと知るかい」

 おっちゃんの返事もいつも同じだ。投げ遣りに答えて、すぐにミナの股間に顔を埋める。


 けれどもたった一度だけ、

「わしがちゃんと始末したよって心配すな!」と怒鳴るように口を滑らせたことがある。同年齢とおぼしき体型の少女がセーラー服姿で中学校へ通っていたのを見ると、ミナは十二、三歳だったかもしれない。


「始末した?」

「ミナが心配せんよう、あんじょうしてあるというこっちゃ。なんや逢いたいんか?」

「……ううん。今さら逢いとうはない。けど……」

「けど、なんや?」


 その先は、自分でも何を言いたいのかわからなかった。

 心も身体も既に大人になっていたミナであったが、ここでいう「始末」という意味を知りたくはなかったのだ。


 けれどもそれから四、五年経過した現在、さすがに「始末」の意味もわかるようになってきた。

 それで、「……もうこの世にはおれへんのん」などと、わざと当てこするように訊くこともできるのだ。


 おっちゃんはいつも「わからん。知らん」と答えるが、ほんとうは「俺が殺した」と言ってくれることをミナは期待した。

 そうすれば言えるのだ。


 ――復讐したいねん――


 それでなければおっちゃんには、ある意味、育ててもらった恩義がある。

 義務教育さえ受けさせてもらうことができなかったが、人並みに言葉がしゃべられれば誰とでも意思の疎通はできるのだし、計算にしても、銭勘定さえできれば困ることはない。


 最近、ミナは夢を見る。それも、うつつの夢だ。

 おっちゃんとセックスしていると、必ずといっていいほど見る、うつつの夢だ。


 決して広くもなく豪華でもないが、隅々まで整理整頓が行き届き、明るくて清々しい空気に満たされた部屋がある。天井も壁も真っ白で、黒革のソファーに若い男女が乗り出すように腰かけている。その二人が、まるで赤ん坊でもあやすような仕草でこちらにむかって微笑んでいる。


 その夢は、忘れられた記憶の残像か、あるいはいたずらに脳裡に描いた幻想か、それはミナにもわからない。

 けれどもその光景が想い出されると、きっと自分の両親はおっちゃんに殺されたのだという考えに至るのだが、しかし一方では、今更どうしようもないという諦念がある。それが二人の生活を続ける上においては必要不可欠な要件になっていた。


「うっしゃー。ほなら入れるでぇ」


 おっちゃんはミナの左脚を右肩に担ぎ上げると、肉壁を押し開いて入ってくる。

 節ぶとい指の一本も痛くて入らなかったのが、今では人差し指と中指で掻きまわされるほどに悶絶し、悦びを覚えるまでになっていた。


 しかしそれはおっちゃんだけで、ほかの客がいくら指でいじくっても、まったく何も感じない。いちいち感じていては身体がいくつあってももたないからだが、それならいっそカッターナイフで陰核を切除してくれ、と懇願したミナであったが、商品が疵物になってしまうやろ、とおっちゃんはあっさりと言い放ったのだ。


 感じそうになったら、何か他の興味あることに精神を集中させる。

 それがミナにとっては、あのうつつの夢だった。


 ミナはうろんな意識の中で、儚い夢を見続ける。

 白い乳房のぬくもりは、あれは陰険で意地汚い吉江のではなく、確かに優しいお母ちゃんのぬくもりだったろう。

 天井高く持ちあげられ見おろした笑顔は、あれはおっちゃんではなく、確かに実のお父ちゃんの満面の笑顔だった。


 ミナはいつも天井ばかりを見ていたような気がする。

 雨漏りの染みのある六畳一間の腐れたアパートの天井ではなく、清潔で清々しい白い天井だ。そうして清楚で甘美な香りの漂う部屋は壁も白く、純白のレースのカーテンのむこうには決して広くはないが、日差しが燦々とあふれている青い芝生の庭があり、ミナより大きな犬がいた。


