五円玉

瀬戸真朝@文フリ東京コ-35

第1話

「合計、千五円でございます」


 あっ。思わずレジの前で息が漏れた。

 千円で足りると思っていたのに、母から頼まれた夕飯の材料以外の物をカゴに入れ過ぎて五円オーバーしていた。

 小銭が入ってないことは財布の重さで分かっていて、慌てて財布のお札入れを確認するが、やはり千円札一枚しか入っていない。

 小銭はポケットに入れていることが多かったが、そのポケットに手を入れても一枚も無かった。諦め半分で小銭入れのチャックを開けたが、思っていた通り小銭は一枚も入っていない。

 どうしよう。思わず焦った。だが、小銭を入れるポケットは二層構造になっていて、普段は使っていない方も見ると五円玉が一枚あった。

 ここで出せば丁度ぴったりで買い物出来る。だけど。

 財布を見つめながらお金をなかなか出そうとしない私を、レジのおばさんは苛立っていそうな目で見ていた。

 

 帰り道、野菜が入っていて少し重い買い物袋を両手にぶらさげながら家に向かって歩いた。

 三月下旬なのもあって、夜でも外は暖かい風が吹いている。その風が心地よく、昼間だけでなく夜の散歩にも最適な季節だと感じた。

 結局、豆腐を一丁戻すことで千円札一枚でも足りた。つまり私は五円玉を使わなかったのだ。

 財布の中には今でもあの五円玉が入っている。一年以上の間ずっと、ただの五円玉であるはずのそれを私は持ち続けていた。


*   *   *



 春の日差しが暖かい日曜日だった。その過ごしやすい気候だけを考えれば、季節の中で春が一番好きだった。

 高校ではずっと写真部にいたが、写真を現像してみると一年を通して春に撮ったものが一番多かった。

 けれど、今では春という季節が一番嫌いだった。

 あれから二度目の春が来たが、もう一年の間ずっと写真は一枚も撮れずにいた。

 この春休みが終われば大学生活の始まりだった。忙しくなる分、春休みの間は自室でゆっくりと過ごしていた。けれども今日は、近くの公園で咲く桜に惹かれて珍しく散歩していた。

