第5話「冒険者になった日」
一月半という期間はあっという間だった。午前中に最後の修練を終え、昼に神殿を出るまでの間、ここでの生活を思い出しながら過ごしていた。
修練室と呼ばれるこの道場には休憩所も設置されており、シャワーを浴びたり睡眠をとることもできた。一日に二度の食事も用意されるので環境はとても良かった。
最初は何度も心が折れそうになったが、このまま冒険者になっても早死するだけだと自分を追い込み、何とか耐えることができた。もしも、俺に以前の記憶が残っていたらどうだっただろう? もしかしたら、言い訳を並べて逃げ道を作り、何かに縋ったりしていたかもしれない。そう考えてしまうほど過酷な日々だった。
俺たちに名前を返した、あの黒いローブの男が言っていた。
『諸君らの記憶は消去されたのだからな』
『諸君らを戦士にするために必要な儀式だったのだよ』
今になって思えば、確かに必要なことだったのかもしれないとも思う。記憶が無かったから修練にしがみついてこられた。必死になって剣を振るうことができた。それだけだろうか? いや、違う。
「お疲れさま。今日でここは卒業だな」
白い鎧を身に纏い、長剣と大盾を持ったアムリス神殿の騎士団長が言った。
「ありがとうございました。ジートさんのおかげです」
そうだ、この人が指導してくれたからだ。褒めて伸ばしてくれるタイプの人で、それでいて厳しく、甘えそうになると心身を引き締め直してくれたりもする。いつの間にか俺は剣の扱いを楽しむようになり、寝る間も惜しんで筋トレや剣の素振りをするようになった。
「君が努力した結果だよ。これからも精進しなさい」
「はい!」
ジートさんがゆっくりと頷いた。
「良い返事をするようになったな。修練室へ来た当初とは精神的にも見違えるようだ」
「あの頃は……すみませんでした」
しっかりと頭を下げて謝罪した。
「謝ることはない。全てはこれからだ。ここでの教えは基礎中の基礎で、冒険者となりそれらを全うできる者はそう多くはない。忘れないことだ。狩りに出れば戦場だ。ここでの修練とは違う。野生の獣でさえ本気で命を取りに来る。それに憶することのないようにな?」
「肝に、銘じておきます」
大丈夫だ。俺はかなり努力したと自分でも思えるくらいだ。騎士団長から直々に指導を受けられるなんて滅多にないことらしいし。もしかしたら、他のみんなとは差をつけてしまったかもしれない。
「まずは一人前になることだ。君の紋様が赤く染まるまでな」
「紋様……?」
「ん? ああ、そうか。その位置だと自力で気がつくのは難しいか」
ジートさんはそう言って首の後ろを指さした。
「何かの縁かな。君は私と同じ位置に紋様を持っているね」
後ろを向き、自分の髪を持ち上げるようにして見せてくれた。
そこには、ジェニオの頬にあったあの青い紋様と似たものがあった。模様は同じだ。しかし、色が違う。ジートさんのそれは真っ赤に染まっていた。
「私も君たちと同じように、記憶を代価に戦士へと志願した者の一人だよ」
「そう……だったんですね?」
「ああ、同期の者は他に誰も生き残ってはいないがね。私は臆病者だった。生に執着し、ただ生き残ることだけを考えて生きてきた。気がついたら一人前と認められ、騎士団長なんて地位も与えられたがね」
ジートさんみたいな人にもそんな時代があったのか。今の立ち振る舞いからは想像もできない。誰よりも前に立ち、騎士たちを引っ張っていくような姿しか思い浮かばないからだ。
「こんな私から言えることは、死なないこと。生きてさえいれば必ず結果は向こうからやってくる。この先は苦労ばかりで、冒険者でいることが辛くなることもあるだろう。それでも諦めないことだ。忘れるな?」
「はい!」
俺は首の後ろにあるらしい紋様に手で触れる。体温だとは思うが、それはじんわりと温かかった。自分では見えないがまだ青い色をしているのだろう。これが赤く染まると一人前と認められた証になる。それがいつになるのかはまだ分からないが、その時が来たら、俺はこの人みたいな立派な戦士になれているのだろうか?