 自分は幸福な家庭に生まれ、いつくしまれていたのだろう、とミナは思う。


 おぼろげな記憶だが、いや、やっぱりそれは単なるミナの妄想で、そんな事実はなかったのかもしれないが、脳裡に浮かび上がる幽かな像は、いつもミナを優しく包み込んでくれるのだ。


「ほな、いくでぇ!」


 ミナは下から身体の芯を突き上げられる。 

 その度に、淡い声を洩らしながら脚をからめて下からおっちゃんを抱きしめる。

 身体だけではなく、既に心も委ねてしまったミナは、しかしうっすらと開いた眼で鏡張りの天井を見あげる。


 そうしてふと、まだ天井があるだけましだ、と自らを慰める。

 厳冬の木枯らしに肌をなぶられたり、真夏の灼熱の日差しに素肌を焦がされたりすることもない。橋の下、公園の木陰、路地裏のビルとビルの僅かな隙間など、男と女がまぐわうだけの矮小な空間さえあれば簡単に商売はできるのだ。


 そんなことを思えばラブホテルは、ミナにとっては天国だ。

 熱いシャワーにふかふかのベッド。

 何を気にすることもなく、誰に気兼ねすることもなく、ぐっすり眠りたいだけ眠ることができる。

 ここでは取締りの警官や、おっちゃんの小指を切り落とした、怖い地回りのやくざの眼は届かないのだ。

                      

 けれども、今夜はこれで三度目だった。さすがに身体が疲れている。

 フェリーに乗って、一日かけて戻ってきたばかりで、もうすでに客を二人とらされた。


 日の落ちたばかりの岸壁は、美しかった。黒い波間のむこうの空が血のように赤く滲んでいて、地獄の縁のような気さえした。


 自分はきっと、あそこへ行くんだ。

 ほんとうのお父ちゃんとお母ちゃんは別の天国というところにいるのだろうが、

 遅かれ早かれおっちゃんは、ミナと同じ地獄へ落ちる。恐らく吉江もやってくるだろうが、もう先に行っているかもしれない。


 フェリーから降りると手始めにおっちゃんは、岸壁の縁に並んで停車している長距離トラックのドアを叩いて歩いた。


「ええ娘おるんやけど、遊ばへんか」

「どんな娘や」

「あの娘ですわ」


 客が少しでも興味を示すと、おっちゃんはミナにおいでと手招きする。


「えらい若い娘やなぁ」

「ええ、十八になったばかりですわ」


 普通よりは濃い化粧と物憂げな仕草で、ミナは斜に客を見あげる。

 こちらが相手を値踏みするように、腰に手をあてがい、鼻であしらうような態度をとることもある。

 したいくせに、条例がどうのこうのと言って煮え切らない相手には、すくなからず効果がある。


 客の一人は年の頃なら四十五、六の白髪まじりのでっぷりとした中年だった。鼻の頭に脂汗を滲ませた見るからに好色な男で、狭い車内で色々な体位を試してミナをもてあそんだ。

 もう一人の客は三十前後の日焼けした精悍な顔つきの男だった。三十分間挿入したまま萎えることがなく乾き果てたアソコに、自らの唾をたらしながら突きまくるほどの精力絶倫男だった。