 温かい光の中で桜の下を歩いていると春独特の匂いが風に乗って届いた。その匂いに気付いて立ち止まると、こんな春の景色を歌った曲のフレーズが思い浮かんだ。


『桜の匂いが好き 太陽が近付いて

会いたい人に いつだって会いに行く』


 それは好きなアーティストの曲だったが、一度しか聴いたことがなかった。

 その曲が収録されているアルバムをもっと聴いてみたいと思うと、図書館の存在がふと頭に浮かんだ。隣の市の図書館なら、うちの市と違ってCDの種類が多くある。

 一度思い付くと、行動は早かった。桜並木を抜け、私鉄の最寄駅に行くとポケットの小銭で切符を買った。

 そして丁度止まっていた肌色の電車に乗ると、しばらくしてゆっくりと電車が動き出した。

 車内を見回すと、昼下がりなのもあって閑散としていた。家族連れもいる中、真向かいに同年代くらいの青年が座っていた。

 爽やか、という形容詞が似合いそうな彼は本を読んでいた。顔はよく見えなかったが、どこかで見たことがあるような気がした。

 ふと彼が顔を上げて私の方を見たが、誰なのか思い出せずにやっぱり人違いだと思った。

 やがて友達からのメールの振動音に気付いて返信を考えているうち、電車を降りる頃には彼のことなど気にしなくなった。

 電車の速度が遅くなったことに気付き、顔を上げるといつの間にか図書館のある駅に着いていた。

 慌てて上着のポケットに携帯を入れて降りる。各駅停車しか止まらない小さな駅で、すぐに発車ベルが鳴り響いた。その時だった。

「ちょっと待って!」

 後ろから声がして振り向いた。走って電車から降りてきた男性の顔を見て、前に座っていた人だと気付いた。

 声を張り上げそうな印象は無かったが、少し大きな声で私に向かって話し掛けてきた。


「切符、落としたよ!」


 立ち止まると、駆けてきた彼は息を切らしながら私に切符を渡した。彼の後ろで扉が閉まり、電車が発車した音が響く。

 私はこの状況に少し戸惑いながらも、差し出された切符を受け取った。どうやら携帯をポケットに入れた時、急いでいて落としたことに気付かなかったみたいだった。


「ありがとうございます。でも、電車……」


 私がそう言った時には、既に電車の姿はなかった。


「ああ、いいよ。次のに乗るから。時間はあるし」


 彼は何事も無さそうに笑ったが、私の心配は止まらなかった。


「けれど、ここ各停しか止まらなくて。多分、あと二十分は電車来ないと思います」


 たまにこの駅で降りる私は、この駅の不便さを分かっていた。特に、元々乗り降りが少ない昼下がりだと、特急ばかりで各駅停車は本数が全然なかった。

 実際、二人で時刻表を見に行くと、次の電車は三十分後だった。


「本当だ。普段この駅で降りないから。次の電車までこんなに間隔があるんだね」


 彼はそう言ったが、落胆した様子は出さなかった。それでも私は申し訳なく感じた。

「ごめんなさい、どうしよう……」


 私が焦っていると、少しして彼は何か思い付いたような顔をした。


「じゃあ、次の電車が来るまで何か面白い話をして」


 その言葉につい、「え?」と聞き返した。


「俺、別に急いでないから。君さえ良ければ、時間潰しの相手してよ」

「でも私、面白い話なんてない」


 悪いのは自分だったし急いでもいなかったが、会ったばかりの他人に話す話など持っていなくて慌てた。けれども、そんな私に「何でもいいから」と彼は言った。

 とりあえず彼に勧められてベンチに座り、何を話すか考えた。だが、趣味のような自分の好きなことを他人に一方的に話すのは忍びなかった。

 結局、誰にも言ったことがなかったあの五円玉の話をしたのは、先日のスーパーの件が心の中で引っ掛かっていたからかもしれない。


*   *   *



 今から一年前、私は高校二年生から三年生に上がろうとしていた。三年はクラス替えもなく、受験生になることは憂鬱だったものの、特に大きな変化もなく四月を迎えると思っていた。

 ──小林先生の転任が発表されるまでは。

 小林先生は私の所属する写真部の顧問で、二年生になるとクラスの担任にもなった。現代文の担当も小林先生で、現代文の成績だけは私は周囲から褒められていた。

 毎年、写真部は文化祭で各個人が撮影した写真を展示していた。

 元々部内は自由な雰囲気だったのもあり、展示する写真は自分で選べた。

 写真自体は中学の頃から趣味で撮っていたが、どの写真を展示したらいいのかなんて分からなかった。様々な写真を前に迷っていると、後ろから声をかけられた。


「この桜、いいじゃないか。本田らしさが出てるよ」


 振り向くと、そこにいたのは小林先生だった。そう言われて、入学してすぐに撮った写真を手に取る。この写真のどこに、私らしさが現れているのか分からなかった。

 けれども眺めているうちに、その写真に写る桜を何故だか愛おしく思った。


「これ、展示します」


 私がそう言うと先生は満足そうに笑い、他にもいくつかの写真を選んでくれた。

 展示は友達にも好評で、「葵(あおい)ってこんなにきれいな写真を撮るんだね。びっくりした」と言われた時は、普段目立つことがない私にとって嬉しかった。


 それから先生の存在は、私にとってかけがえのないものになった。何気なく撮った写真でも、「これいいね」と先生から言われると宝物になった。

 そのうちに先生にとって誇れる生徒でいたいと思い、いくつかのコンクールに応募しようと思った。

 ある日、降り続いた雨が上がって外に出ると、コンクリートに出来た水溜りに写る青空を美しいと感じた。そして撮ったその写真で優秀賞を取った時、誰よりも喜んでくれたのは先生だった。

「よくやったな」と頭を撫でられたのが、賞を取ったことよりも嬉しかった。

 普段の授業中も小林先生のことを見ていた。廊下で偶然擦れ違って「おはよう」と声をかけられるだけで、その日一日が満たされる思いだった。学校にいる間、ずっと先生を見ていた。

