さよならの証書

狂フラフープ

さよならの証書

 1.

 夏の日暮れの濃い影が、古びた校舎の玄関を斜めに横切っていた。

 花壇の匂いと砂がちな渡り廊下を過ぎ越して、陰影に足を踏み入れ、俺は遠いひぐらしの声を掻き消すように扉を揺する。しばらくして、鍵の空いた感触が手に伝わってきた。勝手知ったる木造校舎の扉など、こんなものだ。

 背を伸ばして息をつき、ネクタイに手を掛ける。

 背後に、人の気配を感じた。

「いっけないんだあ、先生のくせに」

 振り返ると、学生服姿の少女が置き去りにした俺の荷物の傍に立っている。小柄な身体にサイズの合わない冬服を着込んで、真夏だというのに憎たらしいほど涼しい顔をしていた。

 告げ口はするなよと釘を刺し、

「暑くないのか、それ」

 と聞いてみると、少女――七緒は平気そうな顔で笑う。目を細め、歯を見せて笑う正直な笑い顔だった。

「卒業式って言ったら冬服でしょ?」

 それだけ言うと、表情がからりと入れ替わる。今度は食い意地の張ったハムスターみたいに頬が膨らんだ。

「それより、遅すぎ」

 腕時計を忘れた。校舎の外付け時計を見上げるが、文字盤は西日で真っ白に光っている。代わりに、村内放送のスピーカーがちょうどあちらこちらから『家路』を奏で始めていた。

「すまん。先に墓参り済ませてから来たんだ」

 七緒が俺の荷物に目を落とし、拾い上げながら口を尖らせた。

「それで菊の花? わたし貰うならカーネーションとかのほうが良かったな、おばあちゃんみたい」

「こんなド田舎でそんな洒落たのが買えるもんか、諦めろ」

 差し出された荷物から、花束だけを折り返し押し付ける。

「ひっどい。花束贈呈ってもうちょっとロマンチックにやるもんじゃない?」

 こっちだってできるものならそうしたかった。あらかじめ頼んでいたならば話は違ったかもしれないが、思い至らなかったものは仕方がない。

「あー聞こえない聞こえない。とっとと入るぞ」

 先を行く二十八歳の俺。

 少しくたびれ始めたシャツには、下手糞なアイロンを自分でかけた。

 後に続く十四歳の七緒。

 入学した時大きめだった制服は、何年経っても袖を折り返している。

 玄関で靴を脱ぎ捨て、靴下で廊下をきしきしと鳴らした。

「ああ、そういえばカメラも忘れたな」

「どうせタイマーついてないアレでしょ? わたしだけ撮ったって意味ないって」

 部屋をひとつ、ふたつ、みっつ通り過ぎて、西日の差す教室にたどり着く。

 いつもの癖で遠い教卓側のドアから教室へ入ろうとする俺を、先に入った七緒が不思議そうな目で手招いた。

「うわあ、懐かしいねえ」

 机ひとつない教室の真ん中で、七緒はきょろきょろ、くるくると辺りを見回して言う。

 俺にとってはほんの一月ほど前に最後の授業をした教室だ。しばらくぶりとは思えても、懐かしいとまでは感じなかった。

 ふと思い立って、黒板に大きく板書する。卒業おめでとう。やりすぎかと思うほどでかでかと書いても、黒板はまるで余白だらけだった。たったふたりでは、寄せ書きもできやしない。

 苦笑して振り返ると、いつのまにか七緒がいない。廊下の方から音がして、何事かと思えば七緒は机と椅子を二組、がたがたと引きずってきた。

 そのまま教室の中ほど、ふたつの机を横に並べる。

 意図を察せずに棒立ちで居ると、七緒がまた頬を膨らませた。

 窓際側の席に腰を下ろし、ん、と隣の席を叩く。

「そんなとこ立ってないで、こっちに来てよ」

 促されて俺がのろのろと席に着いたのを見届けてから、七緒は満足げに前を向いた。


 2.

