愚か者の英雄譚
Scene.59
愚か者の英雄譚
いつしか雪は、雨へと変わる。
私がこの街に移り住んできたとき、確か、季節は冬だった。
暖冬だったその年、この街の空を雪が舞うことはなく、墨を溶かしたような色の空からは冷たい雨が落ちていた。薄汚れた窓枠に飾られた街は、随分と色褪せている。干からびた水槽を眺めている気分だった。けれど、前向きな思考をすれば、小さなテーブルと椅子と灰皿だけの、この殺風景な部屋には窓から見える無愛想なオブジェが相応しいのかもしれない。ここから美しい風景画を眺めたとしても、きっと惨めになるだけだ。色気のない電球の明かりの下で、ひとつ溜め息をついた。憂鬱はコーヒーの湯気に溶け込んでゆく。
ふと、思うことがあって、私たちの生きる現実に存在し得る最も残酷な絶望について考え始めてから、随分と孤独になって仕舞った。
「近代演劇の父」と称されるヘンリク・イプセンは、孤独という現象についてこう述べた。
“我々はみな真理のために闘っている。だから孤独なのだ。だから寂しいのだ。しかし、だから強くなれるのだ。”
私も、少しは図太くなれただろうか。
四角い窓の桟にしがみつき、ひらひらと揺れていたサトウカエデの葉が、冷たい風に剥がされ、宙を舞う。
しかし、いつから、私は孤独になって仕舞ったのだろうか。
絶え間なく鳴り響くサイレンと、廻り続ける赤色灯、そして、銃声――
「姐さんッ! いつまでセンチメンタルになってんですか!!」
「ごめんごめん、なんか懐かしくって」
散発的に放たれる銃弾に撃ち返すを繰り返す膠着した銃撃戦の只中。立て籠もったカフェでコーヒーを楽しんでいるシルヴィアは、アサルトライフルを構えて喚く肩幅の広い男に向かって、ひらひらと手を振る。
「それで、マズい状況?」
中央区画で発生した乱射事件は、瞬く間に街中に広がった。どうやら、どこからともなく現れた武装集団が見境なく暴れ回っているらしい。中央区画に向かっていたシルヴィアたちも遭遇し、銃撃戦の末に飛び込んだ建物がこのカフェだ。
「本部と北と南の分署は連絡が取れません。東も応戦中です。西はマッド・バニーが守ってると……」
コーヒーを一口、シルヴィアが尋ねる。
「すると私たちは?」
「ま、孤立してますね」
「はァ、サラッとピンチだよ。幸い戦力はたくさんあるけど。さてさて……」
雨が落ちる曇り空を女狐は眺めて、ニヤリ、と微笑んだ。
「ねェ、今とってもチャンスじゃない? このままお偉方が死に絶えるまでやらせて、そっから取り返せばさ、私たちめっちゃ出世するじゃん?」
「ダメです」
「じゃん……」
「それ絶対ダメです」
シルヴィアは大きく溜息をついて、「相変わらずマジメだなァ。そんなんだから出世しないんだよ?」
飲み干したコーヒーカップを置いて、コートのポケットから煙草を取り出した。ライターを擦る。紫煙と共に、出世欲を飲み込んで、吐き出した。
「しょうがないなァ。とりあえず、私たちは西区画に行こう。それで凶暴なウサギを捕獲して、敵の中枢を叩く。あんまり目立たないようにそこらへんの車拾って行くよ」
「東は?」
「別に気にしなくていいよ。どうせセシル坊やがいるんだから」
椅子にかけたコートを拾い上げて、シルヴィアが羽織る。
「マスター、ブランデーかラムはあるかい?」
そう問われたカフェの店主はカウンターの下からブランデーの瓶を取り出して、シルヴィアに投げる。
「ご協力ありがと」
受け取ったブランデーのキャップを開けて一口飲むと、彼女は大きく息を吸った。
「さあ、行こうか。役立たずが死に絶える前に少しでも恩を売りつけよう」
カフェのドアを押し開ける。
ゆっくりと歩みながら、シルヴィアは辺りを見渡す。
遠くで聞こえるサイレンと銃声、黒い煙を上げて燃える瓦礫、血を流す死体、雨と雪に交じる緋色の血。
その戦場で、女狐だけが不敵に微笑んでいる。
氷の都トロイカ
世界が振れ動くとき、救世主は現れるという。しかし、その物語の主人公は、必ずしも清廉潔白な聖者ばかりでない。
TROIKA イオリミヤコ @wise13
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