夕凪ナイン

雨音雪兎

第1話 『第二の野球人生』

 炎天下の夏。


 歓声と応援歌が混同する野球場で中学硬式野球全国大会の決勝戦が繰り広げられていた。試合は五回まで進むも〇対〇。両チームとも安打数が一本ずつと攻めあぐねる均衡状態が続いている。観客からすれば盛り上がりにかける試合に映るが、野球を嗜む者たちからすれば投手戦ほど痺れる試合はない。


「……つまらない」


 観客席の出入り口から出て目の前にある手すりの前から観戦していた俺は心の声を黙らすことができなかった。何も投手戦が嫌いというわけではない。むしろ乱打戦より好ましく思っている。それでも心からつまらないと感じてしまうのは自分が観客という立場に甘んじているからだ。自分のように野球選手ならば誰しもが一度は味わったことがあるだろう。


 手すりを握る手の力が自然と強まる。その事を自覚した瞬間、自身を嘲笑してしまう。


「我ながら未練がましい……」


 右眼を覆い隠す眼帯に手を伸ばす。レザー特有の光沢ある滑らかな質感が感触として残る。なぞるように指を下ろしていき、眼帯の縁の外に出ると、まっすぐ進んでいた指が歪む。眼帯だけでは隠しきれていない傷痕に触れた為だ。


「その傷、痛むのですか?」


「っ⁉ ……あ、貴方は?」


 自分に意識を集中していたことで声を掛けられたことに過剰な反応をしてしまった。どうにか心を落ち着かせて対応するも、完全に冷静さは取り戻せていない。


「驚かせてしまったようでごめんなさい。私はこういう者よ」


 声の主であるスーツに身を包んだ女性から差し出された名刺を受け取って目を落とす。


「氷室朱里、夕凪高校の教師。高校の先生でしたか」


 氷室の容姿だけで判断すればモデルや女優を生業としていても不思議ではない美貌の持ち主である。そんな彼女が教師ともあれば男子生徒からの人気は相当なものだろう。ただ夕凪高校という校名には覚えはなく、それと同時に声を掛けられた理由にも見当がつかない。


「噂には聞いてはいたけど、その右眼。本当に光を失ってしまったのですね……」


 悲痛な面持ちから氷室が本心で心配していることが伝わってきた。


「噂、ということは、氷室先生も野球を?」


「えぇ。今年の春から野球部の顧問兼監督を務める事になっているわ。だからこそあのバス事故は他人事のようには思えなかったの」


 右眼を失うことに繋がったバス事故には俺以外にも多くの学生が乗車していた。教師という職業に就いている氷室にとっては自分の教え子が被害者となっていたかもしれない。そう考えると他人事に思えないのも致し方ない。


「それもあるけど、事故を注視した理由は君よ。都筑遠夜君」


「俺、ですか?」


「玖王中学の正捕手、都筑遠夜。中学生離れの恵まれた体格。そこから繰り出される強肩強打。スカウトするには申し分ない逸材です」


「そうでしたか。評価してもらえたことは光栄ですが、今となっては過去の話です」


 氷室に向けていた視線を電光掲示板に移す。〇の数が両チーム共に一つずつ増えて、試合は七回表に突入していた。そこから回を遡るように視線を左に動かしていき、決勝戦に出場しているチーム名が姿を見せた。


 上段には西科中学。


 下段には玖王中学。


「もう俺は正捕手どころか選手でもありません」


 右眼を事故で失ったことで退部することになった。表向きは自主退部だが、実力主義を掲げる玖王中学の野球部に怪我人の居場所はないことからその道を選択する他にない。たとえ諦められず粘った所で厄介者扱いされるだけで、スタメンやそこに等しい選手ほど耐えられないだろう。


「もう野球をするつもりはないのかしら?」


「……氷室先生は酷いお人ですね。右眼を失った状態で野球が出来るはずがないでしょう」


 視線を氷室には戻すことはせず試合を見届ける。ただその心中は穏やかなものではない。野球に携わる者ならば眼がどれだけ重要な武器なのか理解しているはずなのに、氷室はそれを無視して訊いてきた。


「もう一度、お聞きします。もう野球をするつもりはないのですか?」


 感情の堰が決壊した。


「やりたいに決まっているじゃないですか! 俺の野球人生はこれからだった! 甲

子園に出場して、ドラフトで選ばれて、プロ選手として活躍する! 幼い頃からの夢だったんだ! それが! それが!」


 突然、奪われた。あの事故では死者も出たことを考えれば命あるだけ俺は幸福なのかもしれない。そうだと理解していても納得できない部分はあるのだ。


 周りから視線が集まるが、一度でも決壊した感情の堰を直すことも止めることもできない。その姿を見兼ねた氷室は子供をあやすように優しく抱き込むと、俺の頭を優しく撫でた。


「ごめんなさい。貴方を傷つけるようなことを訊いてしまって……。でも嬉しかった。貴方の中から未だ野球を愛する気持ちが消えていなくて」


 悪役に徹してでも氷室は都筑から野球への情熱が残っているのかどうしても訊きだしたかった。その答えを聞き届けた氷室は球場に訪れた目的遂行に移った。


 胸に抱いていた都筑を離し、涙で濡れた顔に視線を合わせた。


「都筑遠夜君。君を夕凪高校の野球部にスカウトします。私と一緒に甲子園を目指しましょう」


 氷室との出逢い、これが俺にとって第二の野球人生を開始することとなった。

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