 おっちゃんはミナに客をとらせる。

 いつでも、どこでも、そこに男という生き物がいれば、ミナを商品としてセールスするのだ。


 所謂、世間でいうところの「ぽん引き」というやつだが、ひと所に部屋をとって客を連れ込むというものではない。

 といって客から連絡を受けてから、自宅やホテルへ赴くデリ・ヘルというものでもない。


 居酒屋や道端で声をかけ、ホテルへ行くのは良い方で、昔の夜鷹のように道端の草叢ですることも珍しくない。


 始めた頃は子供だったので、見るだけでナンボ、触ってナンボの商いだった。


 今でも手っ取り早く小銭を稼ぐには、その方が楽である。

 真面目そうな学生などはミナの胸をブラウスの上から揉んだだけで、真っ赤になって金を払う。


 日本中、競馬場や競輪場、競艇場のあるところを転々と旅しながらまわっている、ミナは“流しの売春婦”だ。


「ミナ、旅行に連れったる」

「旅行って、どこ行くん?」

「九州や。小倉や」


 たとえ幼稚園へは行かなくても、あの貧乏所帯では無理もないか、と世間は見逃してくれても、そろそろ小学校へあがる年齢の子供が、そういつまでも家にいては不審がられる。

 それを見越しての逃避行だった。


「次は北海道の札幌や」


 ミナは言われるままについていく。

 まるで桜前線のように、南から北へと流れていく。

 寒くなれば、今度は紅葉前線のように北から南へと吹かれていく。

 渡り歩いたどの地方の町にもお馴染みがいて、ミナの成長の証をその腕に抱いて確かめたがる。

 客の中には、ミナの戯れ言を真に受けて、一緒に逃げようなどと誘う者もあるにはあったが、彼らはみんながみんな、うだつの上がらない者ばかりで、到底ついていきたいとは思わなかった。


 ただ一人だけ、ミナを濡らせた男がいた。

 指一本、身体に触れられたわけでもないのに、また耳元に熱い吐息を吹きかけながら逃げようと、熱く囁かれたわけでもないのに、ぐっしょりと下着までが濡れそぼったミナだった。


「なんで? せえへんのん?」

 ミナは男のワゴン車の助手席で、ブラウスのボタンをはずす手を止めた。


 おっちゃんは時間がくるまで戻ってこない。いつものようにレースに夢中になっているか、もうすでにおけらになってしまって、自動販売機にもたれて酒でもくらっている。


「うん? まあ、そこに坐っていたらいいさ」

「坐ってるだけやったら、商売にならんわ。お金かえさんならん。あんた、うちを買うてくれたんやろう」

「君の時間を買ったんだ。だからその間、傍にいてくれればいいんだ」


 ミナは小首を傾げた。

 これは自分を侮辱しているのだろうか――。

 そんなふうには見えないし、わざわざ侮辱するために金を払う奴もいないだろう。

 まあ、世の中にはおかしな男がいるもんだ。

 いや、男はみんなおかしいか。

 スケベエであるという点においては、まぎれがないと思っていたのだが……。

                 

 なんとなく気まずい空気になっていく。

 裸にならない売春婦なんて、いったいどこがおもしろいのだろうか。

 ミナはベッドの中の戯れ言以外、満足に男と会話などしたことがない。


 車内には、耳慣れない音楽が流れていた。


「これ演歌とちがうんやね」

「うん。クラシック。君、ショパンって知ってる?」

「うん? 塩パン……。知らんわ。アンパンならいつも食べてるけど」


 笑った男は、一見では勤め人には見えないし、商売人にも見えなかった。おそらく三十は過ぎているのだろうが、髪の毛が耳にかぶさる程度の長髪で、はにかんだ笑顔は十代だ。


「あんたもやっぱり博打するんやね」

「うん、まあ競馬はどちらかといえばスポーツだし、今日は取材できてたんだ。実はフリーのライターでね。あ、そうだ。できれば君のこと話してよ。あのおじさんとの関係とか、仕事のこととか……」


 ミナは、おかしな客の話をして聞かせただけで、おっちゃんとの関係などは話さなかった。

 男も、もっと聞きたそうだったが、戻ってきたおっちゃんが、窓を叩く。


 男は延長してくれと言ったが、仕事もしないで金をもらうのが心苦しくて、おっちゃんには内緒で、ミナは断ったのだ。


 名前も、どこに住んでいるのかも知らない男は、来年もこちらにくるのであれば、同じ日の同じ時間に、この大井競馬場の入場口であいましょう、などと言ったのだ。


 もちろん行くのであればおっちゃんと一緒になるのだろうが、ミナは一人で行きたかった。


 男に何かを期待したわけではない。

 おっちゃん以外の男に濡れたのは初めてだったが、それは一つのきっかけに過ぎなかったのだ。


                        

