第5話【Nightingale&Chatelaine Ⅱ 】



大人の御婦人の体は驚くほどに柔らかく、眩むほどによい香りがするものだ。


大蛇はぬらぬらとして気持ちが悪い。


蛇は身の丈より高く跳躍する。


そのことをモートは身を持って知った。


モートの両足を、しなやかな両腕で抱えた貴婦人は、そのまま身をくねらせながら這い上がって来た。


揺り篭の我が子を慈しむような頬笑み。


彼女の指先が頬を撫でた。


息を飲む間もなく、彼女は天井に向かって跳躍した。


ラウンドガウンの裾から競りだした、ぬらめく蛇の肌触り。


ぞろりと大蛇の尾が、最後にモートの顔をひと舐めした。


冷たい舌が顔面を這う感触が残る。


忽ちに背筋に悪寒の電撃が走る。


「ひいいいい!?ししし師匠!!!!」


モートが叫ぶよりも早く、師匠の右手が婦人の体を掠めていた。


しかしそれよりも早く、彼女の体は天井のシャンデリアに絡みついていた。


すぐそのその姿は照明の裏に消えた。


「ひー師匠ではない!せめて、スクリーム師匠と呼びなさい!」


モートは、スタチューのように固まったままだった。


「まったく!目に見えぬものは恐れませぬとは…よくぞ言ったものだ」


師匠は呆れた口調で天井を見た。


風もないのに、ラインストーンで贅沢に飾られたシャンデリアが揺れている。


「取り逃がしたか」


師匠は、握りしめていた右手の拳を、モートの目の前で開いて見せた。


開いた掌の上に金の鎖が乗っているのをモートは見た。先ほどまで師匠の手には、そんな鎖はなかった。


「師匠その鎖は」


呪縛から解けたモートが訊ねた。


以前似た物が、師匠の部屋の壁に掛かっているのを見たことがある。


それは、奇妙な文字が中央に書かれた、円と三角の幾何模様が並べられた、タペストリーだった。


あの時の図柄に似ていなくもない。


モートは以前、師匠に教えられたその名前を口にした。


「セフィロト?」


師匠はモートの言葉に首を振る。


「これはシャテレインだ」


「シャテレイン?」


モートには、まったく聞覚えのない単語だった。


師匠が鎖の先を摘まんで、目の前に挿頭して見せた。それはただの鎖ではなく、緻密に編み込まれた装飾品だった。


以前見たセフィロトは樹木に似ていた。


これは明らかに、それとは違う。


貴婦人の姿を模して作られたものだ。


「師匠これは…何に使うものですか?」


鎖の中央には、紫を基調にした見事な陶器のブローチ。色合いの紫は夜…それとも持主の好みの色だろうか。


中央に描かれたのは、仲睦まじく羽ばたく2羽の鳥。空に向かって囀る姿にも見えた。


周囲には、緑の葉と樹木の梢が縁模様として描かれている。


鎖の一番下には、クリスタルの小瓶。


香水用の小瓶だろうか。


小瓶の中身は空っぽだった。


モートには誰が、何の目的で使用する物なのか、まったく分からなかった。


「子供のお前が知らぬのも無理はない」


シャテレインとは元々はフランス語で、この国の言葉ではなかった。


「シャテレインは…中世のフランスの貴族や、上流階級の御婦人の間で流行した。謂わば懐中時計につける鎖のことだ」


魔術や魔法的な意味あいはまったくない代物だと、師匠はモートに説明した。


時計につける鎖。


確かにそう言われてみれば、懐中時計の鎖に丁度いい細さだ。


施された細工があまりに緻密で、とてもそうは見えなかった。


機能的という言葉とは真逆の美術品。


モートにはそう思えた。


「左様、この鎖のついた懐中時計は、懐に忍ばせて携帯する物ではなく、むしろ人に見せる目的で作られた物だ」


18世紀フランス貴族や、貴婦人達の間で流行したシャテレイン。


それは貴婦人たちが時計を携帯する時の大切な小道具であった。


ウエスト部分から豪華に装飾された鎖、もしくは紐を垂らし、その先端に時計を付けることが当時のステイタスであった。


