さようなら

 それから、すう、と鼻で息を吸い込んで、ゆっくりとピアノを弾き始めた。

 初めて聴く曲だった。明るいような暗いような、少し不安げなメロディで、聴いていると居心地が悪かった。

 しばらくすると、身体が脱力していくのがわかった。溜まっていた疲労感が、どっと押し寄せてきた。私はずっと疲れていた。嘘をついて、自分を守ることに必死だった。

 膝から崩れ落ち、手をつき、首をうなだれ床に頭をつけ、ごろりと地面に倒れた。額で床の冷たさを感じた。

 あれ、なにこれ。

 驚いていると涙が溢れてきた。

 涙は、身体の底から絶え間なく湧いてきて、全く止まる気配がないので、少しの恐怖を感じた。

 ねえ虎之助、私って、いつから手遅れだったの? 私の考えていることって、社会的に、どこからがアウトで、どこまでならセーフだったの? 

 もう全然わかんないね。

 ピアノの音が、ビー玉のようにきらきら光りながら、弾んだり滑ったりして、辺りに散らばるのが見えた。

 私は地面に這いつくばったまま、美しさから目をそらせなかった。潤んだ目で、光の粒を見て、虎之助に感動していることを伝えたかった。

 その曲、なんていうの? きれいな曲。絶対に忘れない。

 そう言おうとしたけれど、声が出なかった。

 私は目をつぶり、いい気分で音楽を聴いていた。聴こえるのは、私のための音楽だった。どんなメロディなのか、昔からとっくにわかっていたような気がする。ありがとう、虎之助。頭の中でそう呟いた。

 曲が終わると、虎之助は立ち上がった。床に倒れている私を見下ろして、

「バイバイくそ女、次は真面目に頑張れよ」

 と、言った。

 その言葉を聞いた瞬間、私は息ができなくなった。 水の中に落とされたのだ。

 暴れて浮き上がろうとすると、上から荒々しく頭を押さえつけられた。

 それは、さっきまでピアノを弾いていた、虎之助の手だった。

 私はもがいた。だけど、だめだった。それより強い力で押し返されてしまったから。

 身体の中は何かを探すように、何度も爆発し続けた。

 水が一気に目や鼻や肺に入り、呼吸と鼓動と共に、激しくもつれ合った。そして、あ、と思った瞬間、まぶしさに包まれた。

 ほう、これが命の境目か、と分かったその時、がくんとすべての力が抜けた。それで私の人生は終わった。ほっとしたのと、後悔が一瞬。

 さようなら、私。さようなら。なんという一瞬!

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