第8話【Nightingale&Chatelaine Ⅴ】




師匠からガラスの瓶を受け取った。


モートは、素早く懐中時計の鎖をその中に投げ入れた。


モートの耳には、金の鎖がガラスの底に落ちる音色は聞こえなかった。


「くそ…間に合うか!?」


モートの足は全速力でフロアを駆けた。


師匠が自ら盾となり、龍の前に立ち塞がってくれているのだ。


その間になんとしても、封印を完成させねば!龍が炎を吐き、すべてを焼き尽くすその前に…この俺が止めて見せる!


目の前の扉に向かって走る。


貴婦人の背中が見えた!


モートの右足は、一瞬たりとも躊躇うことなく床を蹴る。


その体は高く跳躍した。


モートは、やや前屈みになった婦人の頭上を飛び越えた。


そしてそのまま、扉の外の眩い光の中へと飛び出した。


勢いがついた体が、空中で頭を中心に弧を描いて反転する。そのまま玄関の敷石の上に、背中から落下した。


人よりも体が柔軟なモートは、首を打ちながらも、敷石の上で体を前転させて、衝撃を和らげることに成功した。


その際にも抜け目なく、蓋を開けたガラス瓶を地面に置いた。


同時に外に飛び出した貴婦人の体は、忽ちガラスの小瓶に吸い込まれた。


続いて、炎を吐く寸前だった龍の体も、瓶の中に吸い込まれて消えた。


モートは急いで瓶の蓋を閉めた。


「これで…封印完了だ!」


「でかしたぞ!我が弟子よ!」


見上げれば、御屋敷の玄関にスクリーム師匠が、威風堂々と立っている。


「ナイス トライだ!」


「師匠!御無事でしたか!」


「よくぞ、やってのけた!誇りの弟子だ!モート!!!!」


「師匠!」


モートと師匠は固く抱き合う。


師匠は英国男子同様に、サッカーやフットボールが、ことのほかお好きだ。


移動中も馬車を停めて、グラマースクールのグランドで、学生たちが競技に興じる姿を長いこと眺めている事があった。


「このままでは…我がイングランドは世界の列強の一角から陥落してしまうな!」


などと呟き、憂い混じりの溜息をつくこともしばしばあった。


そんなボスの期待に応えるため。


モートは敵を前にしても、一切怯むことなく、ハードワークに徹した。しかし。


果たしてこれは魔法の修行なのか?