 けれども、四十歳近い小林先生に奥さんがいるのは自然なことだった。

 だから、自分の想いは告げてもいけなかったし、いつかは忘れるしかないと分かってはいた。それでも、小林先生の姿を私はいつだって追い求めていた。


 そんな先生の転任は、私にとって父親がいなくなった時よりも衝撃だった。母との喧嘩が絶えなかった父は、私が小学校二年生の時に突然いなくなった。


「お父さん、どうしたの?」

「もう帰ってこないのよ」


 朝起きて父の気配がないことに気付いて聞くと、母は事実だけを淡々と述べた。それでも、『そっか、お父さんはもういないんだ』と心の中ですぐに受け止められた。

 そんな私は、父という存在がいるのは永遠でないことを最初から分かっていたのかもしれない。来るべき時が来た、という感じだった。

そのまま父の不在にそれほどの疑問を感じることもなく中学を卒業し、高校に入学したはずだった。

 けれども、小林先生がいないことだけはどうしても嫌で、終業式の日に告げられた現実を受け止められなかった。

 多くの生徒が小林先生の周囲に集まる中で、私だけは少し離れたところでその様子を見ていた。

 先生から話し掛けてくれそうな場面もあったが、クラスの人に囲まれる先生が遠くて、終業式の日は結局一言も言葉を交わせなかった。

 その帰りに乗った電車が学校と反対方向に走り出した時、開いていくその距離に先生と自分を重ねた。

 そうすると、人前なのに涙が止まらなくなってしまった。そんな私を乗せたまま、電車はただただ加速していった。

 春休みは、何かと理由を付けて学校に通った。

 写真部の部長を務めていた私は、引退前の最後の特権として先生がいる日全部を部活の活動日にした。

私の思いを見抜いていたのか、部員は誰も何も言わずに従ってくれた。

 言葉数はお互い少なかったけれど、部室の鍵を返す時に職員室で小林先生と何度か話した。

 そうやって話すことさえ残り僅かだと考えると、先生の前では我慢出来てもベッドに入ると涙は止め処なく流れた。

 三月三十一日が小林先生にとって、私の高校での最後の勤務日だった。

 その日の前に、部活のみんなでプレゼントを選びに行った。

 よくスーツを着ている先生のために、プレゼントはネクタイにしようと部員全員で決めていた。

 駅近くにあるデパートの紳士服売り場に着いてエレベーターを降りた時、この階で降りたことがないことにふと気付いた。

 マネキンがスーツを着ている姿は新鮮で、それほど自分にとって縁が遠い場所だった。


「ねぇ、このピンク色のネクタイにしようよ」


 売り場を見回している最中に女子の一人が言うと、その子の周囲で笑い声が聞こえた。真面目そうな小林先生だからこそ、異色のネクタイを付けたそうな様子だった。

 特に、ピンク色がいいと言い出したその子は校内模試での国語の順位が高く、小林先生と仲も良かった。だからこそ、その子だけにはネクタイを選んで欲しくなかったことも否めなかった。


