第12話 「おかえり。」
〇
「おかえり。」
「…あ…ただいま…」
帰ると、久しぶりに朝子がいた。
どうせ、いないかな…なんて思ってた俺は、溜息をつきながら家に入った。
「…今日、早番だったんだ?」
「うん。あ…そっか。映、あたしより早く出たもんね。」
「ああ…」
「カレンダーにシフト書かなくなったもんね…書いておくね。」
「…ああ。」
ここ二ヶ月…
朝子は表情も暗くなって…あまり喋らなくなったし、何より…俺に、心を閉ざした。
でも…今日の朝子は…
「…うん。美味い。」
「ほんと?ありがとう。」
久しぶりの、一緒の夕飯。
久しぶりの…笑顔の朝子。
俺は嬉しかった。
笑顔になった理由が何か分からないが…
俺がどれだけ努力しようが、朝子は暗い顔のままだった。
そりゃあ…何も相談なくアメリカになんて行ったら。
たいていの人間は…怒る。
だが、朝子は怒らなかった。
けど、怒ってくれた方が良かったぐらいだ。
無言の抵抗をされているみたいで…正直イラついた。
…悪いのは俺だ。
だから素直に謝ったし…出来るだけの事はしているつもりだ。
…いや…まあ…
笑顔が戻ったなら。
もう、文句はない。
ただ…
結婚への情熱が、冷めている俺がいる。
朝子の事は好きだし、一緒にいたいと思うが…
会わないまま、反対し続ける朝子の親や…
それに対して、『仕方ない』とまとめてしまう朝子。
いくら特殊な環境で育ったからと言って…
俺への気持ちを『仕方ない』で押さえ込まれている気がしてしまう。
それと。
まだ、俺が…
F'sに受け入れられていない。
…そりゃあ、反対もされるか。
こんな、職業が安定していない男…
警察の特別機関なんて立派な仕事の家に生まれた朝子を、任せられないって思われて当然か…
「…朝子。」
俺は意を決して朝子に言う。
「…何?」
「結婚の事なんだけど。」
「……」
「…俺がF'sに入るまで、待ってくれないか?」
「…入れるの?」
「入ってみせる。」
「……」
「だから、信じて…朝子?」
突然、朝子が泣き始めた。
すごく…悲しそうに。
「あ…朝子…」
朝子を抱きしめて。
「…本当に、頑張るから。」
耳元で言うと。
「…違うの…」
朝子は小さな声で言った。
「…許嫁にも…最初…そう言われて…」
「え…」
「結婚、延期してくれって…あたしを受け入れる自信がないって…」
「……」
そう言えば…過ぎた事だから。と、俺は気にしていなかったが…
これは…あきらかに、トラウマ…ってやつだよな。
「朝子、でも俺は違う。」
朝子の涙を拭って、目を見て言うと。
「同じだよ…」
ショックな言葉…
「彼も…あたしには何も言わなかった…」
「……」
「アメリカに行きたいなんて…何も…」
「…アメリカ…?」
さっきまで笑っていたのに。
朝子の涙が止まらなくなって。
俺は…
朝子の兄貴に会う事にした。
* * *
「…それで?」
朝子の兄貴は…不機嫌極まりなかった。
「…朝子の、元婚約者の話が聞きたいんです。」
「朝子と暮らしてるのに、なぜ俺に聞く?」
…いちいち言い方がトゲトゲしい野郎だ。
「朝子に聞けないから、お兄さんに」
「勝手にそう呼ぶな。」
「…東さんに、聞く事にしただけです。」
ああ…本当に…いちいちムカつく。
「そんな事知ってどうする。」
「…朝子のトラウマを、ちゃんと知っておきたいんです。」
「トラウマ?」
「何かと…俺と元婚約者が同じだと言ったりするので。」
俺がそう言うと、兄貴は一瞬俺を上から下まで眺めて…
「…ふっ…」
鼻で笑った。
ムカッ。
「朝子がなぜ、あの人と君を同じと言うのかは分からないな。」
つまり、見た目は全然違う…と。
別にいいさ。
その方が俺もいい。
顔が似てるって事で選ばれるのは嫌だ。
「…何も言わないと言ってました。」
「組織を背負って立つ人だからな。話せない事も多かっただろう。」
「…組織を背負って立つ人?」
「ああ。」
「…警察の特別機関?」
「ああ。」
「……」
朝子は…そんな大物と許嫁だったのか?
「…何なんだろうな。」
溜息が出た。
「…きっと朝子は…生まれ育った環境のせいで、その人に恋をせざるを得なかったんだろうけど…」
「……」
…ダメだな、俺。
朝子に相談しても無駄だ。なんて思った自分を呪った。
相談じゃなくても。
ただ話すだけで良かったんだ。
俺の胸の内。
ずっと思い悩んだ自分の立ち位置や…これから目指したい物。
それを決定付けてくれたDANGERの事。
俺は何かを背負って立つような立派な男じゃないが…朝子を泣かせるような男と…並んでどうする?