 淡々と、時間が過ぎる。

 蝉の声に紛れた時計の秒針が聞き取れた。

「変わんないね」

 隣からの言葉に生返事をしながら、俺は七緒との感覚の違いに少し戸惑った。

 たとえ同じ教室でも、机を見渡すのと、黒板を見上げるのと、まるで見え方が違うのだということを、今更思い出す。昔のことが頭に蘇り始めて、俺は少し泣きそうになった。

「――ねえ」

 それほど急でもなかったのに、呼びかけにどきりとする。涙は流さず済ましたが、多分目は少し潤んでいる。七緒の視線は横に並んだまま黒板を見ていた。恥ずかしいところを見せずに済むのが有り難かった。

「この学校、どうなるの?」

 一度大きく息を入れ替えて、ゆっくり余裕を持って答えた。

「取り壊さずに、使い道を考えてくれるってさ」

 ほんの少しの考える間、

「これからどうするの?」

「街の方に、教師の足りない学校があるそうだ。校長が紹介してくれた」

 今度は語尾に被せるくらいに、

「だったらさっさと行っちゃえば良いのに」

 責めるような響きを含ませ七緒はこちらを振り向いて、俺はその様子を横目で盗み見る。

「行くさ。心残りが片付いたら」

 音がした。

 隣を見ると、七緒が椅子を押し退けて立つ音だった。

「それじゃあはやくやっちゃおうよ」

 引き止める間もなく、七緒は教室の外へ駆け出した。

 見張るように俺を視界に残して、角ごとに立ち止まって、角の向こうから身体を上半分覗かせて、何かを言いたげに口を結んでいる。

 わかっている。

 俺がずっと続けていたいと思うこの時は、もう終わってしまったあの時だ。

 なにも言わずに後に続く。七緒がほとんど後ずさりに進むので、後にというのもおかしくあるけれど。

 白線の名残を残した校庭が、遠い山際まで広がっていた。ろくな遊具もないくせに、広さだけは都会の学校をふたつ合わせても敵わない。俺の通っていた十数年前から、この広い広い校庭はたった数人の子供達だけのものだった。

 眩しい日差しの下では夢と希望で塗り固められたように見えたこの場所も、暮れかけた今はひどく寂寥とした思いを抱かせる。

 錆びに錆びた朝礼台を避けて、グラウンドの中央まで七緒は俺を導いた。

 校舎が遠い。一階建ての学校など、距離を置いてしまえば小さいものだ。

 校庭にふたり、向かい合って見つめ合う。言葉にしなくても、お互いやるべきことはわかっていた。

 これから、卒業式を始める。


 3.