――ジートさんとの別れを済ませ、俺はとうとうこのアムリス神殿から出ることになった。元々着ていた服はボロボロになってしまったので、新しい服、冒険着を神殿の人が用意してくれた。修練で使用していた剣はそのまま持っていくことを許可された。
武器は最後まで片手剣のままだった。小剣や細剣も触ってはみたがいまいち手に馴染まなかった。小型の盾の扱い方も少しだけ教わったが、一度に二つの動作を覚えるのは難しく断念した。
「戦士レイトよ、貴公には
赤い十字の刺繍が入った黒いローブを着ている、司教と名乗った老人から銀貨三枚を受け取ると、俺は神殿の出口へと向かって歩きだした。出口は大きな門のようになっていた。門の前には銀色の鎧を着た衛兵のような人が立っている。俺が近づくと黙って門を開いてくれた。
太陽の日差しが眩しい。修練室にも光は差し込んでいたが、やはり外に出て浴びるこの直射日光は違う。体の奥から目が覚めるような感覚がする。辺りを見渡す。ここがルトナの街。この神殿は街の端にあるらしく、外壁がとても近くに見えた。もう少し近づかないと街の様子は伺えないか。
神殿の前には長い下り階段が続いている。きっとここからしか入ることができないような造りになっているのだろう。関係者以外は立ち入りを拒んでいる場所だし、簡単には侵入できないようにしているのだと思う。俺は階段を下っていく。その途中で黒いローブの人が座り込んでいるのが見える。赤い十字の刺繍はないみたいだ。それにしても、このローブの人……やけに小さくないか?
足音に気がついて、黒いローブの人がこちらを振り向いた。
「……ココハ?」
その少女はあの日、修練室の入り口で別れた不安そうな顔でいつも下を向いていた、あの女の子だった。俺は彼女の隣で足を止めた。
「久しぶり、元気だった?」
ココハはゆっくりと立ち上がり頷いたものの、両手を胸の前で組んでいる。相変わらずのようだ。以前と違ったのは目を合わせても背けることがなくなっていたことだ。これには少し驚いた。
「無事に
「…………」
返事がないのも相変わらずだ。他人とコミュニケーションを取ることが苦手なのだろう。俺も別に得意というわけではないけど、ここまで酷いのはなかなかだなと思う。
「えっと……一人? ルミルは一緒じゃないの?」
聞いても返事は返ってこないかもしれないけど、少しだけ待ってみる。ココハが口をパクパクさせて何かを言おうとしていたからだ。
「…ルミルさんは、一月ほどで……出て、行きました」
余所見や考え事をしていたら、間違いなく聞き逃したであろう小さく細い声がした。
「一月って早いね?」
「…才能が、あった……みたいで」
「そうなんだ。堂々としてて怖いもの知らずって感じだったもんね。そういうのが戦士向きだったのかな?」
「…………」
「ブレンやジェニオは見かけた?」
ココハは首を横に振った。頑張ってみたけど会話は続きそうにない。
「街の方へ行ってみようか。司祭のヤルミさんも見て回るといい……とか言ってたしね?」
ココハは首を縦に振った。意思の疎通はできるし、まぁこれでもいいかと思った。
――ルトナの街。思っていた以上に大きな街だった。活気もあり、冒険者だけではなく旅の商人などもいて商いにいそしんでいる。俺とココハは、はぐれないように身を寄せ合って人の波の中を歩いた。
この街は岩でできた円状の巨大な壁に囲まれた中にあって、東西南北にそれぞれ門が設置されている。外へ出るにはそれらを潜らないといけないみたいだ。街の中から外の様子は確認できなかった。街の中央には時計塔が高くそびえ立っており、そこからなら街の外まで一望できるのかもしれない。でも、今はまだいい……先に街の中を覚えないと。
大通りにある市場には露店がずっと先まで続いており、たくさんの買い物客で賑わっていた。まるで商店街のようだ。俺たちは人通りの少ない、道の真ん中を歩いて見て回った。生活用品などはそのうち買いに来ないといけないだろうな。市場をだいたい散策した後で、何か食べようかということになり、サンドイッチのような……パンに具材を挟んであるものが置かれた店に寄った。
近くで見ると、それはなかなかに大きなものだった。俺だと昼食くらいにはちょうどいいのだが、たぶんココハには食べきれないだろうな。口を開けて驚いた表情をしているココハを見ながら、もしかしたら、こう見えて大食いなのかもしれない……とも思った。
「一袋、銅貨二枚ね」
一袋に二つ入っているみたいだ。しかし、銅貨……は持っていない。俺たちはそれぞれ銀貨を一枚ずつ見せた。
「はぁ? 無理無理。そんなにお釣りは用意してないよ。非常識だねぇ」
そんなことを言われても、俺たちは物の値段も通貨の価値も知らないんだ。どこかで両替とかはできないのかな?