「…朝子の顔の傷は、その人を庇ってできた物だ。」
「え…っ…」
兄貴の思いがけない言葉に、俺は少しばかり…ショックを受けた。
『この傷で手に入れた物と、失くした物がある』
朝子は…以前、そう言っていた。
…手に入れたのは…
許嫁の事か?
失くした物は…何なんだろう。
* * *
「映ちゃんから呼び出されるなんて、ちょっとドキドキした。」
待ち合わせのダリア。
学はそう言って、俺の前に座った。
朝子の兄貴と話をしたものの…やはり身内。
そして、恐らく俺を良くは思っていないシスコン野郎。
とことん、朝子の許嫁がスケールの大きい奴だったと知らされたぐらいで…俺の中に残る、モヤモヤした物。
それを払拭するには至らなかった。
…別に、過ぎた事は気にしなきゃいい。
今までなら、それで良かった。
だが…朝子は、今も俺に過去を被せて不安になる。
それなら俺は、その過去を知っていてもいいんじゃないか?
ただ、その過去がどうであっても。
俺は動じずにいなくちゃなんねー。
…大丈夫か?
少し悩んだ。
本当に少しだけ。
だが…久しぶりに笑ってくれた朝子に出会えたあの日。
結局泣かせてしまったが…やはり、朝子の笑顔を取り戻したい。
そう思う俺がいた。
特別機関のトップに立つ人間。
それが『二階堂』の人間だとしたら…
紅美と学のイトコだ。
本当なら紅美に話を聞きたかったが、先月帰国したDANGERは…いきなり、沙都が脱退してソロデビューに向けて渡米してしまって。
三人でDANGERをやって行くと決めてはいるようだが、内心、ダメージはかなり大きいと思う。
とても、こんな色恋沙汰を相談できる状態じゃない。
「あのさ。」
「うん。」
「二階堂の本家に、朝子の許嫁って人がいただろ?」
「……」
学は一瞬目を丸くして。
「…映ちゃん、そんなの気にするタイプだったっけ?」
まだ本題にも入ってないのに…そんな事を言った。
「いや、続きを言わせろよ。」
「ああ、ごめん。」
「…その許嫁、かなり立派な奴みたいだな。」
「うん。かなりね。」
学は即答。
「仕事も相当出来る奴って。」
「うん。相当出来るね。」
「そんな奴が…なんで朝子に庇われなくちゃならなかったのかなと思って。」
「え?」
「朝子の顔の傷。朝子の兄貴から聞いたんだ。許嫁を庇って怪我をしたって。」
「……」
俺の言葉に、学は少し考える顔をした。
「…確かに…それは俺も知らないな。」
「警察の特別機関なんて、俺には想像もできねーけどさ…たぶん、危険な事もたくさんあるんだろ?そういうのをたくさん経験してそうな男がさ…なんで朝子に怪我なんてさせたんだって。」
「詳しくは知らないんだけど…確か地震があって、レストランのシャンデリアが落ちた…って聞いた。」
「…朝子に庇われるって事は…」
「…他の何かに集中してた…って事かな…」
俺と学の意見が合った。
「朝子ちゃん、顔の傷…手術しないのかな。」
学が遠慮がちに言った。
「…俺は気になんねーけどな。」
「映ちゃんは気にしなくても、俺は…朝子ちゃんが海くんを庇って出来た傷なんて、残してる意味はないと思うけど。」
「……」
学の言葉に、目が覚めたような気がした。
ほんとだ。
『うみくん』を庇ってできた傷を…どうして残してる?