 軽い寝息が聞こえてきた。

 酒くささも漂ってくる。

 日向ぼっこをするために陸にあがったアザラシのように、うつ伏せにベッドで寝入っている、おっちゃん。

 先に逝っててもらいましょうか、地獄とかいう楽園へ。


 ミナは静かにベッドを滑り降りると、床に落ちていた浴衣の帯紐を手に取った。


 軽い寝息が往復の鼾に変わっていた。

 ラブホテルへ入る前に買ったカップ酒の空き瓶が二本、テーブルの上に転がっている。

 いつも、する前に一杯、してから一杯。

 さすがにしながらの一杯はないけれど、それでなくても昼日中から飲んでいるのだから、ちょとやそっとでは眼をさます気遣いはない。


 シーツを剥いで馬乗りになってみた。

 これはちょっと変わった客に教わったことだ。

 パンストの股の部分を客の鼻面にあてがって、手綱のように操る。

 適当なところで剥きだした尻をスリッパで叩く。

 世の中には、それを悦ぶ男がいるのだ。


 しかし今は、そんな遊びをするのではない。

 ミナは帯紐をおっちゃんの首の下に通して軽く巻きつけた。

 緊張して手が震えたが、眼をさます気配はまったくない。

 ミナは帯紐の両端を交差させ、今度は後ろ手に折り曲げたおっちゃんの、両手首に解けないようにしっかりと結わえた。

 

 こうしておけば、おっちゃんが眼をさまして暴れても、手を伸ばそうとすれば自分で自分の首を絞めることになる。

 両手の自由を奪っておくのは必要だ。

 ついでに足首をパンストか何かで縛っておけばと思ったが、そのためには、せっかくうまい具合に跨ったおっちゃんの背中から降りなければならず、その震動で、眼をさまさなくても寝返りなど打たれてはやっかいだ。

 とりあえず、先を急がなければならなかった。


                           

 ミナは眼をつぶり、短めに握った帯紐を一気に左右へ引き絞った。

 荒馬の手綱を引くように、自分の体重をかけて後ろへのけぞった。


 どれくらいの時間が経過したのかわからない。

 いつしか、おっちゃんのくぐもった呻き声も消えて、ミナは競馬場のアトラクションでポニーに乗せてもらったことを想い出していた。


 ずっと点いていたテレビが午前零時のニュースを流している。

 アナウンサーの歯切れのよい声が、ミナの耳にもはっきりと届いた。


「兵庫県加古川市の夫婦殺害幼児連れ去り事件の時効が、午前零時をもちまして成立しました。この間、兵庫県警はのべ五万八千人の警官を動員し捜査にあたりましたが、有力な手がかりのないまま暗礁に乗り上げ……しかし、時効後も捜査の方は継続していくという方針で……当時二歳だった恵子ちゃんは、生きておれば現在十七歳となっており、この写真はコンピューターをつかって作成した……」


 テレビの画面いっぱいにモンタージュ写真が映し出されている。


 化粧っけのない瓜実顔におかっぱ頭は、まるで田舎の優等生だ。


「うちはもうちょっと美人やし、色っぽいわ」


 と、不貞腐れたように呟いたミナであったが、やっとおっちゃんから解放されたと思った途端に、別の何か見えないものが、ずっしりとした重みで覆いかぶさってくる。

 

 しかし、その何かに思いを馳せるわけでもなく、ミナはいつまでもおっちゃんの背中に跨って、帰りに立ち寄る居酒屋で、今日はおっちゃんと何を食べようか、などと考えながら帯紐を手綱のようにもてあそんでいるばかりだった。


                                  (了)



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ミナ 銀鮭 @dowa45man

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