「仕方ないねぇ。一人分のお釣りならなんとか用意してあげるから、どっちかが払いな」
俺たちの顔を見て察してくれたのか、店主は銅貨九十六枚を用意してくれた。
「どうせ皮袋なんかも持ってないんだろ? これも持っていきな」
そう言って、財布の代わりになる皮袋まで用意してくれた。感謝しかない。今後はこのお店の常連になって恩返しをしよう。そう思った。
とりあえず分かったことは、銀貨一枚は銅貨百枚分の価値があるということ。銅貨で売られているものは銅貨で、銀貨で売られているものは銀貨で支払うのがマナーみたいだ。
通りの脇に設置されている長椅子に座って、サンドイッチのようなものを食べた。味も悪くない……というかむしろ美味しい。生地はモチモチとしていて弾力があるし、具材になっている肉の汁はジュワッと溢れてくるし、野菜の歯応えもシャキシャキとしていて絶妙だった。
ココハも綺麗に食べ尽くしていた。やっぱり大食いだったのか……と驚いたが、苦しそうにしていたので無理して食べたんだと思う。今後は一袋を二人で分けるくらいでいいかもしれないな。
休憩後、再び散策していたがいつの間にか日が暮れ始めていた。俺たちは暗くなる前にしておかなければならないことがあった。今夜の寝床……宿探しだ。俺は最悪野宿でも構わないけど、ココハはそういうわけにはいかないだろう。女の子だし。通行人などに声をかけて情報を集め、なるべく安そうな宿を探した。それは四角い石を積み重ねたような壁で、灰色で寂しい感じの宿だった。
「一部屋一泊、素泊まりなら銅貨六枚だね」
俺たちは一緒の部屋に……なんていうことはなく、別々に一部屋ずつ借りた。ココハは銅貨を持っていないので俺が立て替えておいた。宿屋の主人によると銀行のような、お金を預かったり両替をしてくれる施設もあるらしい。明日はそこを探してみよう。
ココハを二階の奥の部屋の前まで送った後、俺も階段近くの自分の部屋へと入った。部屋の中はベッドと小さな机、椅子があるだけの寂しいものだった。俺は背負っていた剣を机の上に置くとベッドに横たわり、街の様子や物の値段などを思い出して整理していた。寝て起きるだけで銅貨六枚。なかなかに高いよな。食費も昼夜ともにしっかり食べようと思ったら、同じく銅貨六枚くらいは必要だろう。それに……。
「歩き回って汗……かいてるよな」
しばらく休んでから部屋を出て、宿屋の主人と少し会話をしてから、ココハの部屋へと向かった。コンコン……コンコンと、二度ほど扉を叩いてみたが反応はない。もう寝てしまったのだろうか。今日はやめておくかと立ち去ろうとした時、ゆっくりと扉が開いた。
ココハは下を向いたまま応対してきた。鼻をすする音が聞こえる。もしかして……泣いてた? こんなにも小さくていつも不安そうな彼女だ。記憶を失って訳の分からないまま知らない街に放り出されて、怖くて怖くて仕方がないのだろう。
「えっと……ごめんね、もう寝てた?」
ココハは俯いたまま首をゆっくりと横に振る。せっかく目を合わせて話せるようになってきていたのに。
「ここの主人にさ、風呂屋の場所を聞いてきたんだけど……そんな気分じゃないよね?」
「…行く」
即答だった。
彼女は顔を上げると目を輝かせながら「…行く!」と再度言った。今までで一番大きな声だった。女の子はやっぱりよく分からないな。でも、下を向いているよりかはずっと良い……そう思った。
「出入口で待ってるからさ、準備ができたら降りて来てよ」
ココハは強く頷くと部屋の中に戻って行った。俺も一旦自分の部屋に戻り、銅貨が入った皮袋から十枚だけ取り出し、残りはベッドの影に隠しておいた。ここの宿は安いが扉に鍵はかけられない。万が一盗難などが発生した場合は自己責任らしい。だからといって、銀貨二枚と銅貨八十四枚を持って風呂屋に行くなんて、それこそ盗ってくださいと言っているようなものだ。まだ部屋の中に隠しておいた方がマシだろう。明日預けるまでの辛抱だ。
出入口に行くとすぐにココハもやってきた。風呂屋はここからだと少し距離があるそうだ。この辺りは灯りも少なく薄暗い。明日からはもう少し早い時間に行かないとかな。宿屋からの道はそんなに広くはなく、並んで歩くには少し窮屈だった。俺が前を歩いてココハを先導するように進んだ。なだらかな下り坂だ。
「お風呂、好きなの?」
「…うん」
「そっか、俺はシャワーだけでも平気かも」
「…温かくて、気持ちいい……のに」
なんだかココハが上機嫌のような気がする。いろいろと聞きたいことはあった。どんな魔法を習ったの? とか、指導をしてくれた人はどんな感じだったの? とか、何か思い出したことはある? とか、体のどこに紋様があった? とか……ああ、これはダメかな。さすがに女の子にそんなことは聞けないよな。
「お? あった、あそこみたいだね」
考え込んでいる間に着いてしまった。風呂屋の灯りは、細工した木の枠に紙を貼り、中に蝋燭を立てて吊るされているものだった。その光に照らされている大きな建物の入口には、赤いのれんと青いのれんがあった。表札にはそれぞれ女湯、男湯と書かれている。
男湯と書かれた青いのれんから少し覗き込むようにして、番台をしている人に料金を聞くと銅貨三枚だと言われたので、その分をココハに渡し「上がったら出入口で待ってるから」と伝えて、俺たちは男湯と女湯へとそれぞれ足を踏み入れた。
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