「…そう言えば、紅美大丈夫なのか?」
コーヒーを飲みながら問いかける。
沙都がソロデビューに向けて渡米した事は…DANGERにとって…だが、紅美にも痛いんじゃねーかな…
「え?なんで?」
「紅美と沙都って付き合ってんじゃねーの?」
俺の問いかけに、学は眉間にしわを寄せて。
「んー…どうなのかな。昔っからベッタリだったから、その延長?って思う所もあったり…でも付き合ってんのかな…」
「そういう話、しないのか?」
「恋愛話はしないなあ。それに…」
「それに?」
「紅美、結構モテるからさ。」
…確かに。
事務所にも紅美狙いの野郎は多い。
ハツラツとしてて、ギターもカッコ良くて、歌も上手くてステージングもいい。
サバサバしてる性格も男女問わず好かれている。
「あ。」
学が何かを思い出したように、声を出した。
「何。」
「そう言えば、わっちゃんなら詳しく知ってるかも。」
「わっちゃん?」
「希世ちゃんの叔父さんだよ。整形外科医なんだ。確か朝子ちゃんが怪我した時、一緒にいたって聞いたよ。」
「…整形外科医。」
そういう人物がいるとなると…詳しく知れるかもしれない。
「なんで知りたい?」
学が首を傾げた。
「…色々朝子の中にトラウマがあって、それを取り除いてやりたいって言うか…」
「…トラウマと言えば…朝子ちゃん…」
「ん?」
「うちの店、一度来たっきり来なくなったな。」
「へえ…気に入ったって言ってたけど。」
「ちょっと…微妙な顔してたから、何か勘付いたんじゃないかな。」
「勘付いた?」
「…ま、昔の話なんだけどさ…」
「うん。」
「チョコ、映ちゃんの事好きだったんだよね。」
「……」
少し目を細めて、何度か瞬きをした。
「え?」
「いや、今は違うけどさ。」
「当たり前だ。」
「朝子ちゃんが映ちゃんと暮らしてるって聞いた時、チョコ…少し戸惑ってたんだよなー…」
「…なんで。」
「俺とチョコの中では、映ちゃんはコノとくっつくんだって思ってたからさ…」
「……」
少し…心臓がバクバクした。
あきらかに、瞬きも増えてる気がする。
「…なんでコノちゃん?」
俺の問いかけに、学は小さく笑って。
「ま…もう別にいいかな…」
そうつぶやくと。
「映ちゃんがコノとデート帰りにキスしてるとこ、チョコと二人で見ちゃってさ。」
「……」
俺の口は『え』で開いたまま。
「チョコ、分かり易いんだ。あのキスシーンを見て、俺と付き合うって。」
お…
おいおいおいおいおい。
て事は…
俺は、千世子はいつまでも俺の事を好きでいてくれるかも。なんて勝手な思いでいたが…
コノちゃんを応援するあまりのキスで…千世子を失くしたって事か?
いや…今となっては失くして良かったんだ。
俺は、学みたいに千世子を自由にさせてやれない。
「ま、コノが王寺グループの玉の輿に乗ったのは聞いてたけどさ…コノと朝子ちゃんじゃタイプが違い過ぎるから、ちょっとビックリした。」
…確かに、コノちゃんと朝子は全く違うタイプだ。
でも…
千世子と朝子は…似てなくも…ない。
「映ちゃんも、チョコの事好きだったんだろ?」
俺の口は『え』から『あ』になった。
そんな俺を見て、学は笑った。
「朝子ちゃん、気付いてるんじゃないかな。」
「な…なんで…」
「映ちゃんだけだよ。チョコの事、千世子って呼ぶの。」
「……はっ…」
つい、頭を抱えたが…
「…昔の話だからな。」
俺が顔を上げて学に言うと。
「色んな偶然で、チョコがそれに気付かなくて助かったよ。」
学は満面の笑みで、そう言った。
〇二階堂 学
映ちゃんに呼び出されて行ったダリアで。
朝子ちゃんの顔の怪我の事について問われた。
うーん。
確かに言われると…気になる話かもしれない。
朝子ちゃん、傷を残したままだなんてさ…海くんの事、引きずってんのかな?って思うし。
けどなー…
俺は別れ際に。
「映ちゃん。」
「あ?」
「相手の事を知りたい気持ちは俺にも分かるけどさ。」
「ああ。」
「知る事で全てが解決に繋がるとは思えない。」
「……」
「過去じゃなくて、これからを受け止めてあげた方がいいんじゃないかな。」
そう言うと。
「…そうだな。もう、ここまで来ると好奇心みたいなもんかもしれねーな。」
映ちゃんはうつむいて笑った。
「…なんでチョコが好きだったのに、コノにキス?」
過去じゃなくて…って言ったばかりなのに、俺がそう言うと。
「ははっ。あれは…ただ単に、応援のキスって言うかさ。」
「応援のキス…映ちゃんの彼女はたまんねーな…」
「今はしねーよ。」
「それがいいよ。」
映ちゃんと別れて、歩きながら考える。
…わっちゃんに会うのかな…
俺、あの事故の時はロンドンにいて…
確か…紅美が録音で渡米してて、親父は事務所に入り浸りだし…つまんないって、母さんが織姉と一緒に来てたんだよな。
そこへ…事故の連絡があった。
地震があって、レストランでシャンデリアが…
「……」
ふと…足が止まった。
以前、温泉で…
「小さい頃から許嫁って言われてて、他に好きな子できなかったの?」
俺の問いかけに。
「まさか。好きな子なんて、何人もできたさ。」
海くんは笑顔でそう言った。
そして…
「…今は?好きな子いないの?」
「…本気で好きになったのは、一人だけかな。」
「へえ…それって朝子ちゃん?」
「………おまえはどうなんだよ。」
はぐらかされた。
って事は…朝子ちゃんじゃないな。って思った。
温泉旅行の間…許嫁である朝子ちゃんとのツーショットは、結局一度も見なかった。
本気で好きになったのは…一人だけ。
自分の身に危険が及んでた事にも気付かないほど…何か他の事に気を取られてた海くん。
もしかして、そこに…『本気で好きになった一人』がいたとか…?
だとしたら…もしかして、それって…
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