「見事!三頭の獅子が、ウェールズの龍を打ち負かしたぞ!」


一頭足りないです。


「でも…師匠の期待に応えられてよかった…魔法使いの階段をまた一歩登れた」




そうなるはずだった。


しかし現実は、師匠が思い描いた理想の展開とはかなり違っていた。


モートは貴婦人を追い越した。


追い越したというより、婦人は突然走るのを止めてしまった。


モートは面食らった。


しかし勢いがついた体は止まらずに、そのまま表に飛び出した。


そんな、どたばた劇場とは、まるで無縁の時間の中に貴婦人は立っていた。


彼女の姿は、モートが最初に見た時よりも若返り、少女ようにさえ思えた。


彼女は、穏やかな微笑みを顔に浮かべ、静かに右手を差し上げる。


今にも炎を吐く寸前だった龍は、諫められた猫のように大人しくなった。


「片手だけで」


師匠は感嘆の声を漏らした。


「あの龍を制するとは」


彼女は、スカートの裾を軽く持ち上げてから膝を曲げて、師匠に向けて軽く会釈するような仕種を見せた。


カーテシー。


後で師匠に聞いた言葉だ。


それは、物語に登場するお姫様がよく見せる貴族の挨拶として有名だ。


この時彼女が見せた仕種は、必ずしも正式なたものではなかった。


なぜならその仕種は、身分の低い貴族が自分より高位の身分の者に対して、敬意を払うための作法だったからだ。


スカートの裾を指で摘まんで上げる所作は、正式には挨拶ではない。


本来は長丈の裾が床についた時に、ただ埃を払うためだけの所作に過ぎない。


特に王家の血筋にあるような者は、人前でけして膝を曲げてはならない。


厳格な身分制度が支配するこの国では、彼女の仕種はあり得ないことだった。


「シャテレイン!この私を…この館の主とお認め下さるのか!」


師匠が感極まった声でそう言った。


「シャテレインは、懐中時計の鎖という意味ではないのか、確か師匠は俺にそう教えてくれたはずだ…」


モートは、師匠の言葉を不思議に思った。


しかし婦人が師匠に見せた態度は、厳格な貴族社会のルールからも、彼女が外れたことを意味していた。


それはすなわち彼女の魂が、何らかの呪縛から解き放たれ、今は自由になったということでもある。


モートと師匠の魔払いは、意外なかたちで終結した。


彼女は自からの意思で堂々と、玄関の扉をその足でくぐり抜けた。


モートはその姿を見た時に、思わず脱帽ならぬ耳当てを取り、彼女を迎える従者のようにその場に立ちつくしていた。


彼女の姿は、透明なガラスの小瓶の中に吸い込まれるようにして消えた。


モートは呆気に取られ、その様子をただ見守るしかなかった。


自分から封印される魔物など、今まで見たことも、聞いたことがなかった。


「モート!危ないぞ!脇に下がれ!」


師匠の鋭い一喝に似た声が飛んだ。


モートをはっと我に返らせる。


それはまるで、巨大な機関車の風圧を浴びせられる衝撃の中で、目の前を通り過ぎる軍艦を見るような光景だった。


猛猛しい龍の頭と胴が、玄関の扉と石壁を破壊して目の前を通過した。


どのくらいの時間だっただろう。


モートには、その光景が永遠に続くかのように思えた。


その龍はモートになど見向きもせず、真っ直ぐに玄関を通り抜けた。


外に出るやいなや、それまで折り畳んでいた翼が空を覆い、周囲の樹木を凪ぎ払い、軈て大空の彼方へと消えた。


庭園に植えられた薔薇の花弁が綿毛のように一斉に空に舞い上がるのを見た。


暫くの間細波のようにざわめく庭園の風景を、モートは茫然と眺めていた。


まるで暴風の一夜が明けたかのように、館は静けさを取り戻した。


「モートよ、この庭園に咲いている薔薇の名を、お前は知っているかな?」


耳もとで随分と暢気な声がした。


師匠は、モートの頭の上にのった薔薇の花弁の一片を指で摘まんで見せた。


「師匠…生きてたんですか!?」


「この花の名は…確かプリンセス…プリンセス オブ ウェールズ呼ばれていたはず」


師匠はその一片を鼻先で満足気にそよがせながら言った。


「実によき香りよ…ところでお前は、この国の花の名前が何か知っているかな?」


「知りません」


モートは、花の名前に興味など持ったことはなかった。


この国の花の名前も知らない。


自分が生れた場所にも、国の花があることさえ知らなかった。


「花は食っても美味くありませんから」


「おまえは正直者だな」


めったに人に見せない、師匠の柔和な微笑みがその顔に浮かんでいた。





「この国は昔から、同じ旗の元に統治された国ではなかった。いくつかの国から成る連合国だ。私たちがイングランドと呼ぶ国の花は、お前もよく知る薔薇だ」

 

スコットランドはアザミ、ウェールズならば、湖水地方の詩人ワーズ ワースの詩で名高いダッフォデール、海を隔てた北アイルランドならコメツブメクサが、それぞれ国花とされている。


それぞれの国花には異なる意味がある。


当時の王家の紋章であったり…神の教義を表したものであったり…国の防衛の象徴として用いられたり…その背景は様々だ。


そんなことを師匠は教えてくれた。


「数ある薔薇の花のうち、この屋敷の庭園に植えられた、プリンセス オブ ウェーズは、英国王室の王女を意味する」


元々は、プリンス オブ ウェールズの呼名も英国の皇子ではなく、ウェールズの国王を言い表す言葉であった。  


それから時は流れ、現代では英国王室の皇子の妃となる女性であれば、その身分や血筋には一切関係なく、最初に与えられる称号とされている。


「彼女がこのマナーハウスの主となると決まった時に、相応しい花をと…誰かが庭園に植えさせたのであろうな」


師匠は、モートからシャテレインの入ったガラス瓶を受けとる。


そして静かに瓶に詮をした。



ウェールズのケルト系住民は、かつてローマ帝国の支配を受けた。


しかしアングロ サクソン民族に征服され、支配されたわけではなかった。


英国のアーサー王伝説は、アングロ サクソンに抵抗し続けた、ブリトン人の王の物語と言われている。


かつての中世ウェールズ地方は、ケルト系小部族国家が群立していた。


やがてグウィネズ王国、ポーイス王国、デヒューバース王国などの、地方王権国家が形成された。


「彼女は、その王家のひとつの血筋を受け継いだ御方だったのだ」


屋敷の貴婦人の名はグワイネス。


かつて存在した王家と同じ名だ。


師匠は、鎖が入った瓶を見つめながら、モートにそう教えてくれた。


かつてのウェールズの民は、常に侵略者に対しては頑強な抵抗を示した。


1066年にイングランドを征服したノルマン朝によるウェールズへの侵略、植民政策でさえも、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功には至らなかった。


13世紀にグウィネズ王ルウェリン アプ グリフィズは、ウェールズのほとんどの領域を支配下に収めることに成功した。


1258年にウェールズ諸侯の第一人者を意味する、ウェールズ大公(プリンス オブ ウェールズ)の称号を名乗った。


ここにウェールズ公国が成立した。


ただしそれも磐石な一枚岩とはならず、大公の死後すぐに分列した。


ウェールズ公国はほんの一時の儚い政治的統一にとどまった。


現在のイングランドのような、半恒久的統一王権が確立されることはなかった。


程無くウェールズは屈強なイングランド王家に追従することになる。


1276年以後のウェールズは、獅子心王と呼ばれたエドワード1世による4度の侵攻を受けながらも、常に激しく抵抗した。


1282年にウェールズ大公ルウェリン アプ グ リフィズがエドワード1世に敗れ、イングランドの支配下に置かれた。


エドワード1世は、長男エドワード2世にウェールズ大公の称号を与えた。


しかしウェールズ人は、決してイングランド人に同化されなかった。


逆にウェールズの民は民族意識を強め、この地に植民した異民族のほとんどがウェールズ人化されたという。


「しかし薔薇戦争の際には、ウェールズはその政争争奪の舞台となった。1485年のボズワースの戦いで勝利したリッチモンド伯が、ヘンリー7世として即位し、なんとウェールズ人のウェールズ大公の血統にも関わらず、イングランド王家に収まったのだ。テュダー朝の幕開けだ!」


ウェールズの歴史を語る師匠の口はすべらかでますます熱を帯びる。


「しかしあの悪名高きワイバーンツリーに最初に吊るされたオリバー クロムウェルによる独裁政治的が始まるとだ・・ウェールズにも王室の栄華にも陰りが・・ん?」


話の途中で師匠はモートを見た。


師匠の話がよほど退屈だったのか、それとも疲れはててしまったのだろうか。


モートはとても幸せそうな顔で、すやすやと寝息をたてて眠っていた。

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