「違う。先生は絶対に青だよ」


 笑い声に苛立ち、私はつい語気を強めた。部長でも、普段あまり言葉を発しない私がそんなことを言うので、部員の多くが私の顔を見た。

 ピンク色を押したあの子は、少しむっとした表情で口を開いた。


「じゃあ、本田さんが選んでよ。小林先生と仲いいんだし」


 自分の想いは誰にも言ったことがなかったが、最後の方は嫌味だと分かっていた。それでも私は自分に選ぶ権利が移ったことで店内を物色し、一つのネクタイを手に取った。

 薄い青色。水色と青の中間色。このネクタイを付けている小林先生の姿がすぐに浮かんだ。

 値段もみんなで買うには良心的で、何より小林先生らしいネクタイだった。これだったら何度でも使える。

 一回だけ付けるより、いつでも付けられるようなネクタイが良かった。──忘れないでいて欲しかった。だから。


「これがいい」


 無難な選択だったのもあって、部員の中で反対意見は出なかった。それを承諾と受け取り、私はレジに向かった。


「二千九百九十五円です」


 全員から徴収した三千円を払うと、残ったのは五円玉一枚だった。レシートと一緒に受け取ると、その五円玉を小銭入れの普段使わないポケットに何となく入れた。

 そして何故だか、その五円を返すことも使うことも出来ずに、ずっと財布に入れたままにしていた。

 ──それが、あの五円玉だった。


 *   *   *



 そんな話を、二十分以上の間していた。


「なんでただの五円なのに使えないんでしょうね。……なんて、こんな話ちっとも面白くないですよね。ごめんなさい」


 話し終わると、彼は「いや」と答えた。

 こんな他愛も無い話を、彼はただ黙って聞いてくれていた。そうやって真剣に聞いてくれたこともあって、取り留めもない話を長い時間話せたのだった。


「俺はずっと、そんな本田さんに気付いてたよ」

「えっ?」


 急にそう言われ、驚いて彼の顔を見た。彼はただじっと私を見ていた。


「俺、君と同じ高校で一個上の加瀬明(かせ あきら)って言うんだ。学年が離れてるし、俺のこと知らないかもしれないけど」


 いくら見覚えが少しあったとはいえ、同じ高校の先輩だったとは全然気付かずにずっと話していた。


「うちの先輩だったんですか。ごめんなさい、全然気付かなくて。えっと……」


 驚きを隠せないまま、私は加瀬と名乗る青年を改めて見る。だが委員会にも入っていなかった私は、部活の先輩でもないはずの彼とどこで知り合ったのか全く覚えがなかった。

 私が困惑しているのに気付いたのか、加瀬さんの方から口を開いた。


「知らなくて当たり前だよ。俺が一方的に君を知っていたのだから」

「えっ……?」


 思いも寄らない言葉に驚き、それ以上声が出なかった。


「電車の中で、ひょっとして本田さんかもしれないと思って見ていたら、降り際に切符を落としていて……偶然だった。それで、何か話でも出来たらと思って」


 それだけでは訳が分からず、私はただ加瀬さんの方を見た。


「俺は二年の時からずっと、文化祭で偶然見た君の写真に惹かれていたんだ。

 それで、こういう写真を撮る人がどんな人か気になって、撮影者に『一年 本田葵』って書いてあったのを見て君を知った。

 それから、写真部の展示が文化祭で一番楽しみになった」

「そんな……」


 元々写真部の展示なんて目立つものではなく、来場数はそんな多くはない。そんな展示に常連がいることなど知らなかった。


「でもどうして、私のことを知ってるんですか?」


 直接顔を見られる分野ではないので、友達や部員以外で感想を言われるのは初めてだった。


「部活の後輩を使って名簿を調べて、君の教室まで何度か行ったことがあるから」


 加瀬さんからはっきりとそう言われると、私は更に戸惑った。


「そうするしか知り合う方法がなかったから。ごめん。けど、君の姿を見て声をかけるのをやめたよ。だって君はずっと、小林のことばかり見てたから」


 自分の想いが見知らぬ人にまで見透かれていたことを知り、恥ずかしくて下を向いてしまった。それでも加瀬さんは言葉を続けた。


「俺は小林を恨んだよ。卒業してから行った文化祭で、君は写真を展示していなかったし」


 私は顔を上げ、その言葉に慌てて反論した。


「それは、先生のせいじゃなくて受験で──」

「嘘だ。あんなに写真が好きだったのに、受験が終わった今だってカメラを持ち歩いていないじゃないか」


 今まで誰にも気付かれなかったことを言われ、私は胸の心拍数が上がった。受験を理由に三年になってからは部活に行かなくなった。

 けれども本当は、普段撮った写真を展示するぐらいなら受験中でも出来た。部員の中にはそうやって活動を続けた同級生もいる。

 だけど、そうしなかったのは写真が一枚も撮れなかったからだ。

 ──どんなに撮ったって、自分一人ではどれがいいかなんて分かるはずもないって知っていたから。

 それにいくら写真を撮っても、喜んでくれる人なんて誰もいないって分かっていたから。

 段々と感情が高まってくると、叫びだしたい心地になった。


