第7話【Nightingale&Chatelaine Ⅳ】



「俺の武器はこれだけだ」


師匠の肖像が貼られた2つのフライパン。


モートは、それを両手で振り翳す。


「お…Oi!Oi!!Oi!Oi!!!!」


そして魔物に向かって叫びながら、怯むことなく突進した。


「俺の師匠が声を張り上げて、力の限りシャウトしてんだ!ここで、弟子の俺が叫ばなくてどうする!Oi!Oi!Oi!」


モートの叫び声は、師匠のそれとは違って、何ら魔法的効果はなかった。


しかし、気迫だけでも、師匠に負けたくはなかった。屋敷中に轟く師匠の叫び。


びりびりと、一切の音を遮断したモートの皮膚や髪にも伝わって来る。


なおいっそう、心が震い立つ。


この国は古来より、火山や地震の地層とは無縁だ。しかし今は、屋敷の内部全体が震えるように微かに鳴動している。


壁や柱のいたるところに貼られた札は、師匠の叫びを増幅させるだけではなく、それ自体が強力な結界となっている。


つまり、この強烈な叫びから逃れようとしても、身を隠す場所はおろか、外に出ることさえ叶わないのだ。まさに攻防一体の護符。


モートの手にしたフライパンの肖像も、強力なスクリームを発声した。


近づけるだけで、魔物ですら悲鳴を上げて逃走した。まさに阿鼻叫喚の地獄。


屋敷の周囲にも、師匠とモートが仕掛けた結界が無盡に張り巡され、内部で発生したノイズは一切表には漏れない。


外から見れば、古びたマナーハウスは、微睡むような静寂の中にあった。


先ほど追い回されたのとは真逆に、今度はモートが魔物を執拗にOiOiと追い回す。


何処に逃れても、札に描かれた師匠の肖像が待ち構えていて、耐え難い叫びを繰り返す。


魔物は怯え、幽霊は我に返り、自分が死んだ

ことを思い出すだろう。


「こんなことなら…いっそ死んだ方がましだ!」


その場にいたのが、魔物や幽霊ならずとも、そう思ったはずだ。


「 you were dead!」


「,you were dead!」


叫びの合間に、合の手のように、お札の中から師匠がシンガロングを繰り返す。


いつ果てるともしれない。少年と魔物の追いかけっこは続くかに見えた。


「さすがにこれは…きつい…」


体の強靭さが取得だと思っていた。モートの心臓と肺も、既に限界に来ていた。


幸運なことに、魔物は逃げ場所を元いたホールに求めたようだ。


追い縋るモートの目の前で、魔物の動きが突然ぴたりと静止した。


その目線の先には、正面玄関の扉があった。


今まで閉じられていたはずの扉は、外の世界に向けて開かれていた。


開け放たれた扉の先には午後の日溜り。和花な小鳥の囀りすら聞こえて来そうだ。


この絶叫地獄から逃れることが出来る、唯一の出口は、その扉だけだった。


魔物は振り返ることもなく、その扉に向かって、一直線に動き出す。


モートの役割りは、そこまで魔物を誘導し、対象が外に出たら直ぐ様扉を閉め、扉に結界の札を貼る。


外に出た魔物は、師匠が自ら処理する手筈になっていた。


それで、すべてが完了するはずだった。


「な…なんだよ、これは…」


残りの力を振り絞り、前に踏み出そうとしたモートの目前に、石柱のような大蛇が立ちはだかる。


婦人の体に巻きついていた蛇とはまるで違う。はるかに巨大な赤色の大蛇。


しかも一匹だけではなかった。


夥しい数の赤蛇が、蝋燭の焔のように揺めきながら屋敷を埋め尽くしてる。


そこにいる大蛇のすべてが、モートに向けて威嚇の音を鳴らし、敵意に満ちた金色の瞳を向けていた。


睨まれただけで、無意識のうちに足がすくむ。体の震えが止まらない。


「たとえ何が起きても、すべてが終わるまでは、けして足を止めずに前へ進め」


そう、師匠に耳打ちされていた。


モートは、入り口に向かって足を踏み出した。すぐに申し合わせたかのように、大蛇は鎌首をもたげ、モートの頭や頚筋に狙いを定め、襲いかかって来た。


モートは機敏な動きでそれをかわした。


一匹、二匹と…きりがなかった。


床をしっかり踏み込んだはずの、モートの右足が奇妙なかたちに床でぐねる。


まるで腓返りでも起こしたように。


モートの足も既に限界だった。


「しまっ…!」


大顎を開けた大蛇の飛来を、モートは紙一重でかわした。


しかし、目の前に立ちはだかる一際大きな蛇は、勝ち誇ったかのように、悠然とモートの耳当てをくわえていた。


「しまった!」


それを取られては…モートは、体中から血の気が引いていく気がした。


「モート!」


その時天井の上から師匠が降って来た。


師匠は、モートと大蛇の様子を見るや否や、躊躇うことなく、階段の上からその身を高く踊らせたのだ。


師匠は空中で、蛇の口から耳当てを掠めとり、床に着地した。


「気をつけよ」


ふわりと耳当てをモートの頭に被せると、師匠は微笑んだ。


「師匠、すいませ…」


言いかけた唇を人さし指が制した。


今は静かに…という意味らしい。


「一時の油断も命取りになる…そう言ったはずだ!」


師匠の言葉にモートは、はっとして、慌てて前を向く。


「師匠!叫びを!叫びを止めては!」


おそらくはこの怪異の元凶である、あの貴婦人が、フロアの中央で歩みを止め、此方をじっと睨んでいる。


まるでダンスの相手でも探しているように、モートには見えた。


もう少しだった!