王妃マリーアントワネットが、プチ トリアノンの外で子供たちと過ごす姿が描かれた時も、シャテレインを身に着けた肖像画として残されている。


その習慣は瞬く間に海を渡り、英国の王族や貴族社会にも定着した。


懐中時計と鎖はドレスの腰に着けて仕舞わずに歩くのが貴婦人の嗜みとされた。


細工や装飾は贅を凝され、優美であるほど高い身分の証であり、上流階級の女性の憧れの的とされ、注目を集めた。


「しかし師匠…この鎖には、肝心の時計がついていません」


モートの言葉に師匠は頷いた。


「おそらくは、あの御婦人が亡くなった時に失われた。遺品として残ったものを、一族の誰かが何処かに持ち去ったのであろう」


時計は失われ、鎖だけが残った。


あの貴婦人が未だにそれを持っていた。


そこに何か深い意味でもあるのか。


モートは考えたが、答えは出なかった。


「おそらく…このシャテレインの先端にあった懐中時計はブレゲであろう」


「プレゲ?」


「このシャテレインの見事な細工!それに見合う時計は…まず他にはあるまい」


アブラアン ルイ ブレゲは、当時スイスで世界最高と謳われた、天才時計職人だった。


「我が英国にも、今も昔も名だたる名工は多く存在する。しかしプレゲの作る時計は…その中でも取り分け別格なのだ」


「師匠は、この鎖を見ただけで…そこにあった時計まで分かるんですね!」


モートは、師匠の見識の深さを目の当たりにして、改めて心から胸を打たれた。


「時は失われた」


師匠は自分の懐から自分の懐中時計を出してシャレテインに重ねた。


「この屋敷の時間も止まったままだ」


「もしかして…師匠の時計もプレゲ?」


「私の時計はプルダだ」


師匠はそう言って胸を張り、時計の中央に書かれた文字を指差した。


부르다とある。


どうやらプルダと読むらしい。


「韓国の職人が作ったプルダだ」


「プルダ」


それ…ぱちもんじゃないか。


モートは思った。


ロンドンの骨董市で手に入れたという、師匠の時計。文字盤のハングル文字が気にいって買ったらしい。


「プルダとはハングルで、叫ぶ !歌う !

そんな意味らしいぞ。なんとも、実に私らしい名前ではないか!」


激辛で…叫ぶ。


モートは思った。


「おなかいっぱい!幸せ!という意味もあるらしいぞ!」


やっぱり。こんな高価な御屋敷を、ぽんと買ってしまう財力。


骨董品や美術品にも造詣が深い。


師匠こそが真の貴族。


博学広才にして美意識の固まり…そう、危うく思いそうになった。


しかし、大枚叩いたにも関わらず、ここはとんだお化け屋敷…師匠はだめな人だ。


「あの…師匠…このブローチの鳥は、何か意味があるのですか?」


「ふむ!良いところに気づいたな。おそらくは…あの御婦人の好きな鳥だろうな」


「綺麗な鳥ですね」


なんの鳥かまでは、モートには分からなかった。


「つまり…この品は既製品ではなく、完全無欠のオーダメイドだ。世界に一つしかない品ということになるな」


「世界に1つ…ではこの小瓶は…」


そう言いかけた時、師匠は舌打ちして自分の懐中時計を手の中で乱暴に振った。


「また針が止まった!このっ!このっ!この安物めが!」


弟子のじっと凝視する視線に、師匠はしばらくしてから気がついたようだ。


「まあよかろう…私のような魔法使いには、人と同じ時間の流れなど無意味なものだ」


何か…かっこいい言葉で誤魔化そうとしている。そうモートは思った。


ひとつ咳払いした後で、師匠は言った。


「お前には、この御婦人の持ち物から、何かが見えるかな?」


モートの目の前に提げられた鎖は、無言のままで彼に何も語らない。


失われた時間…鳥のブローチ、香水の小瓶…それらを繋いでいるのは金の鎖。


「謎はすべて解けたよ!ダーリング!」


師匠が名探偵のような事を言い始めた。


「本当にですか?」


モートは疑わし気な瞳で師匠を見た。

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