「何が分かるって言うの?! 先生がいないなら、どんなに撮っても意味なんかないのよ! だって、どの写真がいいかなんて、何にも分からないのよ!」


 賞を取って色々な人に褒められたけれども、本当にすごいのは自分じゃなくて、たくさんの写真の中からその作品見つけ出した先生だった。

 私はただ単に心に残ったものを写真としても残すのが好きなだけで、どれがいいかなんて分かるはずもなかった。


「それに、先生がいなくなってから、写真が撮れないのよ……何にも心に残らない」


 受験が終わり、賞の実績からか新たな顧問にも写真を続けるように勧められた。だが気が付けば、何を撮っていいのか自分では分からなくなっていた。

 この一年、先生がいない世界で私は何を撮ればいいのか分からなかった。

 だが、今日知り合ったばかりと言える人にそんな思いをぶつけてしまったことに、段々と恥ずかしく感じてきた。

 今更見せられる顔もなくて黙ったまま下を向くと、反対車線に通過電車が丁度通り過ぎて、その轟音がホーム全体に響いた。その音が止むと、加瀬さんは口を開いた。


「本田さんはもっと、自信持っていいんだよ」


 急にそう言われ、私はゆっくりと顔を上げた。


「シャッターを切った時点で、本田さんは選べているんだよ。あとは自分が選んだものに自信を持てばいいんだ。

 何も心に残らないと思うなら、心に残るものを探し続ければいい。小林だってそう望んでいるはずだ」


 声を荒げた私と対照的に、加瀬さんは落ち着いていた。そんな加瀬さんから言われると、何だか肩の力が抜けた気がした。

 そしてふと、ネクタイを渡した日を思い出した。部員みんなの前で私が選んだネクタイを付けてくれた小林先生は、連日泣いていた私と逆に、いつものように笑っていた。

 それがつい耐え切れなくて少しだけ泣いた私に、「今生の別れではないのだから」と言ってくれた。

 そんな先生が、私がシャッターを切れないままでいることを望んでいるはずがないと、今やっと気付いた。

 そして少し息を吸って落ち着いて、頭の中に映し出される風景を思い出す。

 桃色の花びら。ちらちら舞い散る。それはあの、桜の花。


「……あの桜が撮りたい」


 さっき電車に乗る前に見た、近所で咲いている桜。あの桜は一年生の時にも撮っていた。『本田らしい』と先生が言ってくれた桜。


「俺、ずっと待ってるから。ゆっくりでいいから、また撮ってよ。本田さんの写真、好きだから」


 加瀬さんはそう言って、笑ってくれた。つられて私も笑った。

やがて来た電車に加瀬さんは乗っていった。ホームに残された私の携帯には、さっき交換した加瀬さんの連絡先が表示されていた。

 ──帰ったら、カメラを持ってもう一度外に出よう。そう思えた。



 時が経って、ふと財布の小銭入れのあのポケットを見ると、いつの間にか五円玉はなくなっていた。

 急いでいた際に財布のチャックを閉め忘れ、鞄の中に小銭をぶちまけてしまったことがあった。多分それで他の小銭と混ざって、いつの間にか使ってしまったのかもしれない。

 だが、それでも今はあの五円玉がないことで悲しくはならなかった。

『ご縁がありますように』──五円玉のその効能は果たしてくれたから。


 そして目の前にあるパソコンの画面には、今打ち終わった送信メールの文面と一緒に、最近撮った桜の花が添付画像として映し出されている。

 その宛先欄には『小林実(まこと)先生』と表示されていた。

先生のパソコンのメールアドレスはずっと知ってはいたが、大学に上がる前に桜の添付画像と一緒に初めてメールを送った。

 今では私もだいぶ大人になったが、その時からのメールのやり取りは今も続いている。

 自分が一番きれいだと思ったものを撮って季節が巡る度に送ると、小林先生は忙しい合間を縫って返事をくれていた。

 そんな先生からの文面の終わりにはいつも、『ではまた、写真が見られる日をお待ちしています』と書いてある。

 あの頃の私は気付かなかったけれど、たとえ離れていても先生はいつだって私を待っていてくれた。

『また今年も桜が咲きました。先生のいる街でも桜は咲いていますか? どうか、お体にはお気を付けてくださいね』

 メールの文面をもう一度確認し、送信ボタンを押す。そして時計を確認すると、気が付けば待ち合わせ時間は三十分後に迫っていた。


「あっ、遅刻しちゃう!」


 私にはもう一人、いつだって待っていてくれる人がいる。その人とはもうすぐ結婚する予定だ。

 彼とは写真をきっかけに出会えた。私が撮った写真を、好きだと彼は言ってくれた。

 そんな彼との日々を、写真に残していこう。

 ──もちろん、写真だけでなく心にも。



 再び、春が訪れる。別れもあるけど、出会いもある。

 私の一番大好きな季節。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

五円玉 瀬戸真朝@文フリ東京コ-35 @flying

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