10-飛び込み

 小松奈々美は一度だけ、電車への飛び込み自殺を目撃したことがある、と思っている。

 はっきりと断言できないのは、それがまだ幼い、幼稚園児だったころの記憶だからである。いつもと違う窮屈な黒い服を着せられて、樟脳の臭いが気になっていたから、たぶん、山梨の祖父の葬儀に行ったときの記憶だろう。また実際、目撃したそれが本当に世間一般で言う自殺だったのかも、実はよくわからないのだった。


「こまつなー。行くぞー」

 友人に声をかけられ、ホームのベンチからあわてて腰を上げる。あの時、ちょうどこの駅で、あれを見たのだ。奈々美は15歳になっていて、今年の春から、電車で高校に通いはじめていた。

「ほらっ、お待ちかねのペプシ。ボクの血液だと思って、大事に飲めよ~?」

 その声とともに、青い缶がひとつ飛んでくる。中学時代から仲のいい友人はボーイッシュな少女で、若い娘にありがちなことに、最近突然自分のことをボク、と呼びはじめるようになった。部活で勝っておごってもらったペプシはよく冷えていて、表面はびっしりと細かく結露している。鞄に入れるのがためらわれて、手に持ったまま奈々美はえへへ、と曖昧に答えた。


 あの日、同じベンチで見た男の横顔。奈々美の隣に座っていた若い男は、大きくため息をつくと、小さな声でじゃ、やるか、とつぶやいた。立ち上がって一度下を向き、凝視する奈々美に気づいた男は、その姿勢のままあー、と声を漏らし、


 奈々美に、微笑んだのだ。


 これから死のうとする人間が、子どもを見て微笑んだりするものだろうか。そこから助走をつけて、男はあっという間にホームから線路内へ消えた。電車が激しく警笛を鳴らして、あとは大混乱になったことしか覚えていない。母親に無理やり抱きかかえられて、脇腹がやけに痛かった。

 あれは、本当に自殺だったんだろうか。微笑む余裕があるくらいなら、頑張って生きればよかったのに、と奈々美は思う。私だって「小松菜並み」なんて呼ばれちゃう名前で頑張ってるんだし。

 はあ、早く結婚して苗字変えたい。そんなことを思っている奈々美の耳に、突然怒声が飛び込んできた。

「逃げんな、待てコラぁッ!」

 見れば、チンピラ風の男を、若い男が追いかけている。威勢のいい格好をして、追われる男は異常なくらい怯えていた。エスカレーターを駆け上ろうとして、つまづいて派手に転んだ男を、追っていた若い男がつかみあげた。つかまれた男がぎゃあっと叫ぶ。

「約束が違うよなぁおい? 保険金はどこ行った。ナチ式の本場の拷問、味わってみるか? ぁあッ!?」

 やだなぁ、やくざ屋さんの喧嘩かなぁ。あんまり見ないようにしなくちゃ。そう思ってもついつい見てしまう奈々美の目に、若い男の横顔が映った。

 瞬間、奈々美の全身は凍りつき、ペプシのように汗を噴出した。

 間違いない。あの日の、あの顔だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る