第2話 空想彼女と自己催眠

 僕が僕の空想上の「彼女」と出会ったとき、僕は二十二歳で、とある都内私立大学の経済学部四年生の身分だった。世間では大学四年生の人間というのは、就職活動に明け暮れるものらしいけれど、僕にそんなものは関係がなかった。そもそも、生涯働く気なんてさらさらない。生活は……うん、家族に寄生すれば大丈夫だよ……多分。いつまで続くかわからないけれど。


 気分が滅入ってきたので、他の話をする。サークルは……一応、小規模なオタクサークルに所属してはいるが、二年ほど前から、半分幽霊部員状態だ。新歓とか学園祭とか大きめのイベントにたまに参加する程度の出席率になる。なんというか、感性が合わなかった。自虐的なダメ概念をオタク文化の本質と捉える僕と、オタク文化を肯定的に消費する彼らとでは同じオタクでもオタクとしての性質が全く異なるのだ。なぜ彼らはあんなにも、自らのオタク性をああもあけすけと表にあらわせるのだろう。まぁ、幽霊化の原因として決め手になったのは、サークルの同期達がオタクの癖に何らかの恋愛関係をこぞって持ち始めてしまったからなのだが。


 「やっぱりあいつらなんて、ミーハー趣味でオタクをやってるだけの健常者だ……。」


 なぜ恋愛なんてできるんだ、なぜ彼氏彼女を素面で作れるんだ。僕じゃ駄目なのか? 一人ぐらい、あのサークルで僕に好意を抱いてくれる人がいたってよかったじゃないか。いや、ちょっと目が死んでいるくらいで、そんなに顔面は悪くないと自分では思っているのだけれど。風呂には毎日入っているし、定期的なペースで美容院にも通っている。服装もコンサバなものをおさえられているはずだ。それなのに、なぜ僕だけは世間一般の恋愛ができないのだろうか。おそらく、社会から見ると、僕の顔が僕が思っているより、とんでもなく醜くみえてしまっているか、もしくはこの性格のせいなのだろう。初対面ではそれなりに話を上手く合わせられても、その後楽しく会話を続けられたためしというのが僕にはほとんどない。


 いや、冷静になれ、何を言っているのだろう僕は。そもそも、僕にとって恋愛というのは、この非情な宇宙を愛するところまで射程に入る神聖な行為であり、気軽に行えるようなものではなかったはずだ。だから、たとえ僕に好意を持つ人間が一人もいなかったとしても、それはむしろ都合が良いのだ。だって、もし仮に万が一僕に好意を持つ人が現れて、僕に告白してきたとしたら、人に嫌われることを極端に恐れる僕はそれを断ることなどできないだろうから。


 告白を受け入れてしまう僕は、同時に、運命に翻弄されることの恐怖に怯え続けるに違いない。他人に承認されたがっている一方で、その相互承認の関係が永遠に続かないことの方が恐ろしいのだ。


 そんなことより、「彼女」との出会いだ。前述したように、僕は催眠音声によって空想上の彼女と出会うことができる。あれ、どうやって出会ったのだっけ。確か、同人音声作品がアップされているサイトの巡回を、いつものようにしている最中に、たまたま空想彼女の作成を誘導する音声作品を見つけたのだ。友人も少なければ、恋人なんて作ったこともない僕にはうってつけの作品だった。人間嫌いを標榜しながら、それでも内心人とつながりたい欲望を持っている僕には、たとえ妄想でも素敵なコミュニケ―ションがとれる美少女が必要だった。駄目でもともと精神でそれを聴いていた僕だが、これによって実際に空想彼女を認識することができた。あのサブカル感溢れる美少女だ。


「わたしはダーリンのことが好きです」


 そのひとことから、僕と彼女の関係は始まった。僕も君がすきだ。一目惚れだった。


「声に出してみてください」

「き、き、君が好きだ!」


 声がどもるし、裏返った。仕方ないじゃないか、最近人としゃべっていなかったのだから。やばい、吐き気がしてきた。あまりにもリアルすぎる。いくら空想彼女だろうが、無理だ。彼女に対して、こんな積極的なコミュニケーションをとるのは。だって、相手が何を考えてるかわからないから、空想彼女に逃避しているのであって、相手の心理状態をいちいち気にしないといけないリアリティなんてものは必要ない。僕の理想でありさえすれば、それでいいのに。


「わたしの感情なんて別に気にしなくていいんですよ。その気になれば、わたしの心はダーリンの好みどおりに自由に書き変わってしまうのですから。何も心配する必要なんてないんですよ」

「そんなこといわないでよ。それはそれで寂しいんだよ。いや、それはあまりにも傲慢すぎるか。ごめんなさい。ああ、うん、でもこうして会話していけば、次第に慣れていく気がするよ。実際、僕だって家族とは普通に会話できるしね」


