もしも僕が赤い林檎を剥いたとしたら

Scene.26

 もしも僕が赤い林檎を剥いたとしたら


 幾つも並ぶ赤い椅子の一脚に座って彼女は虚空を眺めていた。所々が黒ずんだ灰色の天井に、靴音が響く。後を追う様に、紫煙が棚引いた。誰もいない映画館の中で赤い髪の男が訊く。何も映っていない、弾痕だらけのスクリーンと向き合う栗色の髪の女の方を、ゆっくりと振り向きながら。

 ――ねえ、刑事さん。

「神様に会ったことは?」

「無いよ。こんなんだから、嫌われてるのかもね」

「だろうね」

「あっさり言うね。君さ、それ真顔で聞くことじゃないよ。そんなんだから友達いないんだよ」

「それは関係ねェーだろ。つーか、どうしたの? その腕」

「この間、シャウクロスの娼館で抗争あったの知ってる?」

「イカレウサギがやったやつだろ」

「あれでね、吹っ飛んだ」

 ひらひら、と手首から先のない左手を彼女は振って見せた。茶目っ気たっぷりに。

 無惨な沈黙が横たわった。

 赤い髪の男は、スクリーンの方へと向きを変える。彼の背中を見て、栗色の髪の刑事は溜め息をついた。脚を組み直す。黒いジャケットの袖から覗く、彼女の左手には白い包帯が巻かれていた。静寂に堪え切れず、ジャケットのポケットから紙タバコを抜き取り、ライターを擦る。

 運の良い方なのだ。あの抗争の後始末を強行した際、四人の部下が殉職した。いつ、どこで、誰が、自分の命を落とすかも分からないこの街で。今日、ここに存在しているということが奇跡だった。だから、彼としては、心配だったのだろう。奇跡なんて、そう何度も起こるものではないのだから。

 床に転がるジュースの瓶を蹴って、怪訝な顔で彼は尋ねる。

「……辞めれば? 仕事」

「ジョバンニ君。それって軍警辞めて君みたく始末屋やれってこと?」

「あらら、バレてた?」

「とっくに」

「意外と楽だよ、この仕事。組織とかルールとか、色々気にしなくていいし。まあ、別に本腰入れてやんなくていからさ。俺と組まない?」

「そんなの退屈で死んじゃうよ。それに、専業主婦ってやつじゃなきゃ私は厭だ」

「かないませんなァ……。つーか、相手いないでしょ。無理でしょ。その性格だし、その歳だし」

「五月蝿いよ」

「ゴメンナサイ……。てか、いいの? 寝てなくて」

「このクソッタレな街の治安を維持する、クソッタレな仕事がありますので」

「何それ」

「フフ、私は大丈夫だよ。何ならこのあとデートにでも誘ってみる?」

「おあいにくサマ、年上には興味ねェーよ」

「このロリコンめ……」

「うるせェー、年増」

「酷いな」

 紫煙を吐いた。へらへら、と彼女は笑っている。

 溜め息をひとつ。赤い髪の男が、ふわり、とはねる栗色の髪を抱き寄せて、赤い唇にキスをする。

 歩き去っていく靴音を聞きながら、女は仄かに濁った蛍光灯を眺めていた。

 その苦味は白く、漂っている。


 氷の都トロイカ。

 確証のない“いつか”を夢見て死んでいった者は、その夢に縛られ続けて生きる者の悲しみを知らない。だからこそ、人は誰かを無防備で愛せるのだろうか。或いは、愛しているからこそ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る