もう少しで上手く行くはずだったのに!


俺は師匠の叫びを止めさせてしまった!


モートは心の中で、己の油断と未熟さを激しく悔いた。


「心配するでない」


師匠は、そんな弟子の思いを察してか、彼の頭に軽く右手を添えた。


モートは涙が出そうになった。


「ミュートしただけだよ。モート」


師匠が指を鳴らす。すると沈黙していた札の中の師匠が、再び叫び始める。


「リピートだ!」


魔物は再び耳を押え、出口へと向かう。


周囲の大蛇は怒りに身を震わせ、モートと師匠に襲いかかる。


「モート、走るぞ!」


ばん!と背中を叩いて、師匠がモートの目の前に飛び出す。


モートも師匠の背中を追った。


師匠は、手にしたステッキを雑草を刈る鎌のように扱いながら、大蛇の首を次々に凪ぎ払った。


みるみるうちに蛇は薙ぎ倒され、そこに道が開かれていく。


あんなに禍禍しく凶暴だった大蛇たちが、今は師匠に恐れをなして、次々と道を開けるのをモートは見た。


「よもやこれほどとは…すまんな、モートお前にはまだ…」


「やります!やり返して見せます!」


師匠の言葉は、モートには遮断されて届いてはいない。しかしモートは、走る師匠の前に並ぶと、力強くそう言放った。


「これほどなのか」


床を食む巨大な鍵爪が現れた。


ゆっくり鎌首を持ち上げる頭部。


額に鳥の翼の仮面に似た、頭に牡鹿を思わせる、猛々しい角。


それはもはや蛇ではなかった。


「ナナナナナ…なんなんっすか!?師匠!この、ばかでかい蛇の頭は!!!」


師匠はモートの前で指を翳して見せた。


「4」


「4?」


「Ⅳ プロング クラウン…あれぞ正しく、王家の守護龍。ワイバーンだ!」


勿論師匠の声はモートには聞こえない。


「頭を低く、低く下げろ!モート」


やおら、師匠の右手がモートの頭を掴んで、強引に下を向かせる。


師匠は足を止めて両足で踏ん張ると、そのままの姿勢で、渾身のスクリームを目の前の竜に向けて放った。


叫びは目には見えない。


音も今は聞こえない…筈だった。


師匠の叫び声は、荒れ狂う暴風のようにモートの体の真横を通り過ぎた。


一瞬にして禍々しき龍の首は砕け散り、四散して大気の中へと消えた。


再び2人の目の前に道が開けた。


「師匠!」


驚嘆し、そして称賛、もはや尊敬するしかない、師匠の御業だった。


「さすが神獣…一筋縄では行かぬ」


師匠の顔が一向に晴れぬのを見て、モートは不安に苛まれた。


「信仰の後楯を失い、弱体化していると思ったが。あちらの御婦人についていたのは、よもや脱殻だったか…計られた!」


なにか…師匠が、顔に滝汗をかいておられる。汗をふいて差し上げたくなる。


「これだけの大仕事を為し遂げられて…師匠もさぞかし、お疲れなのだ」


モートは思った。


「師匠、後は俺が!おまかせ下さい」


「くっ…!この私にあえて魔法を使わせて、力を吸収して、示現化するとは!」


この耳当てのせいで、師匠が何を言ってるのか皆目分からない。


しかし、とても不吉な予感がした。


モートはそっと、師匠の目線の先を目で追った。背後にある筈の、二階と階段が龍の体躯で隠れて見えない。


普通の御屋敷よりも高い天井に、龍の首は今にも届きそうに見えた。


太古の森にかつていた。首長竜が頭を天に向けて、呼吸するかのようなその姿。


恐れる心さえ忘れて、思わず見惚れてしまうほどの美しさだった。


「逃げよ!」


師匠の口がそう動いたのは、モートにもわかった。


「逃げよう!」


そう言ったのかもしれない。


いや…俺の師匠に限って、そんな弱気な言葉を吐くものか!


「龍の炎が来るぞお!」


その時見た師匠の顔は、これ以上はないくらい必死の形相であった。


それを見たモートは、一目散にその場から駆け出した。


前方を見ると、あの御婦人も入り口に向かって駆け出している。


モートが駆ける。


師匠も負けじとその横に並んだ。


御婦人に追いつき三人横並びになった。


「まだ若い者には負けん!」


「逃げ足で師匠に負けるわけには!」


隣に並んだ御婦人は、スカートを大胆に両手でたくし上げ走る。


「あれ…この人足がちゃんとある」


「なんと!龍が体から離れ…」


師匠の姿が視界から消えた。


「げこぶ」


カエルを踏みつけたような声がした。


足が縺れた師匠が床に倒れていた。


「師匠!」


「私に構うなモート!」


師匠はそう言って、モートに封印のための小瓶を投げてよこした。


「パスだ!」


モートはそれを師匠から受け取ると、再び貴婦人の背中を追って走り出す。


「御婦人を壁の花にしてはならん!」


どこまでもフェミニストな師匠だった。


手にしていたフライパンは、いつしか投げ出していた。モートはひた走る。


師匠はそれを見届け立ち上がる。


服の埃を手で叩いた。


そして龍のいる方角に体を向けて言った。


「お前の相手はこの私だ」


師匠は大きく息を吸い込む。


そして、急に拳で口元をおさえると、激しく咳き込んだ。


「しまった…さっきの叫びで…喉が…声が…枯れてしまった…げほ!げほ!げほ!」


師匠は老人のように咳き込んだ。


しかし目の前の龍は口から炎の雫を垂らし、とても待ってはくれない面構えをしていた。




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