 最低だと思うが、「わたしの心はダーリンの好みどおりに自由に書き変わってしまうのですから」という台詞が彼女の口から発せられたとき、僕は安心してしまった。実際にそうであるかは関係なく、そんな台詞を僕にまじまじと言ってくれる存在であることに安心したのだ。


「どうしたんですか。また黙りこくって」

「い、いやなんでもないよ! 僕は意識の泥沼に浸かってるから、君は本でも読んでてよ」


 本棚を指さす。経済学の講義で買わされた分厚い経済学の教科書がいくつかと趣味で購入した哲学とかRプログラミングの本が雑多に置いてある。まぁ、僕はものぐさな人間なので、本棚に並べられた本よりも、床に置きっぱなしの本の方が多いのだが。そういうわけで、床に置いてある本の方が読む回数が多く、お気に入りの一冊であったりする。特に、経済学に関しては、ブランシャールやローマ―だかの分厚い教科書を読み直すことはほとんどないが、経済学の古典は結構好きなので床に大量に積んである。時代は新しい古典派とかニューケインジアンよりも、限界革命以前の古典派なのだ。「神の見えざる手」という厨二ワードをアダム・スミスを読まずにその語感だけで振り回し、その意味を需要と供給の均衡によって価格が決定されるメカニズムだと勘違いしている輩は滅ぼさなければならない。そこであらわされるのは自然価格にほかならないのだから。「効用」ではなく、「生産方法」こそが見つめ直されなければならない。


「またなんかひとりでニヤニヤしてますけど……それで、何を読めばいいんですか」

「えっそんなの自分で決めなよ。何か好きなジャンルとかないの?」

「好きなジャンル……ジャンルを決められるほど、小説はあまり嗜んでいないですが、ドストエフスキーはよく読みます。特に『悪霊』と『地下室の手記』が好きですね。『悪霊』はキリーロフの無神論に惹かれますし、『地下室の手記』は極端な自意識過剰に苛まれる地下の住人が愛しく思えるのです。ダーリンに似てる気もしますね、地下室の彼」

「あはは……笑うとこでいいのかなそこ。自分で似てると言いたくはないけど、気持ちはわかるようん」

「いいじゃないですか、地下室の住人。たとえドストエフスキーが否定しても、わたしはすきですよ。たとえば、リーザとの会話を思い出してみてください。あれなんか、自意識に苦悩する男性が現実の女性とコミュニケーションするのに右往左往する様がリアルに感じられて、凄く可愛く思えませんか?」

「ああ、確かにそうかもしれない。個人的に、主人公が根暗な小説は感情移入できて好きだしね。『地下室の手記』でいえば、それこそまさに主人公が自虐しているように、自分自身の屈辱感に快楽を見出してしまうような仕草、それが心地いいんだよね……」 


 会話が続けられている。僕はこんな会話でも楽しい。なぜかといえば、彼女は普通の女性とは違うからだ。僕目線でみて、会話の節々から彼女には一定の教養が見受けられるし、無口系ヒロインをぶりながら早口で自分の好きな小説のキャラを語る様には良い意味でオタク気質的なものの素養が感じられる。そんな女の子、今まで僕の周囲にはいなかった。いや、いたかもしれないけど、僕に興味を抱いてくれることは少なくともなかったと思う。


 しかし、恋愛ってこういうことなのだろうか。内容はともかく、文字数でいえば、これぐらいの会話はたとえ女性相手だとしても、今までの僕にだってできたような気がしないこともない。主にノベルゲーもといエロゲで学んだ僕の貧弱な恋愛知識でいえば、ヒロインとのコミュニケーションはもっと攻めてもいいはずじゃないか。ただ、僕は女の子には迫られたい性分なので、ここは空想彼女様に一肌脱いでもらいたい。いくら、目の前の彼女が空想上の産物だろうが、女の子に対して自分から積極的にアプローチをしかける勇気など僕にはない。だから、空想彼女様、僕にボディタッチをお願いいたします。


「ダーリン、我慢しなくていいのですよ」


 突然、後ろから抱きついた彼女が何の脈絡もなく、恥ずかしい台詞を恥ずかし気にいってくる。カーキ色の萌え袖に包まれた綺麗な手が、僕の太もも部分に触れている。背中にはパーカー越しの胸の感触が程よく伝わってくる。思ったよりも、胸が大きい気がする。やばい、股間の方に血液が充満してきそうだ。それはまずい。まずい? ははは、何を言ってるんだろう僕は。これを望んでいたんじゃないか。はやく発散しなきゃ駄目じゃないか。


 そう思いいたった僕は彼女の存在などおかまいなしに、そのぬくもりのみを感じ取り、ティッシュ片手に夢中で右手を股間にはしらせた。

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空想彼女に運命愛は存在しうるか @Roquen

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