 いろいろと形式を踏まえようと考えていたのだけれど、いざとなると気恥ずかしい。

 俺は段取りは全部飛ばして、荷物から用意しておいたものを取り出した。手作りの卒業証書。昨日の夜に、作っておいたものだ。

 それを見て、七緒の顔がぴくりと上がる。今か今かと満面をうずうずさせて、見るからに視線で俺を急かした。

 今すぐ始めたい気持ちを押さえ込んで、大きく深呼吸する。

 吸って、吐いて、胸いっぱいに空気をまた吸い込んで、気負った声にならないよう、背筋を自然に正す。

「卒業生代表、皆月七緒」

「はいっ!」

 七緒が跳ねるように全身で手を上げて、ゆっくりと近づいてくる。証書を両手で捧げ持つ。後は文面を読み上げて渡すだけ。

 なのだが、結局、これが一番恥ずかしいことに気がついてしまった。

 俺は自分で考えた文面に目を落としたまま、ぼそりと漏らす。

「……なあ。これ、読まなきゃ駄目か」

 目を見開いた七緒が口を真横に長くして、ばか、とささやいた。

 やっぱり駄目かと消沈する俺の視界から、証書が唐突に消える。掠め取られた証書は七緒の手の内にあった。

「あっ、おい待て――」

 取り戻そうと反射的に伸ばした俺の手をかわし、七緒は後ろに飛んで距離を取る。背を向けてぱたぱたと走り出し、十歩ほど離れて振り返ると唇の端を持ち上げた。

「待たないっ、もう貰っちゃったもん。にひ、これで卒業式終わりーっ!」

 少しだけ、嘘の混じった笑い方だった。

 七緒の指が卒業証書を筒にする。あまり紙質の良くない紙切れは素直にくるくると丸まった。

 そんなちゃちな代物を、七緒は大事そうに両手で胸元に抱く。

 ゆっくりと俺が歩み寄っても、逃げもせず顔を伏せたまま動かない。ひょっとすると泣いているのかもしれなかった。ああ見えて結構、泣き虫な奴なのだから。

 けれどもしかし、顔を上げた七緒は泣いてなどいなかった。

 泣いていると思ったのは、俺が泣いていて欲しかったからだろうか。

 もう自分でも分かっている。

 未練は俺のほうなのだ。

 世話を焼いてるように見えて、本当に付き合ってもらっているのは俺のほうだ。過去を置き去りにするのが嫌で、前に進むのが嫌で、それが七緒には心配なのだ。彼女は俺さえいなければ、もういつだって先へ進めた。

「卒業式は終わり。だからわたしの未練も終わり。もう行っても良いよ」

 七緒が笑った。

 なにも言うまいと口を閉じて、浮かべた笑顔で意思を伝えていた。

 嘘のつけない七緒は、嘘ばかりついてきた俺よりも、きっと嘘を上手くつき通すだろう。

 ゆっくりと時間をかけて、俺は頷いた。


 4.

「ね、あれ!」

 それから七緒が、はしゃぐように何かを指差した。

 俺はその指の先を追って振り返るが、何もない。一体何を指差したのか尋ねようとして、子供の頃にも同じ手口で何度も騙されたのを思い出した。

 振り返るよりも早く、背中に、感じるはずのない感触を感じた。

 戸惑いつつも、それが抱きつかれた感触なのだと理解する。背伸びした気配が後ろから首に腕を回して、何かが俺の視界を目隠した。

「あのさ」

 目を塞いだのは肌触りと締め付けから何かの布だとわかる。七緒が頭の後ろでその布を結ぶのもわかった。

「これで最後だから。ひとつだけわがまま言っても良い?」

 結び終えた指が、俺の肩に置かれた。恐る恐る、その指に触れる。温かかった。温かくて、柔らかくて、懐かしくて涙が出た。

「ああ、何でも良いよ」

「……じゃあさ。やっぱり読んでよ、卒業証書」

 目隠しされたって、お安い御用だった。もっとずっと無茶苦茶な注文をしてくれたって良いのに、自分で考えた文章は忘れようも間違いようもない。

「皆月七緒殿」

 声が震える。触れていた七緒の指が絡むように俺の指を取った。

「あなたは、たとえ中学校の正規の課程を修了しなくとも、この学校で、かけがえのない仲間と共に、大切な時間を過ごしたことを、ここに証します」

 これを読み終えれば、それが最後なのだという実感がどうしてか染みているもう少し長い文章にすればよかったと、情けない後悔が湧いてくるけれど、もう残された時間はほとんどない。

「――八月十五日、同級生代表、高宮浩輔」

 背後で七緒が、緩く抱きつく両腕にもう少しだけ力を込め、顔をシャツに埋めて擦り付けた。細い細い髪の先が、首筋をくすぐるように撫でる。首の後ろで、正直に笑うときの声が漏れた。

「ありがとね、浩輔」

 耳元のささやきと引き換えるように、背中の感触が、重さが、薄れて消えた。

 目隠しがするりとほどけて落ちる。

 広がった視界に、七緒はもういない。

 ただ、ひとりには広すぎる校庭が寂しげに佇んでいる。

 手の中に残ったスカーフと引き換えに、二番目のボタンが無くなっていた。

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